第82話

 先輩の目からはなにかを怪しむようすはすっかり消えていた。やった! 乗り切ったんだ! 俺に対する先輩の史上最大の猛攻を、みごとに自分の力だけでしのぎきったんだ!


 そのとき奥名先輩はふと自分の腕時計に目をやった。


「大変。もうこんな時間。起きてお昼ご飯作らなきゃ」

 先輩はもぞもぞとベッドから起き出そうとする。


「ちょっと待ってくださいよ。まだちっとも寝てないじゃないですか」

「ううん、もういいの。目はちょっとしか閉じてないけど一応横にはなったんだし」

「でもそんなんじゃあ疲れなんか取れませんよ」

「いいの。だって私自身は疲れを感じていなかったんだし。瀬納君に言われて『もしかしたら疲れてるのかも』って思っただけなんだから」


 あっという間に先輩はベッドから出てその脇に立った。


 俺はそれ以上先輩に「寝てください」と勧められなかった。もし強引に勧めたら先輩は俺が「きっと先輩は疲れてんですよ」って言ったことを話題にする。そうしたらあの“白く曇ったコップ”の件を蒸し返されるように思ったからだ。


 先輩はキッチンに行き、予告通り豚の生姜焼きを作った。皿の横に添えられたキャベツの千切りだけでなく、もう一品としてレタスとトマトのサラダも作ってくれた。


 ただ最後になってひとつ問題が起きた。炊飯器の中身が空っぽだったのだ。まあ確かに俺の当初の予定では昼は先輩とファミレス行くつもりだったんだから飯炊いてないのは当然なんだが。


 しかし先に俺は先輩に「お昼をご馳走するつもりだった」と言った。それを聞いた先輩は“ご飯は炊いているだろう”と思ったのだ。それが炊飯器の中身が空っぽだったので怒られた。なんとか言い逃れた俺は冷凍してあったご飯を解凍することでその場を乗り切った。まあこのあたりのことは本筋とは関係ないから端折はしょった記述になってしまって申し訳ない。


 先輩の生姜焼きは旨かった。美砂ちゃんの作る生姜焼きも美味しいけど、それとはまた違った味で美味しかった。


「すごいですね。先輩料理上手なんですね」


 食後のお茶を飲みながら先輩の料理の腕をめた。お世辞じゃなくて本心から。


「ありがとう。もともと料理は好きだったんだけど、最近料理教室に通い始めたから、それでうまくなったのよ」


 にこやかに答える先輩。しかしこの言葉が一瞬にして俺の体を凍り付かせた。


 先輩は「最近料理教室に通い始めた」って言ったんだ。なぜ「最近」通い始めたのか。以前には必要なかったのに、最近になって通おうとする理由ができたからのはずだ。ではその「理由」とはなにか。それはあのデパートでの俺の推測が答えを与えてくれる。すなわち「先輩はあの男と結婚しようとしている」ってことだ。


 ふたりの間に微妙な沈黙が流れた。先輩は不思議に思ったかもしれない。それまで機嫌良くしゃべっていた俺が急にひと言も発しなくなったんだから。先輩のほうに喋らなくなる理由はない。ただ俺のほうを不思議そうに見ているだけだ。


 なんとも形容しがたい雰囲気がその場を包み込んでいた。

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