第4話 嘘

 降り続く雪が、風に煽られるままに舞い踊っている――まるでこちらを嘲笑ってでもいるかのように。

 夜闇に白のコントラストは幻想的だったが、それを綺麗だと感じる余裕が今の保科隼人ほしなはやとにはない。ひとりでに体が震え、歯が勝手に鳴り出す。

 翌朝までには止むという、テレビの気象予報士の言葉が頭をよぎる。隼人が父親によってベランダに締め出されたのが、午後十時半頃――まだまだ先は長い。

 先ほどから屋内で悲鳴や怒声、鈍い物音などが入り混じって微かに届いてくる。父が母に暴力を振るっているのだ。父は夜毎に酒を呑んでは母に手をあげている。隼人は必死で制止しようとしたが、わずか六歳の彼が腕力で父に敵うはずもなくここに至る。

 隼人は寝巻き姿で、上には何も羽織っていない。真冬の夜にその格好は堪える。

 凍え死にしそうな寒さの中、隼人の頭にあったのは父に対する憎しみと、母を守れない自分の不甲斐なさだった。

 もっと自分が大きくなれば――もっと自分が強くなれば、父の暴力から母を庇えるようになるのだろうか?


 いや――いっそのこと、あんな父など排除してしまえば――そうすればもう、母が父を恐れ、怯える必要は永遠になくなるだろう。


 だが隼人は、すぐにそんな黒い思考を打ち消す。暴力に頼ればそれは父と同類だ。父のようにはならない、なってはいけないと自分に言い聞かす。

 自分はたとえ成長しても、決して誰かを感情に任せて傷つけたりなどしない。父を反面教師として見て生きていく。寒さに震えながら、隼人はそう心に固く誓った。




 毎朝、洗面所の前に立つのが苦痛になってきた。鏡に映っているのは先日、十四歳になったばかりの自分だ。

 長じるに従って隼人は、男らしい顔つきになった。身長も体格も、父とそう変わりなくなっていた。それは幼い隼人が望んだ変化のはずだった。父に負けないくらいの力があれば、母を守れる――そう思っていたはずだった。

 だが今では、そんな自分の容貌が忌まわしく思える。


  「あなた、だんだんお父さんに似てきたわね……」


 きっかけは、母のそんな一言だった。母がどういうつもりでその言葉を口にしたのか分からない。だが父を憎み、父のようになりたくないと思って過ごしてきた隼人にとって、母の言葉は衝撃的にすぎた。

 あの父に似ていると、他の誰よりも母に言われたことが隼人にはショックだった。

 母の言葉を意識して鏡の前に立つと、確かに顔は父に似通ってきているように感じる。そしてそんな自分が嫌になってくる。年を重ねるにつれて父の外見に近付く自分に嫌悪感すら覚える。

 なぜ母ではなく父に似るのか――二人の血が等しく流れているというのに。そう呪わずにはいられなかった。

 最近、母の態度もよそよそしい。どこか自分を避けているようだ。守りたいと思っていたはずの母にそんな態度をとられるのが、隼人には辛い。


 そんな日々を送っていたある日曜日――それは起きた。


 この日、隼人は朝から自転車に乗って出かけていた。自宅には仕事が休みの父と、母の二人だ。二人だけにするのは不安だったが、ここ数日の父が酒を控え、いつになく大人しかったことから安心していた。

 すると、昼を過ぎたあたりから灰色の雲が空を覆い――すぐにぽつぽつと雨が降り始めた。予報にはなかった、突然の雨だ。

 本降りになる前に隼人は家路を急いだが、住宅街に差し掛かる頃には土砂降りになってしまった。


 顔をあげると、自宅マンションが視界に入る。ちょうど隼人が住む五階のベランダにあたる。自然と彼の目は自分の部屋のベランダに向けられる。ベランダにはまだいくつか洗濯物が干されたままだ。まだ取り込みが済んでいないのだろう。


