第二夜 上

 物語の始まりは、大抵めまいの起こすほど長く、それでいて、けだるくなるほど急な坂を、玉の汗を掻きながら、登っていくのが常である。

 というのが僕の持論であるが、残念ながら僕が通う会社は、駅から10分、平坦な大通りをゆったりと、歩けばいいだけだ。

 小さいことだが、こういったところも、現実には劇的な、物語的なことは起こらず、我々は、モブ以下の存在でしかないという、僕が持つ「ぼくのかんがえるてつがく」に拍車をかけている。

 そんな散々な言い方をした道中だが、これがまた、悪いわけではなく、ちっちゃいちっちゃい小売店(といっていいのか?)や、お弁当屋さん、パン屋さん等には、かなり世話になっており、名前も憶えられている。そんなよくある郊外だ。

 今日も『あら今朝はパンなのねぇ……。今とお昼時は、流石に無理だけど、お仕事終わりにでも寄っていきなさい、余ったパン、サービスしちゃうわ』などと、店主のおばちゃんに、言われながらの出社になった。

 そうこうしていると後ろから「おっはー」と元気な声が鳴り響く、この真夏の日差しの如く、明るい声は、同期の桜井静だ。

 【桜】という、お淑やかそうな漢字に、【静】という、もうまんまな漢字の名前である癖に、あいさつの調子から分かるように、とにかく元気で、超がつくほどアウトドア派、そしてその身体も慎ましやか、というには、あまりに蠱惑的でグラマラスな体系である。名前とのギャップこそあれど、場所が場所、時代が時代ならば、間違いなく上玉と称されていたであろうし、実際問題、同期、先輩、後輩、果てには男女も問わず、人気のある女だ。


――あぁあの豊満な躰に流れる液を吸いたい――


 そんな誘惑が、肉体を、そして精神を、駆け上がり蝕もうとする。

 そうだ押し倒してしまえ、男のお前なら其れができるはずだ。そうだ、それだけでこの気持ちが、楽になるのだ。それならば、そんな行動だって悪くはない。

呑め、喰らえ、貪れ、呑め、嘗め尽くせ、しゃぶれ、頂け、摂取しろ、服しろ、吸え、喫え、吸い尽くせ

 微かに動き出した、その体を、なけなしの理性でとどめ、一度大きく息を吸って、深呼吸。そうすることで、体の主導権を理性へと戻す。

 そうだ、これなんだ。ある人は【痛い】と一笑に付し、またある人は【気持ち悪い】と蔑みの目を僕に向けるであろう。

 しかしこれが、僕なのだ。傍から見なくても、気味が悪い。こんな人間が、存在してしまっても良いのだろうか?


 いけない、いけない、こんな自己嫌悪を、している場合ではない。

 そう、今は挨拶をされたのだ。理性を取り戻すのに2秒、自己嫌悪に1秒かからない位、時間をかけて、ようやく僕は

「おはよう桜井君」

 と気のない返事を返すことができた。

 それに対して桜井は

「なに、ぼぉとしてるのよ、何? もしかして、私のパーフェクトボディに、欲情でもしちゃってたわけ?」

 等とおっさんみたいな冗談で、当たらずとも、遠からずなことを言ってくる。そう、この女はそういう女なのだ。自覚的なのか、それとも無自覚か、どこか鋭い、僕なんかに、構っている時点で、間違いなく後者であるのだが……

「そうそうきみがあまりにもみりょくてきだったからね」

 まぁ、とにもかくにもこんな時には、こんなふうに、適当に返してしまうのが安牌であろう。

 すると、こちらの予想通りに

「ちょっと、ちょっと、朝からこんな美人捕まえといて、そんな適当な返事はないでしょう。せっかくなんだから、会話を続けようとする努力をしなさいよ。そんなんだから入社して5年、浮いた話もないのよ」

「余計なお世話だよ、それに浮いた話がない。なんて誰が言ったんだよ。僕だってもしかしたら、会社とは無関係なところで、彼女の一人や二人作って、隠しているだけかもしれないじゃないか」

「んじゃあ、いるわけぇ……?」

 などと、いわゆるジト目で、面白がりながら聞いてくる。

 そんな目で、聞かれてしまえば、思わず目をそらしてしまうのが僕の性で

「ほぅら、居ないんじゃない。だいたい、本当にそこまで本気で隠しているなら、こんなところで話題にも出さず、スルーしてるところでしょう?さぁさぁ、こんなしょーもない話してると、遅刻しちゃうわよ。無駄話はタイムカード切った後ね」

 とさっさと先に行ってしまった。

 思惑通りに話題が逸らせたのは僥倖だったが、どこか釈然としないまま、彼女は去っていった。


 自分のデスクにつくと、空席だったはずの対面のデスクには、見知らぬ女性がせっせと段ボールから仕事の道具を取り出して整理している。

 新入社員? にしては、今は九月なのだが? 

 いや、最近は諸々の理由で、秋入社の企業も増えているそうだが、我々の会社は、今のところはそんな予定もなく、普通に四月に入社してお仕事を教えていくというパターンだったはずだ。

 ならば中途採用であろうか? うんその辺が妥当であろう、中途採用ということは、前職に就いていた。ということになるから、それにしては若く二四,二十五歳辺りの年齢であろうが、今のご時世一、二年で辞めて転職どころか、二、三か月で辞める何てこともあるのだし、別に気にすることでもないだろう。

 疑問が氷解して気が緩んだのか、それとも、元々沸いてた欲望が丁度限界に達したのか、この無駄な肉はなく、それでいて、芯が通っているのが分かる、凛として造形に、その首筋、手首、太腿、ありとあらゆる、血の通っているであろう箇所を服越しにすら凝視してしまう。

 これは無理だ。もう限界だ。タエラレナイ。

 と真向いの女性に対して、思案を巡らしていると、向こうもこちらに気付いたようで

「初めまして、今日から御社に配属されることになった派遣社員の佐城智恵さじょうちえと申します。どうぞよろしくお願いします」

 と挨拶をしてきた。

 そのおかげで、殆ど傾いてた心はニュートラルに戻り、正常な思考へとシフトしていった。

 派遣社員か、なるほどとんだ答え合わせもあったものだ、そこまで至らなかった、自分の頭の容積の小ささにも驚くが、うちの会社が、派遣社員を募集していたことにも驚きだ。

 少なくとも今までは、別の部署も含めたところで、派遣社員が来ることはなかっただろう。

 という風に空回りともとれるくらい、脳内での思考をズラしたが、思考のレールのズラした先で直面したが、僕は派遣社員に対応するマニュアルを知らない。

 ということで、ここで僕はどういった対応を取ればいいのか、まったくもって分かっていないわけだが、とりあえず年下であることは、確実であろうしこれから教えていく側ということもあるのでここは

 「派遣社員の方だったんですか! すいません、派遣社員の方と、ご一緒に働かせて頂いたことないので、僕からこうしろ! なんて言うことは出来ませんが、どうかよろしくお願いします」

 滅茶苦茶下手したてだった。

 まぁしょうがない、血の件とは違うが僕はこういう人間だ。あまり強気に出て裏目に出たりするのは、嫌いなのだ。

「指示をしてもらえない、となると困りますね…… 部長からは『向かいの席の奴から仕事のやり方を一通り教わりなさい』と言われてきたのですが……」

 なるほどそういう生き方をしているようでは、このように体よく、お仕事を押し付けられてしまうらしい。

 

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