第5話 症状

 その日からさらに症状が悪化しました。十年やっていた魚の仕込みの手順を間違えるようになります。

 ①穴子あなごの仕込みは一般的に関東は「背開きせびらき」で関西は「腹開きはらびらき」です。江戸時代の武士の切腹を連想させる事から、このような習慣になったと言われていますが、店の方針によっても変わります。私が働いていた店は基本的に「背開き」でした。忘れるわけがないのですが、穴子を置いたまな板の前で呆然と立ち尽くすようになります。

 ②基本中の基本である小肌こはだの鱗の取り方を忘れる。ほぼ毎日の仕込みです。ありえません。

 ③文字がゲシュタルト崩壊を起こして読めない。頭に入ってこない。その為ネットや本で自分の症状を調べる事ができない。

 ④予約のお客様の人数を時間帯によって調節する事ができない。簡単な人数や時間の足し算、引き算ができない。

 ⑤会話の前後の記憶を忘れてしまい、接客が苦痛になりお客様から逃げたくなる。

 ⑥食べ物が味のないガムを食べているようで、繊細なネタの微妙な塩加減がわからない。味覚がないので、食べる喜びも感じられない。

 ⑦物事を論理的に思考し、記憶する事ができない。

 この頃は自分が若年性認知症になったのかもしれないと思い込むようになり、本当に怖かった。日常の当たり前のことが徐々にできなくなっていく恐怖は凄まじいものがあります。

 また休めない事情がありました。若い新人が逃げてしまい、人手が足りていませんでした。

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