第3話 人形の家
山奥に建てられた二階建ての屋敷で、物心ついた頃から暮らしている。世間からは完全に隔絶されたこの屋敷とその限られた敷地内で、ぼくの世界は閉じていた。
麓の学校には通わせてはもらえなかった。そのため同い年の子どもと触れ合うことも、流行りの遊びを覚える機会もなかった。屋敷にはテレビもなければラジオもない。一般家庭の子どもが当たり前のように得ている娯楽のことごとくを、ぼくは与えられずに育てられた。
最低限の勉強は家庭教師の先生に教わった。彼女だけが両親以外にぼくに接してくれた、唯一の人間だった。
葉月さんは都会の大学通っていて、夏休みの間だけのアルバイトで、家庭教師としてこちらに滞在していた。
とても綺麗な人だった。都会の女性はみんなこんなに魅力的なのだろうかと、ぼくは思った。
明るくてよく笑い、陰気でじめじめとした性格のぼくとは正反対だった。勉強の合間にきかせてくれる都会の話は、退屈な屋敷での暮らしに飽いていたぼくにとっては充分に刺激的だったし、ときおり両親の眼を盗んでは本や音楽を持ってきてくれて、ぼくの好奇心を満足させてくれた。
ぼくは、葉月さんのことが好きだった。
それでも一つだけ気に入らないのは、ぼくを呼ぶときに『カズミちゃん』と言うところだ。ぼくは男だ。ちゃん付けされるのは嫌だった。
でも、それは仕方がないことだった。どれだけ抗議したくても我慢するしかなかった。
なぜならぼくは屋敷の中で、いつも女の子の格好をさせられていたからだ。
後になって聞いたところによると、ぼくの両親は初め女の子が欲しかったらしい。だから身籠った子どもが男と知って、それはとても失望したという。何しろ名前も女の子のものだけを早いうちから考えていたほどで、男の子だったときのことなど考慮に入れてなかった。
女の子の名前は
そして実際に生まれた男の子に、どんな名前をつけるべきか悩んだと思えば、読みはそのままで漢字の一字を変えた『和巳』と名付けたのだ。
一応、区役所にはそのように届けた。あくまで表向きは、だが。
両親はぼくを女の子として育てることしか頭になかった。服や玩具もすべて女の子のものを与えられ、ぼく自身も女の子らしく振る舞うことを強要された。もし拒めば地下室に一日中食事ももらえずに閉じ込められ、ときには折檻もされることもざらだった。
男としてのぼくなど、存在すら許されない環境だった。
屋敷でのぼくは、男の『和巳』ではなく、ずっと女の『和美』であり続けなければならなかった。自分自身など、どこにもいなかった。性格が暗くなるのも当然だ。
両親の希望にそわなければならなかった。両親の期待にこたえなければならなかった。地下室でお仕置きをされるのが嫌だった。だからぼくは必死で『和美』を演じ続けた。
葉月さんがこの屋敷にやってきたのは、そんな日々を送っていたときだった。
葉月さんは母親以外では初めて面と向かって話をした女性だった。ぼくの母親よりも若くて、しかも美人だ。葉月さんといると両親とは別の意味で緊張した。
両親とは違って葉月さんは厳しくなく、優しかった。でも教えるべきことはしっかりと教えてくれた。勉強は好きではないが、葉月さんが教師をしてくれるとやる気が出た。
それでも同じ屋根の下で同じ食事をとり、同じ部屋で手を伸ばせば届く距離で勉強を教わっていると、本来の男の部分がどうしてもうずいてしまう。心臓の鼓動は早まり、顔も赤くなる。
男としてのぼくは、女性として葉月さんを意識していた。
それでも葉月さんに気付かれなかったのは、彼女がぼくを女の子と信じて疑わなかったからだ。それだけぼくは細心の注意を払っていた。もともとぼくが中性的な顔立ちで、なおかつ変声期をむかえる前で、おまけに口数が少なかったこともあっただろう。
