第70話

 バスが停まった。中から何人かの人が降りてくる。

 そして、いた! その最後に奥名先輩の姿があった!


 これで第2の勝負「言っても実際には来ないかもしれない」は×確定だ。


「来ちゃった」


 先輩の第一声に戸惑う。おかしい。普段こんなお茶目なセリフを言う人じゃないはずなんだけどな。


「こ、こんにちは」


 不意を突かれた形になって挨拶がぎこちなくなってしまった。ほんとどう対応したらいいんだ。


 先輩の第一声を聞くまではあくまで単なる“職場の先輩”として応対しようと思ってた。しかしあのセリフだ。あれは決して単なる“職場の後輩”に対するもんじゃない。言い方はどうかとも思うが、あれはまるで“押しかけ女房”みたいじゃないか。


 しかもこの人、彼氏いてるんだよな。めっちゃラブラブの。そんな人がこんなにあっさりと他の男のところへ来ていいのか? あんなセリフ吐いていいのか?


 ざっと先輩のようすを観察する。先輩はデパートで会ったときも持っていたハンドバッグに加え、スーパーのレジ袋のようなものを下げていた。なにやら結構入ってる。


「先輩、なんですか、その袋」

「ああ、これ? お昼も近いし、お昼ご飯作ってあげようかって思って」


 ニッコリ笑う先輩。あのデパートのことがある前の俺だったら、たぶん舞い上がってしまっていたと思う。

 でも今の俺は複雑な心境だ。いったい先輩はなに考えてるんだ。彼氏いてんだろ? 俺のことは職場の後輩としか思ってないって自分で言ってたんだろ?


「俺、持ちますよ」

「そう。じゃあお願いね」


 先輩から袋を受け取って中を見る。たしかに食材だ。バラ肉なんかもある。


 ちょっと待て。昼飯を作るってことは大博打の第3の勝負「来てもアパートは外観を見るだけで中には入らないかもしれない」は敗北間違いなしってことじゃ……。


「楽しみにしててね」

 先輩の楽しそうな声。「はあ」としか返せない俺。


 後ろをちらっと見る。久梨亜がいる。彼女の言葉がよみがえる。


「だからなにかあるんだよ。“なにか”が」


 ほんとに「なにか」があるんだろうか。先週あの男とあんなに親密そうなのを見てしまったからな。では今日のこのようすはなんだ? やっぱり俺のことは恋愛対象として見ていない? それともまさか“天然”なのか? そんなことがあり得るだろうか。あの仕事をバリバリこなすスーパーウーマンの奥名先輩に限って、プライベートでは“実は天然でした”なんてことが。


「なにしてるの。行きましょう」


 先輩の言葉にハッとする。それは仕事の場でモタモタしがちな俺にかける言葉の調子によく似ていた。思わず俺までも仕事モードになって背筋がピンとなる。


 先輩は俺を待たずに歩き出していた。……アパートとは全然違う方向に。


「あっ先輩、どっち行ってるんですか。そっちじゃないですよ」


 あわてて先輩の手をつかんで正しい方向へ誘導する。つかんでから“先輩と手をつないでる”って気がついてすぐに離してしまう。うわあ俺、奥名先輩と始めて手を繋いじゃったよ。どうしよう。当分手は洗えないな。


「あっごめん。そういえば方向聞いてなかったっけ」


 先輩がペロリと舌を出した。うーむ、もしかしてやっぱりこの人“天然”なんじゃないのかな。

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