 「……?」


 そこに、二つの人影があった。

 よく目を凝らす――人影は父と母だ。二人とも何かを叫び、揉みあっている。

 父が、また母に手をあげているのか? 唇を噛み、隼人は力強くペダルをこぐ。曲がり角に差し掛かると、自室のベランダは他のマンションの陰に隠れて見えなくなった。

 母を父と二人にして外出した、自分自身の軽率な行動を悔やむ。早く、早く――焦燥感がペダルを踏む足へ、更に力を与える。

 マンションの前に着く――正面の路地に誰かが倒れている。隼人はブレーキをかけて自転車から降りた。


 父だった。マンションの方へ頭を向けて、仰向けに倒れている。左足にサンダルを履き、右足は脱げて少し離れた場所に転がっている。

 隼人は頭上を見た。ベランダの手すりを掴み、母がこちらを見下ろしている。


 まさか、母が――母が父を突き落したのか?


 そんな疑念を胸に、隼人はその場でスマートフォンを使って警察に通報した。



 警察による事情聴取は、家のリビングで行われた。対面する警察と母が何を口にするのかという気持ちで、隼人はひどく緊張していた。

 母は左頬と、右手首に痣ができていた。隼人が出掛ける前にはなかったものだ。手首には太い指の痕がくっきり残っていた。

 父にやられたのだろう――と、隼人は察した。


「……雨が降っているのに気付いて、ベランダに出たんです」


 母が語るところによると、そのとき父はこのリビングでテレビを観ていたという。いきなり降り出した雨に、急いで洗濯物を取り込む母に父はこう言った。


 ――おい、俺のシャツが濡れてるだろうが。


 そして父は怒りに顔を歪め、もう一足あったサンダルを履いてベランダに出てくる。


 ――お前がもたもたしてるせいじゃねえかっ!


 胴間声をあげて、母の左頬を打った。うずくまる母の右手首を強く掴む父――身の危険を感じて母は抵抗する。


 そうして二人で揉み合ううちに、父はベランダにふきこんだ雨で足を滑らせ、背後の手すりを乗り越えて転落した――というのが母による父の死の真相だ。


 「……なるほど。では事故、だと」


 警察は母の言葉を疑う様子もなく、頷いている。そして次に隼人へ顔を向けて、


 「君は……君の方で、何か気になったことはないか?」


 「いいえ……特には、何も」


 隼人は首を横に振る。


 それは、嘘だった。隼人の頭にあるのは母への疑心だった。

 先ほどの母の言葉はおかしかった。隼人が目撃したものと食い違っていた。

 母が何を考えて、何を隠しているのか――それを自分で確かめたくて、隼人は警察に伝えなかった。


 葬儀が滞りなく行われた後になっても、隼人の中ではまだ父の件は片付いてはいなかった。むしろ落ち着いてきたこれから向き合わないといけない。


 母が警察に語ったことは矛盾している。まず隼人が目にした二人が揉み合う姿だったが、あのとき母はベランダの手すりを背にしていた。母が口にしたように、直後に父が足を滑らせて転落したなどということは、状況からしてありえない。

 仮にもし、隼人の視界から二人が消えている間に互いの位置が入れ替わったとしても――路地に横たわっていた、父の体の向きが問題になる。

父は、マンション側を頭に、仰向けになっていた。足を滑らせ、ベランダの手すりを乗り越えて落ちれば半回転してうつ伏せになっていないといけない。足を滑らせたときにバランスをとろうと身を捻らせた可能性もある。それならとっさに手すりを掴もうとしたはずが、父の手にはそれらしい擦り傷はなかった。それに、そもそもなぜ父はベランダに出てきたのか?  マンション前の路地から丸見えな場所で手をあげるなど、まるで通行人に目撃されても構わないと考えているかのようだ。これがのちのち問題になれば今の仕事にも影響が出るというのに。

あと、これは関係があるかは分からないが――あれほど酒豪で気性が荒かった父が、近頃はまるで別人のように穏やかだったことも気になる。今から思えば、あれは嵐の前の静けさだったのだろうが――。


そして父の変化の原因を知るため、隼人は父の書斎に足を踏み入れた。手がかりがあるとすればここしかない。勝手に漁るのは気が咎めるものの、疑問を抱えたままでは安眠できない。