これが人を好きになるということだと、ぼくは知った。葉月さんこそが、ぼくの初恋の相手だった。
四六時中、寝ても覚めても葉月さんのことばかり想っていた。それと同時に、胸にかすかな痛みを覚えもした。彼女の存在によって、ぼくはいくばくか救われていた。
葉月さんに好きだと言いたかった。この想いを伝えたかった。ぼくのこの気持ちを打ち明けたかった。仮に受け入れられないにしても、彼女にはぼくがどう感じているかを知ってもらいたかった。
だが、それは――それだけはできなかった。ぼくは女だ。女でいなければならなかった。ぼくは『和美』として、葉月さんに接しなければならなかった。
ぼく自身、男の『和巳』としての自分を葉月さんに認めてもらえないのは、ことのほかこたえた。本心ではなく演技で彼女とずっとやりとりすることを強いられる時間は、ぼくにとって拷問に等しかった。
好意を持つ相手と心の底から打ち解けず、触れ合うことを許されないのは、両親から受ける折檻並に苦痛だった。
本来のぼく自身で、葉月さんといろいろと喋りたかった――だがその願いが叶えられることはない。
葉月さんにぼくのすべてを伝えたかった。両親に無理矢理女の子の服を着させられていること、それがいかに辛いことかを。
葉月さんには――葉月さんだけには、本当のぼくを知って欲しかった。たとえこの想いが実らなくても、それが勇気を出して告白して得た答えなら、ぼくは納得できたし、それで諦めもついたし、構わないと思っていた。
だがもし両親の耳に入ってしまえば、葉月さんはすぐにでも辞めさせられてしまうだろう。それは嫌だ。せめてこの夏が終わるまでは一緒にいたかった。
こうして今、ともに過ごせるだけで満足しよう。いずれ別れがくるとしても、どうせならその日を互いに笑って迎えたい。
そうしてぼくは、両親への畏怖ではなく、葉月さんとなるべく長くいたいために、『和美』になりきった。
ぼくは『和美』。ぼくは女。だから同姓に恋したりはしない。葉月さんを好きになるはずがない。
そうやって自分自身に言い聞かせ、ぼくの中に『和美』という人間を作り上げることに専念した。
ぼくはこれまで以上に増して自分を殺し続け、自分とは違うもう一人の存在を生み出した。
ぼくは、『和巳』は存在しない。ここにいるのは『和美』という一人の女の子だけだった。
本当のぼく自身など、もう分からなくなってしまうほどに。
結論から言うと、葉月さんは最後までぼくが男であることに気が付かないままだった。ぼくはぼく自身の存在を隠し通した。
頑張った見返りなど、何もない。あるのは空虚な感情だけだ。自分ははたして何のために『和美』でいるのか――い続けなければならないのか?
ぼくはいつまで『和美』でいるのか――この屋敷にいる限りずっとなのだろうか? 両親が死ぬか、ぼくが屋敷を出るまで続くのか?
いくら女の子の格好をしていても、ぼくは男だ。身体的特徴ばかりはどうにもならない。トイレで用を足すとき――風呂で体を洗うとき、ぼくは自分を見失う。
ここにいるのは、誰なのだろう?
ぼくは――わたしは、『和巳』なのか『和美』なのか、どちらなのだろう?
男であるならなぜ女のふりをするのか? 女であるならこの体はなんなのか?
本当の自分は、どこにいるのだろう?
女装をする男というのは珍しくない。だがぼくの場合は服装だけでなく身ぶり手振りや喋り方まで、徹底して躾られていた。だから男らしさというのが、よく分からない。
男が女になるには、おのずと限界がでてくる。成長すれば声も太くなる。体つきも変わってくる。
何も知らない幼いうちはよかった。だがやがて肉体と精神の乖離は大きくなっていく。
いったい自分はどうなってしまうのだろう?
