第二夜 下

 僕は基本的に仕事というのは、たとえ親会社、企業が同じであろうと、職場、職場で全く違うものだと思っている。(といっても学生時代は、三種類程しかバイトしていないし、社会人となり、新入社員として今の会社に入社して以来、他の社に入ったこともない僕が言うのも、なかなかどうして滑稽な話だが)

 よってここで違う職場、つまり理解もされない仕事を語ったところで、全くもって無意味なので仕事の内容について語るつもりはなく。結論のみ言えば、その日の仕事は、もうそれはそれは滅茶苦茶に忙しかった。 

 そもそも、新入りに仕事を教える。という動作だけでも、仕事量が二倍になっているのだ。

 人が増えても、仕事を覚えさせるまでは、仕事量は寧ろ増えるとは、誰が言ったか知らないが(もしかしたら自分で勝手に作っただけかも)良く言ったものだ。

 そんなこんなで、退社時間が、何時もよりも二時間も伸びてしまい今に至る。(ちなみに時間については、逆算して何時もの退社時間がバレてしまい、やれブラックだ、社畜だの論争に使われてしまうので、あえて黙秘する。別に小さい頃から夢見ていた仕事……。だなんてことは決してないが、僕は職業に関してのみ言えば、現状、非常に満足している。そんな状態を周りから否定されたり、羨ましがられたりする、筋合いはない)

 最終的に派遣社員の智恵ちゃんの心底申し訳なさそうな顔での

「本日は大変ご迷惑をかけ、申し訳ありませんでした」

 を聞けたし、役得ではあっただろう。

 とは言うものの、二時間も遅くなってくると、自宅への道であるこの路地は、男と雖も一人だと少々怖いものがある。

 というか普段の帰宅時間でも、この道は少々不気味だ。

 なんと云えばいいのだろうか、どことなく悪いもの(もちろん不良などではない、僕からすれば不良でさえ全く持って怖いものだが)が溜まっているような雰囲気があるのだ、この路地は。

 よって必然的に、どんどん、どんどん早足になっていく。

 今になってみれば、ここで早足になってしまったのが悪かった。いや、良かったのだろう。

 もし、ここで呑気にゆったりと歩を進めていれば、こんなマッチングはしなかったであろうから。

 路地を進む進む右に曲がり左に曲がり早足で駆けながら、何個目の曲がり角であるのか、あの会社に入社が決まりこの場所に越してきた今でも、まだ正確にはわからない、ただ駅から自宅の距離としてはちょうど半分位の位置であっただろう。

 そんな角を曲がった瞬間。

  

 そこには今、出来上がったと直感で分かってしまうほど新鮮な死体と返り血を浴びているこれもまた直感で分かってしまうほど鮮烈な殺人鬼がいた。

 

やばい


 その一言が頭の中を支配する。

 これは文字通り死ぬほど不味いだが大丈夫だこっちは曲がった瞬間に気付いて距離は20mほどあるそしてさらに幸いなことに向こうはまだ気づいてない逃げれる逃げれるんだ! よし振り返りそのままダッシュだ。よーいスターt

 どさっ、とその場で大きな音が立つ。何の音だろうか? なんてことはない、僕が靴紐を踏みずっこけた音だ。

 え、こけたのか? 僕はこんな状況で? いや自分で自分の状況さえ分かっていないので正直反省の余地すらない。

「ん、なぁんか気配がすると思ったが、放っておいたら目撃者かよ。ッチ、めんどくせーなぁ。こんな冴えねぇ野郎殺バラしても全然逝けねぇんだけどなぁ。んまぁそういうわけで死んでくれや」

 そんな、物騒なこととを吐きつつ、殺人鬼はこちらへゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。

 逃げなきゃ、逃げなきゃ。

 心も体も全力で、警報を鳴らしているのに、僕はこけた体制から一歩も動けないでいる。

 そこでようやく、腰を抜かしているということに気付いた程、僕の頭はパニクっている。

 殺人鬼は、一歩、また一歩と近づいてきて、遂に僕が一歩も逃げることを許されぬままの状態で目の前まで来た。

 こうなれば、もう僕の頭の中では、殺人鬼などしている癖にこいつ意外と優男な顔しているなぁ……。とか、ああこういうのアーミーナイフっていうんだよな、こんな物を得物にしているのなんて、映画でしか見たことねぇよ……。とか、向こうに転がった死体の女の人は、だいぶ綺麗な亡骸だな、電灯に照らされている血もまた綺麗だ。

 ……血。……血?

 「命乞い位は聞いてやるよ。さぁ、どんな声で鳴いてくれるのかな?」

 目の前の男はそんな戯言を言ってくる、そんなもの、言われるまでもないじゃないか?そうだ、血、血液だ。目の前に零れ落ちているこれをノガステナドナイダロウ

 「血だ……血を飲ませてくれ。これが、最後でもいいから、血…… 血を飲ませてくれぇぇぇぇ」 

 僕は、そう叫びだし、呆然としている男の横を悠々と走り過ぎて、目の前の死体へと駆け寄った。

 目の前に極上の血がある…… いや、血の良し悪しなんて、今の僕には分かりっこない。しかし、少なくとも今の僕は断食一か月を乗りきった後のイスラム教徒だ。

 目の前にある料理は、全て御馳走でしかない。

 膝を突き、今も尚、どくどくと、血が流れている、先ほどのアーミーナイフで一突きされたであろう心臓へと口をつける。 

 舐める、甞める、嘗めまわす

 吸う、喫う、啜る

 まずい、まずい、こんなものとてもじゃないが、飲めたものじゃない。そうだ常識的に考えても血が飲みたいそんなもの間違っていたであろう。そう、そんな味だ。そんな味なはずなのにもかかわらず。

 この時間が、永遠のようにも感じられるほど甘美な味。この空間は断絶された自分一人の楽園だと錯覚して仕舞うほどに豊潤な舌触り。

 血が高ぶり、興奮する。

 既に自分の中の本能は、大義を為す者の意志よりも固く勃起しており、恋い焦がれる者の気持ちの大きさより、多くの量射精している。

 食う、喰う、貪り喰らう

 ここは、現実で正しいのだろうか?

 ソンナコトモワカラナイシドウデモイイ


 だんだんと、笑い声が聞こえてきてることに気が付いた。

 どうやら、このタイミングで笑い声が聞こえるとは、これは本当に天国なのか、それとも、本気で僕は狂ってしまったのだろうか。

 しかし、冷静に聞けばその声の主は、先ほどの殺人鬼だった。

「ハハハハハハハ、ギャハハハハハハ」そんな風に鬼は快活に、凄惨に笑う。

「ハハハ、そうか、そうか。お前はこっち側だったか。Welcome to the underworld ようこそ、こちらの世界へ。もう逃げられんぞ、もう逃げられないぞ、一度味わえば、二度と逃げられない。お前は上手く隠していたようだけど、もう無理だ。ここから先のお前の人生は、修羅道でしかない。血と肉と命と魂、これらを踏みにじって、生きて行くしかない」

 ここで一呼吸置き、そのおぞましい笑顔を真顔にして続けた。

「安心しろ。同族殺しは好みじゃない。俺の殺さない例外三つの内一つだ。じゃあな吸血鬼。また近いうち逢おう」

 僕は、そのまま唖然としている他なかった。

 そうして、上を向けば綺麗な満月が。

「そういえば、満月も物語の開始の常だな……」

 なんて、見当違いな言葉を紡ぐ。

 物語には終わりがあることに、気付かないまま。

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