ただ手がかりといっても、それがどんなもので、どこにあるのかは不明だ。まずどこからどう探すべきかも分からない。とにかくそれらしいものが見つかればいいとしか考えてはいない。時間を要するのは覚悟していた。

だが――隼人が思っていたよりもあっけなく、《それ》は見つかった。最初に手をつけた、父がいつも使っている机の引き出しに、《それ》は特に隠すこともなく入れられていた。そして、いとも容易く発見した《それ》こそ、父が変わった理由であることは明らかだった。

だがそんな父も死の直前、母に暴力を振るっていた。母の体にある痣がその証拠だ。そのように、見える。それは父の、これまでの行いを知っているからだ。

なら、その先入観を取り払ったとして――あの痣には他にどのような意味があるのか?

母は、父の変化の理由を知っていたのか? 問い質す必要があるだろう。そう決めると、隼人はアイロンがけをしている母の元に行く。もちろん手には父の書斎で見つけたものを持ったままだ。


「あのさ、ちょっと――」


背後から、呼びかける。


「ひっ――」


母は弾かれたように振り返り、怯えた顔を向ける。だが隼人を確認すると安堵の息を吐いた。


「どうしたんだよ?」


「何でもないわ……ただ、あなたの声があまりにお父さんと似ていたから、びっくりして……」


まだどきどきしているのか、母は手で胸を抑えている。


「悪かったよ」


謝りながら、隼人は考える。今の母の過剰な反応からして、これが本当に父ならどうなっていたのだろうか? 彼の脳裏にベランダで揉み合う二人が、ふいに浮かぶ。

あのとき、あそこで本当は何が起きたのか――隼人の頭の中で、それが一つの形となっていく。


「ところで、いったい何の用なの?」


落ち着きを取り戻した母が問う。



「ああ……実は、母さんに見てほしいものがあるんだ」


言って、隼人は先ほどから手にしていた《それ》を母に見せる。


「何……これは?」


訝しげに受け取る母に、


「父さんの部屋にあったものだよ」


そう答えると、明らかに表情が強張った。


「これが、あの人の……?」


受け取ったものに目を落として呟く母の、眉間に深い皺を寄せる。


《それ》はくしゃくしゃになった、心療内科の薬袋だった。


「領収書もあったけど、どうやら父さんはカウンセリングも受けていたみたいだ」


母は薬袋から目を離して、隼人を見る。


「これが、どうしたっていうの? あなたは何が言いたいのよ?」


固い声で母は訊ねる。


「これを見る限り、父さんも悩んでいたみたいだ……ついかっとなって手をあげてしまう自分のことで。だから死ぬ数日前くらいからいつもと違って声を荒げることも、暴力をふるうこともなくなっていた」


「だから何よ? はっきり言って」


生唾を呑み込み、隼人は言われた通り本題に入る。


「母さん、あのとき……父さんが死んだとき、本当に父さんは母さんを殴ったの?」


隼人は母の目をまっすぐ見据える。その母が先に目を逸らした。


「……人は、そんな簡単に変わらないわよ」


「答えになってないよ、母さん」


隼人はなおも問い詰める。


「父さんは殴ったの? 殴ってないの?」


「…………」


 「母さん、警察に嘘を吐いたろう?  俺は見てたから分かるんだ。母さんが父さんとベランダにいるところを」


 「事故じゃないって言うの? じゃあ何? あなたは私がお父さんを殺したと思ってるの?」


 息子に疑われてると感じたのか、母は甲高い声で逆に訊いた。


 「いや、俺が見たところだとその可能性は低いよ。母さんが隠したいのは別のことだろ? だから父さんに殴られたなんて嘘を吐いた」


 「私の顔と腕の痣、あなただって知ってるはずよね? あれが証拠でしょう?」


 「俺もそこは気になってた。けどそれはこれまでの父さんの振る舞いがあったからこそだ。その先入観を無視してみたら、他の原因だって考えられるよ」


 「なら、その他の原因って何なのよ?」


 母は明らかに落ち着きをなくしている。母が秘密にしておきたいことはここにあると、隼人は確信した。

そこで隼人は、自身の考えをすべて述べることにした。

まず――予報外れの大雨に気付いた母は、洗濯物を取り込もうと慌ててベランダに出た。そのとき、父はリビングにいてその様子を見ていた。


 問題は、これから先だ。


 洗濯物がずぶ濡れになる前に、早く取り込まなければと急ぐ母を目にしていた父は、ついに見かねて自分もベランダに出ていった。だが母は取り込むのに夢中で父が近付いてくるのに気が付かなかった。