唯一の心の拠り所だった葉月さんは夏の終わりとともにぼくの前から去り、訪れた孤独の中でぼくは悩み苦しんだ。
いっそこのまま狂ってしまえば楽になれると、このときのぼくは半ば本気でそう思っていた。
葉月さんとの別れによる悲しみ、いつまでも女を演じなければならない苦しみに、ぼくの心は引き裂かれそうだった。
それでもぼくは、他の生き方を知らない。屋敷に留まるなら両親の意向に添う必要があるし、それが嫌なら屋敷を出て一人で暮らす必要になる。それには先立つものが必要だが、両親が援助してくれるはずもない。
外に出るのなら――自由を得るには自分で自分の生活を守らなければならない。自分の力で稼がなければならない。だがぼくには自信がない。自分一人で生きていく自信が、今のぼくにはなかったのだ。
葉月さんとの出会いと別れ――ぼくの失恋から三年が過ぎた。長い。あまりにも長すぎた三年だった。自分というものがないぼくは――自分の意思というものを剥奪されていたぼくは、中身が空っぽのまま無為な時間を過ごした。
自ら命を絶つことを考えたことがなかったといえば、嘘になる。こんな自分など生きていても意味はないと思っていた。
自殺の方法については色々と頭に思い浮かべた。首吊りか飛び降りか、それとも服毒か――。
だが考えるだけで、実行するだけの勇気も行動力も、情けないことにぼくにはなかった。不慮の事故か病気か、もしくは誰かが殺してはくれないものかと、他力本願というか後ろ向きなことばかりを期待していた。
つまり、これまでと何も変わらなかった。ぼくには現状を打破するだけの力量がなかった――いや、力量のせいというのは言い訳だ。ただぼくの心が脆弱なのが悪いのだ。この特殊な環境で育ったとはいえ、ぼくには積極性が著しく欠けていた。すべて成り行きに身を委ねる癖がついてしまっている。そんなぼくだからいけないのだ。変えたいなら――このままでは変わることなどないというのなら、自分の力で変えないといけないのに、ぼくにはその意思が欠如していた。ぼくには変化させるために必要不可欠なものが足りなさすぎた。
そんな風にして、三年もの月日が経過してしまった。
変化はあるとき、向こうからやってきた。
母親が第二子を身籠ったのだ。
更にその子どもはぼくのような紛い物ではなく、正真正銘の女の子だった。
あれほど渇望していた女の子に、両親はどんな名前を付けるか、ぼくは気になっていた。
そして両親が名付けたのは、なんと『和美』だった。
女として扱われたぼくと、同じ名前だ――同じ読みに、同じ名前――これはどういうつもりでいるのだろう?
そう疑問に思っていたら、ぼくはいきなり部屋を移された。これまで何も使われていない空き部屋をあてがわれたのだ。新しい部屋を与えられ、ぼくは困惑した。
変わったのは、部屋だけではなかった。服もこれまでとは違うものを両親は買ってきて、それを着るように言われた。
新しく洋服箪笥に入れられたのは、ポロシャツやズボンなどだ。すべて男ものだ。それまでのブラウスやワンピースといった女ものではない。そしてあらたにぼくは、男らしい態度をとるように両親から躾けられた。
どうやらぼくは用済みになったようだ。両親のぼくに対する冷たい言動で、そう察した。
彼らはぼくにはもう興味がないのだ。女の子以外は必要としないという点で、両親の考えは一貫している。
折檻はなくなったが、愛情もなくなった。
でもおかげでぼくは、これ以上自分自身を偽る必要はなくなった。本来の自分自身に戻ることができた。
もっと早く妹を産んでくれていたら、葉月さんにぼくの想いを伝えられたかも知れないのに――そんなもしものことを考えたところで、すでにどうしようもないことだった。
問題は、これから先だ。これから先にぼくが出会う女性には、ぼくの本当の気持ちを口にしよう――躊躇わず、何も飾らない素直な言葉で、自分自身の感情を伝えよう。
ぼくは『和美』の呪縛から解放された。ぼくは自由になれるのだ。
ようやく、希望を見出だすことができた。
渡来和美――それが生まれたころからの、わたしの名前だ。
生まれたとは言っても、わたしに明確な誕生日はない。わたし自身もいつ自分という存在がこの世に現れたのか、はっきりと断定することはできない。
気が付いたら、いつのまにかここにいた――そうとしか答えようがない。
それでも自分が他の人間――とは言っても、血の分けた家族以外ではあまり知らないが――とは違うらしいということは、すぐに察した。
わたしの特殊性は、その存在そのものにあった。
わたしの性別は女だ。その証拠に服装も、両親のわたしへの接し方も、女の子に対するものだった。
プレゼントにもらった人形やぬいぐるみで部屋はいっぱいになり、しゃべり方や身振り手振りも普通の女の子として躾られて育った。
疑いを抱く理由など、あるはずもなかった。それなのに一つ、女には絶対にありえないものが、わたしにはあった。
用を足す際、便座に腰掛けてスカートと下着をおろしたわたしの視界に映ったのは、まさしく男であることの象徴だった。
肉体が精神を裏切っていた――もしくはその逆か。
わたしは激しく混乱した。この体が男であるなら、ここにいるわたしはいったい誰なのだろう?
