第3話 衝撃を受ければ、歯車はズレる

 布告役の時計ウサギは大変だ大変だと叫びながらハートの女王の城に駆け込んできた。走りながらでもそれだけの声を出し続けられるということは、肺活量がとんでもなく大きそうだ。

 そしてカオス・アリスの部屋に飛び込んでくるなり、

「きゃあああっ!」

 と別種の叫び声を上げた。

 整列する黒い子鬼の集団を見れば、そうもなるだろう。なにしろカオス・アリスの想区では彼女は戦わない。処刑されそうにこそなるけれども、空白の書の持ち主が救出してくれるし、役目は現実から逃げて眠り続ける少女を起こすだけなのだ。

安全は台本が保証してくれる。

 というのに、訳の分からないことが起きまくりで、不安で不安で仕方がないのだ。しかも代用ウミガメと競争を始めるという運命の出来事からは、何分も遅れている。

 どうして予定通りに動いてくれないのか! 私は時間に厳しいキャラクターとしてこれまで生きてきたのに!


 カオス・アリスもまた、驚いていた。

 なぜここに時計ウサギが飛び込んでくるのだろう?

 まだ城の外には、ストーリーテラーに定められていないことは何もしていない。

「私を起こしに来るのはもう少し先、じゃなかったの?」

 と尋ねると、時計ウサギは豊満な体を覆う白い布地に縫い付けられた時計を指さし、騒がしく喋った。

「それはまだですよう! あと3時間5分と36秒後のはずなんです! ああっ、ウミガメさんとの競争を始める時間からは12分と25秒が経っちゃいましたよ! どうしよう!」

「ええと、時計ウサギさん、何故あなたは時間通りじゃないことをしているの? いえ、今は運命の書の通りにも、行動していないように見えるわ」

「そそそ、そいつらですよう! そいつらと同じ黒いのが、戸惑いの谷から不健全な街に攻めて来たんです!」

 人差し指を伸ばした手をぶんぶんと振り、ヴィランを示す。つまり不思議の国に、この部屋にいるような黒い子鬼が出現したということらしい。

 ここはカオス・アリスの想区なので、主役やその周辺の登場人物は、ヴィランの存在くらいは知っている。

 しかし予定と違う時間に出現したり、誰の支配下にあるかが分からなかったりするヴィランは恐ろしい。想区の住民にとっては、ストーリーテラーによる粛清の代理人そのものなのだから。

「アリスちゃん、もう、けしかけてたのかにゃ?」

 ダイナが問う。先ほど作り物のカオスではなく、真のカオステラーとなることを宣言したばかりなのだから、悪さをしているのではないかと思うのも当然だ。

 カオス・アリスはゆっくりと横に首を振って否定し、答えとした。

 同時に、自分が何か原因となるようなことをしていたかを、素早く振り返る。

 まだ運命には、そう大きな亀裂は入れていない。この城の中くらいでしか勝手なことをしていないのだ。

 この想区は、元々がアリスの物語をベースにしたカオスな分岐創作なのだから、ちょっとくらい物語が変形したところでヴィランを放つほど、運命に厳密ではないはずだ。

 それとも、見誤ったのだろうか?

 『この』想区がひどく不安定で脆く、崩壊が思ったよりも早い? それだとカオステラーの力で運命を操作することが間に合わないのかもしれない。

 やや強めに、親指を噛む。

「あ、アリスちゃん、大丈夫かにゃ?」

「考えているだけよ」

 無意識に目が鋭くなっていたらしい。アリスには似つかわしくない程に。

「そのヴィランと、赤の女王や空白の書の持ち主『役』は戦っているのかしら?」

「不健全の町の入り口まで歩いていたんですよ、そしたらこっちにヴィランが沢山来たから、逃げて来たんですよう。方向からすると、赤の女王様達ともぶつかってますよきっと」