そして父がすぐ背後に来たとき、気配を感じて母は振り返った。

また暴力をふるわれる――そう思った母は恐怖に怯えた。父は何とか宥めようとしたが逆効果となり、母は更にパニックに陥った。


 隼人が目撃した光景は、まさにこのときのものだった。


 母は父から逃れようと後退する。父は母を落ち着かせようと接近する。こうして二人は、ベランダの手すりのところまで移動する。


 そして――吹き込んできた雨によって、母が足を滑らせた。


 大きくバランスを崩した母は手摺にぶつかり、体が浮く。体勢を立て直すこともできない。


 このまま落ちるかと思ったとき――父の手が母の右腕を掴み、力一杯に引いた。引き戻された勢いで母は転び、左頬を強打した。


 母の体の痣は、こうして出来たのだ。


 痛みに耐えながら母は父の方を向くが、すでにその姿はない。


 父は――母を思い切り引き戻した反動で、自分がベランダから転落してしまったのだ。


 ――以上が隼人の考えた、父が死んだ真相だ。


 だがあくまでこれは、隼人の想像でしかない。彼が得た事実を組み合わせた推測に過ぎない。


 「……違うわ」


 話を聞き終えた母が、そう口にする。否定はしているものの、かすかに震える声を隠しきれていない。


 「あなたが言ったようなことはなかったわ。あの人は何にも変わってなかった」


 「でもさ、母さん……」


 「何よ、こんなもの」


 いきなり薬袋を細かく破り、ゴミ箱に捨てる。その感情的な行動で、隼人は自分の言葉が的を射ていたことを知った。


 「今更、こんなことしたって……後悔してたからなんだっていうのよ? 知らないわよそんなの。私がこれまでどれだけ辛かったか……」


 その表情には亡き夫への憎しみがありありと浮かんでいた。


 「あなただって……あなただって知ってるでしょう!?  それなのにどうしてそんなことを言うのよ! あんな人の肩を持つわけ!?  あの人は自分の思い通りにいかないとすぐ暴力に訴える、そういう人間なのよ! あなたの言うようなことなんてありえないのよ! 私は絶対に許さないっ……許さないわよ!」


 喋るうちに興奮してきたのか、母の声が大きくなる。


 母は、認めたくなかったのだ――かつての行いを悔いて変わろうとしている父を、自分を救って死んだ父を。散々、苦しめられてきたからこそ、あんな最期を迎えたことがどうしても許せなかったのだ。


 その気持ちは、隼人にも痛いほど分かる。分かっているつもりだ。自分はいつだって母の理解者でいたいと思っていた。幼い頃から今まで、ずっとそう思っていた。


 「ねぇ隼人……あなたは私の味方でしょう? 私のことを信じてくれるでしょう?」


 その通り、隼人は母の唯一の味方だった。自分だけでも母を信じ、守っていこうと心に誓っていた。

 だが――隼人にはもうそれが正しいのか分からない。誰にでも過ちはあり、償いの機会だって与えられてもいいはずとも思う。

 父のことは憎かった。殺意すら抱いたこともある。だがこんな事実を知ってしまった今では、そんな感情も揺らいできた。

 こんな考えは偽善だろうか? 母の言うように父は虫が良すぎるだろうか?

 気が付かなかったこと、知らなかったことにして済ますべきだろうか? 父は事故で死んだ、そのことに変わりはないのだから。

 だが本当にそれでいいのだろうか? そんなことが誰かのためになるのだろうか? 父の悔いを、改心を無にすることが――隼人は首を横に振る。


 「母さん……それは無理だよ」

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