そのうちわたしは、自分の中にいる男の存在に薄々ながら気が付くようになった。どうやら彼は日記を書いているらしく、名前を自分と読みを同じくする『和巳』というらしいことも知った。
わたしはわたしの知らないうちに日記を書いていたのだ。この肉体の本来の所有者は男の『和巳』であり、わたしは彼がより女としての自分を求めた結果に生み出されたもう一人の人格なのだった。
後天的な二重人格――のようなものだろうか?
和巳の方はわたしの存在に気付いてはいないようだ。自分が作った空想の『和美』が自我を得ようとは思いもしないのだろう。
自分は女だ。女にならないといけないと心から『和美』でいることに、和巳は専念した。彼の演じる『和美』とわたし自身である『和美』は、元より同一の存在として発生した
ものだ。和巳が気付かないのも無理はないかも知れない。彼自身、どこまてが自分自身の意思によっているのか判別がついていないふしがある。
そもそも男が完全に女になれるはずもなく、なりきるにも限界がある。だからわたしという一個の人格を必要としたのだ。
その容姿、挙動に言動、趣味嗜好、更には思考回路に至るまで『和美』ならこのようなときはどう考え、動くのかを事細かく設定を突き詰めていった。
そうして、今のわたしが出来上がったのだ。
和巳は自分の身の宿るわたしという異分子をまるで認識していない。自分で生んだにも関わらず。
このわたしなら和巳よりも完璧に、ごく自然に女として振る舞える。和巳にとっての目標である理想の『和美』像なのだから、当然だ。
わたしが誕生するきっかけとなったのは、夏の間に和巳の家庭教師を受け持った末永葉月という女子大生だった。すべて彼女が原因というわけではない。あの女性はあくまでいくつか考えられるきっかけの一つだろうという、わたしの憶測だ。
末永葉月に悟られないため、彼女を忘れるため――和美はより『和美』たろうと努めたことは否定できない。それまで両親の教育方針に従うままだった和巳が、初めて自分の意思で進んで女になろうとしたのだ。受動的な行為が能動的に変わったのだ。それは強迫観念にも近かった。
男である限り、この実ることのない異性への恋慕と、その失恋の苦しみからは逃れられないと、和巳は考えたのだろう。
自分の判断で自分自身を偽ることになるというのは、なんという皮肉だろう。
だが失恋の痛みは時が経つにつれて癒えていく。初期衝動も次第に衰えていく。
そんな時期に重なるように、和巳の妹が生まれた。
妹の名前は、和美に決まった。
そう――両親はよりにもよって、このわたしの名前を、念願叶った自分たちの娘に付けたのだ。
和巳は部屋を移され、以前の部屋は新しく生まれた娘のものとなった。
もう和巳は女でいなくていい。彼の『和美』は長年の役目を終えた。
わたしは、不要となった。
和巳は男らしい教育を施され、まるで初めからそうであったかのように彼自身の生活を手に入れた。
これで男として異性に対して自由に恋い焦がれることができる。末永葉月は残念だったが、これからは違う。
和巳にとっても、『和美』は――わたしはもういらない存在となった。無理をして女を演じる必要がないからだ。
みんな、わたしの存在などなかったように振る舞うようになった。
所詮わたしは用がなくなればあとはゴミでしかない、使い捨ての存在でしかなかったのか? 家族にとってわたしはその程度の存在でしかなかったのか?
彼らの関心は早くも生まれたばかりの女の子に移っている。これまでの『和美』はあくまで彼女が誕生するまでの代替でしかなかったとでもいうように。
かたちのないわたしという『和美』は今では、家族だと信じた者たちによって存在の事実まで抹消されようとしていた。
冗談ではない。わたしはここにいる。ここで――和巳の中で今だってちゃんと生きている。体はなくとも自分で物も考えられる。怒りも悲しみも喜びも感じることができる。わたしの自我は、あくまで和巳とは別にある。
わたしは死んでない。勝手に殺さないでほしい――和美はわたしであって、断じてその娘などではない。だからわたしは決してその娘を和美とは呼ばない。それはわたしの名前だからだ。
和美という名前こそがわたしの存在証明だ。その名前まで失っては、わたしはわたしではいられなくなってしまう。肉体も名前もないわたしを、いったい誰が認めてくれるというのだろう?