「ありがとう。じゃあ、赤の女王達は予定通りにさざなみの草原でヴィランと戦ったのかもしれないわね。私はそこにいないけれど」

 ヴィランの現れた原因として考えられる理由の一つは、決められた展開へと強制的に運命を進めるような『仕掛け』が動いてしまったということだ。

 カオス・アリスと配下のヴィラン達が時間通りにやってこないので、想区が代役を用意して襲撃させたのではないだろうか。

 だとすれば、何の心配もない。カオステラーとなって想区の支配を終えたときには、ブギーヴィラン程度は簡単に乗っ取っることが出来るのだろうから。

 だが。なんだか、嫌な感じがする。予感めいたものが黒い影となって、周囲を付き纏うかのようだった。

 不思議の国に現れたというヴィランは、ストーリーテラーや自分以外の誰かによるものなのかもしれない。


つまり。


「カオステラーが二人いることも考えられるわね」

 カオス・アリスは掌を広げ、配下のヴィランに振りかざした。

ぼわんと煙の塊となって、軍勢が消える。

 これは出さない方がいい。しまっておく。

 カオス・アリス以外のカオステラーがいた場合、向こうにとって脅威となるのはジャバウォックに次いで自分だ。

 想区で起こることや結末を変えようとしている者同士であっても、考えまでが同じとは限らない。

「これからは慎重に動かないといけないわ。もしカオステラーがいるなら、私のことを気付かれない方がいいわ」

 それに何となく、敵対する可能性の方が高いだろうな、と直感していた。

「どどど、どういうことなんですか、さっきのは何なんですか! ああもう、どんどん予定から時間がずれていく!」

 状況の分からない布告役が、ヒステリーのように喚く。

「時計ウサギさん、落ち着いて」

「だってだって、予定通りに行動するのは私の役目なんですよお? それに、そうじゃなくっても、みんな生まれたときから『運命の書』の通りに生きているじゃないですか」

 時計ウサギは、ひたすらに運命に固執している。

 そもそも想区世界の住民は、生まれたときに与えられる『運命の書』に書かれた役割の通りに生きることに、何の疑問も抱かない性質がある。その上で、時間に拘るような人物としてすごさなければならないとなれば、それに反することは気になって気になって仕方がないのである。

「ううーっ、眠りネズミさんはこんな時にも寝ているしっ。あなたは今頃、カオス・アリスの仲間として城から出ていなくちゃいけないのにっ」

 時計ウサギが苛立ちながら、ベッドにもたれかかる眠りネズミの元へとつかつか歩いていく。

 ああ、怠惰の度合いも格別な眠りネズミが許せないのだろう。腹いせに布告役のメガホンでたたき起こすのかもしれない。カオス・アリスとダイナがそう思って見ていると、

「もーこんなにずれたら私はどうしていいかわかんないですう! 予定通りに行ってないことが沢山なんだから、ちょっとくらい増えてもどうだっていいに違いないんですよっ。もう寝る!」

 そう言うなりジャンプして空中をくるりと回り、背中からボッフンとベッドに落下した。衝撃で背中の揺れた眠りネズミは、やはり寝ている。

「おやすみなさい!」

 時計ウサギがやけくそ気味にいい、目を瞑る。すぐに、寝息を立て始めた。

「これはどういうことなのかしら」

「多分、几帳面な人ほど一か所でも綻ぶとどうでもよくなっちゃうってことにゃ…」

 先ほどまでの騒がしさがウソのように、部屋の中が静まり返った。

「で、これからどうするにゃ?」

 行動を促すように、ダイナが聞いてくる。

「そうね、正体不明のヴィランが気になるわ。ストーリーテラーのものなのかも分からない。だから、まずは赤の女王の元へと行ってみる。まだ予定の場所にいれば、だけど」

「運命の書に書かれた時間からは、ずれていると思うにゃ」

「赤の女王はヴィラン如きには負けないわ。襲撃に私はいないけど、台本通りに行動しているかもしれない」

 まずは『怠惰の国のアリス』の世界で起きた時系列に沿って、赤の女王の足跡そくせきを追うことにした。

 カオス・アリスとダイナがテレポートし、後には気持ちよさそうに眠るネズミとウサギが残された。

 事件が起きている中で、いま最も幸せなのはこの二人なのかもしれない。



 さざなみの草原には、遠くの野山を風が撫でたことで発生する低い音が唸っていた。足元には爽やかな草の音が広がっている。

 上を見上げれば、怠惰な姿をしたカオス・アリスとは正反対の快活な青空があった。

 この場所はいま、突き抜けて平和そのものだ。

 しかしカオス・アリスの予想通りに、さざなみの草原で何かが起こり、そして終わった後のようだと分かった。

「争った跡があるわね。踏み荒らされている草が何か所かある」

「焦げているところは赤の女王の技で、かにゃ」

 人間同士が争う戦場とは異なり、ヴィランと戦った場所には、形跡だけが残る。倒されたヴィランは霧のように消えてしまうため、大軍を倒しても死体の山が築かれることはない。

「敗軍の姿が見えないということは、赤の女王が勝ったか、戦いながらどこかへ移動していったということね」

 辺りを調べていたダイナが、あっと声を上げた。

「見て、アリスちゃん。ここには血がついてるにゃ」

「ヴィランの血は残らない。だから、これは人間のものね」

 どうやら、戦いの中で怪我をした人物がいるようだ。

 本来の運命通りの出来事では、赤の女王、白の騎士、そして『空白の書』の持ち主達が参戦したことになっている。

「怪我をしたのは運命の通りなのかしら? それとも予定外のことが起きているからなのかしら?」

 それすらもまだ分からない。

 ダイナと共に進んでみて、答えというゴールを目指さなくては。


 何が起きているのか分からないし、この先も見通しが利かない。

 少々物騒な気配もするが、これはまるで、未だかつて読んだことのないアリスの物語のようだ。

 自分がカオステラーになったせいなのか、はたまた違うことが影響しているのかは、まだ分からない。

 ただし不安や恐れはなかった。

 これは一方的に仕掛けられたゲームではない。自分もまた駒を動かしたのだから。

 不思議の国の主人公として作られただけでなく、追加の運命アドオンにも耐えきるように作られたカオス・アリスは、オリジナルの『怠惰の国のアリス』よりも聡明で、冷静だったのだ。

 これから、戸惑いの谷を通って不健全の町へ。ダイナを従えてカオス・アリスは進む。

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