第81話

 もうふらふらだった。まるでKO寸前のボクサーだった。あと1発。あと1発で俺は倒れて落ちる。せめて歌の歌詞のように“疲れて眠るように”かせてくれよ。けっして“チャンピオン”なんかじゃねえけど。


「しかも誰とふたりで寝たのか。当ててあげましょうか。美砂ちゃんでしょ。どう? 白状しなさい!」


 先輩のフィニッシュ・ブローが炸裂した。終わった……。


 と思った。


 ところがどっこい、俺は倒れなかった。ボクサーが相手にクリンチするように、俺は先輩の言葉の“ある点”にしがみついた。


「違います! 断じてありません! 俺は天野さんとふたりで寝たことなんかありません!」


 嘘ではない。


 確かにこれまでこのベッドで美砂ちゃんと一緒に寝たことはある。しかも何度もだ。たぶん奥名先輩が聞いたら卒倒するような回数だろうな。

 でも「ふたりで」ではない。そう、そこには必ず久梨亜がいたんだ。


 もしこれが「久梨亜とふたりで寝たのか」という問いならば答えはyesだ。朝食を作りに美砂ちゃんがベッドを抜け出した後は、俺と久梨亜のふたりだけだからな。


 先輩は俺の目をじっとのぞき込んだ。俺はなるだけ平静をよそおう。


「嘘はついてないみたいね」


 先輩は顔を俺の目の前に突き出した。大きな目で俺の目を探るようにのぞき込む。近い。めっちゃ近い。後ろに下がりたい。けど床に置かれた箱で無理。だ、だから俺は嘘はついてませんって、先輩。


「じゃあ美砂ちゃん以外の女の人とは?」

「それもありません。俺は家族以外の人間と同じベッドで寝たことはないんです」


 これも嘘ではない。だってそうだろ? 久梨亜は「人間」の数には入らない。


 先輩はしばしなにかを考えているようだった。やがて静かに、しかし力を込めた口調で俺に向かって問いかけた。


「でもそれじゃあこの“匂い”はどう説明してもらえるのかしら」


 ところがクリンチしたボクサーが体力を回復するように、このときの俺にはこの質問に対する答えができていた。


「久梨……、羽瑠はるさんですよ、たぶん。昨日来たんです」

「久梨亜が?」

 先輩が目を丸くしている。


「あっ、決して『寝た』わけじゃないですよ。確か昨日ベッドのふちに座ったんですよ。ちょうど先輩が指さした辺り。たぶんそれでだと思います」


 これが俺の起死回生の1発。だがもちろんこれだけで奥名先輩の疑念を完全に晴らせるとは思っちゃいない。


「ベッドに座ったの? 向こうのキッチンでじゃなく?」

「いやあ、参りましたよ。始めはもちろん向こうで話してたんですけどね。俺がちょっと物取りにこっちへ来るときもしゃべりながらついてきちゃって」


 いかにも参ったというように頭をいてみせる。もちろん事実としてはそんなことはない、つまり嘘なわけなのだが。


 そう言いながら俺は最近耳にしたあることを思い出していた。詐欺師ってのは言うこと全部が嘘であるわけじゃないって。たくさんの本当の中に巧妙に少しの嘘を混ぜてくるんだって。あれ? それって俺が今やってることじゃないのか? もしかして俺詐欺師? もしかして会社勤めよりそっちが向いてる?

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