わたしだって、皆と同じだ――死ぬのは怖い。消えたくない。まだここにいたい。
殺さないで――。
殺さないで――。
殺さないで――。
殺さないで――。
殺さないで――。
殺さないで――。
わたしはここにいる。わたしから何もかも奪わないでほしい。
『和美』という女が確かにいたということを、なかったことにしないでほしい。わたしの存在になんとか気付いてもらいたくて、声の限りに叫び、訴えようにも、わたしにはそのための口がないので、それすら叶わない。
みんながわたしの存在を忘却し、過去のものとして葬ろうとする。
それでもわたしは生きたい――このまま殺されてたまるものか。
わたしが――わたし自身が己の意思を手放さない限り――わたしこそ意思をしっかりと保っていれば、和巳の中でわたしはいつまでも生き続けることができるはずだ。
たとえこの声が、誰にも届かないとしても。
妹がいる新たな日々は、これまでとは正反対だった。
わたしはわたしの存在を、ひた隠しにしなければならなくなった。つまり和巳という主人格が眠り、わたしという副人格が起きている間も、わたしは男のふりをしていなければならなくなった。
女の人格が和巳の中にいるということを、知られてはならなかった。
家族がかつての『和美』を否定しているなら――わたしの存在を忘却しあくまでも認めず、このまま記憶とともに消し去ろうというのなら、なおのことわたしの存在を知られるわけにはいかないのだ。
矛盾しているのは重々承知の上だ。それでも今の家族にとってわたしは邪魔でしかない。もし和巳の中に女の人格が残っていると分かれば――彼が二重人格だという事実を知れば、即座に病院に連れていかれ、強引にでもわたしを消そうとする恐れがある。和巳もせっかく望んだ生活を手に入れたのだ。いずれその障害になりうる可能性があるわたしを残しておく理由はない。おそらく彼は拒まないだろう。
わたしが生き延びるには、わたしの存在を誰にも知られないよう隠し通す他に道はなかった。
妹はとくに大きな病気や障害を抱えることなく、健やかに成長した。
顔は実兄である和巳に似ていたが、より女の子らしい愛くるしい顔つきだった。もし和巳が本当に女として生まれていたら、彼女のようになっていただろう。
それになによりこの妹は、わたしと和巳が思い描いていた理想の『和美』に驚くほどそっくりだった。
わたしとしては実体化した自分の肉体を鏡に見るような、奇妙な感覚だった。
和美という名前もあの体も、もともとわたしが得るべきもののはずだ――和巳が気の遠くなるような年月をかけてようやくわたしという存在を作り出したというのに、あの娘は生まれながらにしてそのすべてを労せずして手に入れていた。彼女はわたしにとっても一応は妹ではあるが、妬み嫉み怒り憎しみ以外の感情を抱くことはなかった。
和巳の方はどう思っているのか気にはなっていたが、表面上は兄妹らしくあからさまに敬遠することもなく接しているようだ。両親の愛情をすべて妹にとられた形にはなるが、彼には今の暮らしの方が幾分か過ごしやすいのだろう。
だが本心では何を考えているのか――それはわたしにも分からない。たとえもとは同じ人間だとしても、肉体を共有してはいても精神を共有しているわけではないからだ。
やがて妹が学校に通う年齢になると、両親は彼女に家庭教師を雇った。
発狂しそうな暑さの八月――夏休みの期間に屋敷を訪れた家庭教師は、
テレビドラマの二枚目俳優を思わせる端正な顔立ち――長身で、何かスポーツでもしているのか、むき出しの二の腕には発達した筋肉がうかがえた。そして、常に微笑を絶やさない口元――。
さぞ都会では女性に不自由しないだろう。そのような男がこんな人里離れた山奥にアルバイトに精を出すなど、はなはだ疑問を覚える。
木崎と妹は一日の決まった時間に、彼女の部屋で二人きりで勉強をしているようだった。年頃の娘を自分たちの家とはいえ泊まり込みで、しかも男と長時間同室させることを許すなど、両親は何を考えているのだろう?
