第63話

 俺の一世一代の大博打おおばくち、「奥名先輩に俺の住んでいるところを教えても俺と美砂ちゃんと久梨亜が同居していることは知られない大作戦」は緒戦からつまずいた。


「何線で行くの? 最寄り駅はどこ? そこからどうやって行くの?」

 先輩、もう俺んち来る気まんまんじゃないですか。


 しかしそのときだった。離れたところから先輩の名前を呼ぶ声がしたんだ。しかも若い男の声で。


「おーい若葉。なにしてる。行くよ」


 先輩の下の名を呼んでる。かろやかで清々すがすがしい声。いったい何者?


 思わず声のするほうを見た。そして俺はそこに見たんだ。

 高身長のイケメンの姿を。


 先輩も振り返ってそいつに手なんか振ってる。


「じゃあ瀬納君、詳しい話はまた会社でね。次の日曜空けておいてね。あっ、それから……」

 そこで先輩は急に声を潜めた。


「ホワイトデーのお返しはそのときでいいから」


 そう言うと、先輩はうれしそうなようすでそのイケメンのところへと駈けていった。


 先輩は去って行った。そのイケメン野郎となにやら話ながら。腕なんか組んじゃいながら。そして俺はそのようすをただ呆然ぼうぜんと見送ることしかできなかった。


 俺の体から力が抜けた。


 男が……、先輩に男がいた。そのことを俺は認めることができなかった。

 いや、確かに奥名先輩ほどの素敵な女性ならボーイフレンドのひとりやふたりいてもおかしくない。

 でもあの告白の前、雑談の中で先輩は言ったんだ、「今は好きな人はいない」って。

 俺はそれを信じた。だから告白した。そして振られた。


 そういえばあの日の帰り際に先輩はこうも言った。「瀬納君は瀬納君で自由にやったらいいんじゃないの。私は私で自由にやらせてもらいますから」って。


 もしかしたらあの時点で既に先輩には密かに想っている人、もしくは言い寄られている人がいたんじゃないだろうか。そしてあの「私は私で自由にやらせてもらいます」が決断への背中を押してしまったんじゃないだろうか。


 きっとそうだ。そうに違いない。


 あれだけのイケメンだ。俺が女だったら確実にれてる。そしてやつと先輩は恋人同士になったんだ。


 やつが先輩の下の名を呼ぶときの馴れ馴れしさ。やつのところへ駈けていく先輩の軽やかな足取り。互いを見ながら話すようす。腕を組む仕草。あれは相当親しくなってないとできない。


 いや待てよ。先輩はなんで服をあんなに熱心に見ていたんだ? あれはまるで……。


 俺はそこで自分の思考にストップをかけた。それ以上考えたくなかった。

 認めたくなかった。でもどうしたって思考はその先へ進もうとしやがる。だってあのようすはそうとしか考えられないじゃないか。“新婚生活用の服を選んでいる”って……。


 俺の体から魂が抜けた。


 俺はただ呆然ぼうぜんと立ち尽くしていた。美砂ちゃんと久梨亜が戻ってきたとき、俺はまさに生けるしかばねと化していた。

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