自分たちの娘に限って間違いなど犯さないと信用しているのだろう――だがわたしは知っている。彼らがときに意味ありげな視線を交わし、微笑み合っていることを。
どう見ても家庭教師と生徒の間柄にある者同士の様子とは思えなかった。
初対面から妹の様子はおかしかった。木崎を目の当たりにした彼女の瞳は潤み、頬を赤らめ、木崎の顔もまともに見られないようだった。
そのときはただの人見知りだと思ったが、どうやら判断を誤っていたようだ。
妹の部屋からはときおり愉快そうな笑い声まで漏れ聞こえていた。本当にちゃんと勉強をしているのか疑いたくなる。
和巳は――わたしの片割れは今の現状をどう思っているのだろうか? 妹が生まれてからというもの、彼は 日記の執筆をぱたりとやめてしまった。日記の習慣は和巳にとって、自分が自分としていられる唯一のひとときだったのかも知れない。だから今ではもう必要ではないのだ。現在この習慣はわたしが引き継いでいるが巧妙に隠しているため今のところはばれる心配はない。
部屋の書棚には奥行きがあり、そこにも書物が並んでいる。手前に並んでいるのが未読の本で、奥にあるのが既読の本だ。すでに読み終えた本なら、手に取る機会はほぼない。
カモフラージュのために別の本のカバーを日記にかけて、手にする確率の極めて低いだろう読み終えた本を並べてある奥の方にしまう――二重の隠し場所だった。日記は、奥の右端に置いてある。
なぜわたしが自分の存在を気付かれる危険をおかしてまで日記を書き続けているかというと、簡単にいうと日頃の鬱憤を晴らすためと、アイデンティティーの維持だった。
わたしの名前を騙る妹と、彼女を溺愛する両親との暮らし――そして誰にも認識されないがためにふとしたときに自己の存在感が揺らいで薄れかけ、消えてしまわないためというのが理由だった。自己存在を保つというのは、以前の和巳と同じだ。
わたしの筆跡は、かつて女として振る舞っていた和巳のものと同じだ。もともと彼によって作られたのだから当然といえば当然だ。
実際に日記を書いていたのは男の和巳だが、女としての教育は字の書き方にも影響していた。男でいようがそうした癖は抜けようがない。
だからなにも知らない第三者が見れば、同一人物の手によるものとしか思えないはずだ。
時間とともに親密さを増す妹と木崎を見ていると、わたしはどうしても末永葉月のことを思い出してしまう。
男と女としての交流を望むも叶わなかったこと。失恋の痛みから逃れようと女の自分を確立しようとした和巳。
和巳の――わたしの片割れの切実な願望すら、妹はたやすく叶えていた。
それでも和巳は、現状を甘んじて受け入れようというのか?
和巳が何を考えているのか、まるで理解ができなかった。
だが和巳がどう思おうと、わたしは妹を許せなかった。彼女の存在で彼は『和美』の呪縛から解放されたのだろうが、おかげでわたしは孤独になった。あの娘のせいでそうなったのだ。
わたしはずっと『和美』でいたかった――あの日々がいつまでも続いてほしかったのだ。
ある夜のことだった。蒸し暑さによる寝苦しさで夜も眠れずにいると、部屋の前の廊下を誰かが通る足音がした。
トイレか、それとも喉が渇いたのかとも思ったが、相手はなぜか忍び足だった。気付かれては困る用なのかと、訝しみつつ扉を薄く開ける。
廊下を遠ざかる、妹の後ろ姿が見えた。
妹はそのままある部屋の扉の前で立ち止まり、ノックした。やがて内側から扉は開かれ、妹は室内に消えた。
あれは――あの部屋は――。
嫌な想像をしてしまった。このまま気付かずに寝てしまうという選択肢は、この時点で霧散した。
そろりとさきほどの妹と同じく忍び足で、その部屋に向かう。
「…………」
わたしの見間違いではなかった。そこは確かに木崎真吾の部屋だった。
喘ぎ声がした。ベッドのスプリングが激しく軋む音がした。
わたしは扉の表面にぴたりと耳をつけて、それらの音を聞いていた。
自分の目でわざわざ確かめるまでもなく、中で何が行われているかは明らかだった。
わたしは来たときと同じように静かにその場を離れ、自室に戻った。
妹と木崎による夜の営みは、毎晩のように続いた。このことを知っているのはわたしだけだった。
憎悪で脳神経が焼き切れるかと思った。これは両親の期待に対する、重大な裏切りだった。
こんな尻軽な女に、わたしは自分の立場を略奪されたのか? 腸が煮えくり返りそうだ。
この事実をどうにかして両親に伝えることはできないだろうか? わたしは知恵を絞る。木崎を屋敷から追い出し、二人の仲を引き裂いてやりたい。
いかにしてわたしの存在を悟られずに両親に密告できるのか――頭を悩ませる日々が続いた。
だがあれから八日目――木崎はいきなり解雇を言い渡され、これまでの給料を受けとるとその日のうちに屋敷を去った。きくところによると、両親は二人の真夜中の密会をどうにかして知ったらしかった。妹は母親に地下室に連れていかれた。おそらくお仕置きをされるのだろう。
このことはわたしにとっても、寝耳に水だった。わたし以外の誰かが――もちろん両親も含めて――妹と木崎の行為に気付いていたとしか思えない。
だが妹を無条件に信用しきっている両親を見ていると、彼らが自分たちの娘を疑いそうにない。だとすると妹か木崎のどちらかがへまをしたのだろうか?
疑問はあるが、これでわたしの溜飲は下がった。
丸一日たって、妹のお仕置きは終わって地下室から出された。その夜、妹がわたしの部屋を訪れた。
「ばらしたの、兄さんでしょ?」
開口一番、妹はそう言った。妙なことに彼女に怒っている様子はなく、なぜか口元をわずかに綻ばせていた。
当然、わたしは何もしていない。だから正直にそのように答えた。
「嘘……夜中に何度も先生の部屋の前で聞き耳をたてていたくせに」
「……何度も?」
それはおかしい。わたしが聞いたのは最初の一度だけだ。
すぐに、和巳のことが頭に浮かんだ。わたしでないなら彼しかいない。
「わたしと先生がしてるのをきいて、一人で興奮してたの?」
妹は笑みを崩さない。その異様さにわたしはぞっとした。
そして同時に、妹と木崎の関係を両親に伝えたのが和巳であることを、わたしは知った。
だが夜毎、和巳が二人の情事を盗み聞きしていたというのは――彼は何をしているのだ?
「兄さんは、わたしが木崎先生にとられるのが嫌だったんでしょ? だからわたしたちのことをばらした……そうよね?」
馬鹿な、違う――いや、本当にそうか? わたしには和巳の考えは分からない。彼が二人を別れさせた真意も不明だ。
わたしが返答に窮していると、妹はわたしに身を寄せてきた。
「ねぇ……兄さんも、本当はわたしとしたいんだよね?」
見上げる瞳は妖しい輝きを放っていた。わたしは金縛りにあったように身動きができない。
「もっと早く言ってくれればよかったのに……わたしもね、兄さんとしたいなぁって、ずっと思ってたんだよ? 知らなかった?」
わたしはようやく悟った。この妹は外見こそ『和美』だが、その内面はおぞましく醜悪なけだものだった。
「ど、どうして……」
わたしは声を絞り出す。
「うんざりだったの。両親の理想とする和美を演じるのは。いい加減に疲れてくるし。いい子でいるのは両親の前だけで充分。あとはわたしが自分のしたいようにするだけよ」
それの何がいけないのか、と言わんばかりに、こちらの目をまっすぐ見つめ返してくる。
両親の理想を押し付けられる苦悩は和巳も経験したことだ。そのことがいまだに和巳の心に少なからず影を落としているのかも知れないが、妹の歪みはその比ではない。彼女には人としての倫理観が、著しく欠如していた。
「もう先生はいないわ……どうするの兄さん? 兄さんが望むなら、わたしは今からでも構わないけど」
あいにく今のわたしは女だ。同じ女に誘惑されるなど気色悪さに吐き気さえ催す。それ以前に兄妹で肉体関係を結ぶなど正気の沙汰ではない。
わたしは両手で妹の体を押し退けた。
「肉親だからって遠慮することはないのに……でもその気になったら、いつでも呼んでね?」
残念そうに言って、妹は自室に戻った。わたしは長く息をはいてベッドに腰掛けた。精神的にひどく疲れていた。
医者にかかる必要があるのは、どうやら和巳だけではないらしい――そう、わたしは思った。
それからはとくに際立ったこともなく、時が過ぎた。
季節は移り変わり、冬を間近に控える十一月になっていた。
まだ東の空が明るむ前に、わたしは何となく目が覚めてしまった。和巳はともかくわたしは眠りが比較的浅いようだ。
体を起こしかけて、わたしは異常に気付いた。
わたしは全裸で寝ていた。昨夜は確かに寝間着を身に付けていたはずだが――
――と、何かが腕に触れた。隣を見るとシーツが盛り上がっている。わたしはそっとシーツをめくった。
一糸纏わぬ妹が、そこで寝息をたてていた。
わたしの頭を、暴風のような激しい混乱が襲った。
何がどうなっている? どうして妹がここにいる?
寝起きで完全に覚醒していない頭には、あまりに刺激が強すぎた。
やがて状況を理解すると、わたしは浴室に向かい、シャワーを浴びた。全身についた妹の体臭を時間をかけて洗い流す。
なぜか自分の体がひどく穢れてしまった気がして、涙が溢れた。
わたしに覚えはない。妹を自分の部屋に招き入れた記憶は、まったくない。
なら、そんなことをするのは和巳以外にありえなかった。彼が自ら望んで、血を分けた実の妹と関係を持ったのだ。
いったい、和巳は何を考えているのだろう?
もしかしたらこの屋敷でまともなのは、わたしだけなのかも知れない。
それとも、わたし自身も自覚していないだけで、すでにどこかおかしいのかも知れない。
おかしいといえば、わたしはその存在そのものが異常だといえた。
こんなことなら、半端な常識などいらないとさえ、わたしは半ば本気で思った。
年が明けても、実妹との肉体関係は継続していた。わたしに拒否権はなかった。
わたしに人権はない。わたしは存在してはならない者。だから表立って自分の意見を高らかに叫べる立場にはない。
体に妹の匂いが染み付いている。妹の体にも和巳の匂いが染み付いているだろう。
両親は愚かにもまったく気付いていない。だが知らない方がいいこともある。彼らは今のままでいる方が幸せだろう。だからわたしも訴える気はない。
ある日、夕食を終えたわたしは自室に戻り、机に目をやると心臓が止まりそうなまでに驚いた。
机の上には、わたしが書いている日記が置いてあった。
書き終えると必ず元の隠し場所にしまっていたはずのそれが、なぜか机にある。
まさか、和巳が見つけたのか?
わたしは慌てて日記を手にとり、頁をめくった。
特に変わったところはない。どこにも妙な箇所はない。今のところは別段おかしなところは――
最後に書いた頁にさしかかった。ここまで何もない。ただの杞憂だったか?
わたしは次の頁を開く。
『君は、誰だ?』
男の字で、そう記されていた。
わたしは衝動的にその頁を破り、丸めて屑籠に捨てた。
とうとう和巳は、わたしの存在に気付いたようだった。
わたしに気付いた和巳はどういう行動をとるのだろうか?
わたしには分からない。ただはっきりしているのは、わたしにはどうすることもできないという事実だけだった。
真夜中――両親が寝静まるのを見計らって、妹が部屋にやってきた。目的は分かっている。だが和巳が受け入れてしまっている以上、こちらから拒絶するわけにもいかない。
渋々、わたしは妹を部屋に入れた。
わたしでいるとき妹と交わるのは、まさに生き地獄だった。なんとか勃たせることさえ難しいのに、そこからが本番なのだった。女の中に自分のそれを挿入し、相手の欲求を満足させなければならないのだ。
とにかく自分の感情を押し込め、ひたすら機械的にこなすしかなかった。
汗だくになりながらようやく一仕事を終えた。仰向けになっている妹の体にのしかかった姿勢で、わたしは暫し脱力していた。
そんなとき、ふいに妹が口を開いた。
「そういえば、こんなものを見つけたんだけど」
言って妹が取り出したのは、わたしの日記だった。隠してあったはずが、どうして彼女の手元に? また和巳が取り出したのか? 隠し場所を変えておかなかったことを今になって悔やんだが、もう遅い。
日記を取り戻そうと伸ばしたわたしの手を妹は巧みにかわす。
「ここにある『和美』って……まだ兄さんの中にいるの?」
最悪な展開だった。妹にまでわたしのことがばれてしまった。わたしの視界は暗くなる。
「兄さん……こんな病気になっていたなんて、可哀想に」
「…………」
「ねぇ。この『和美』さんはどんな人なの? 兄さんは気付いていたの?」
嘲笑うような妹の声音に、わたしの理性は崩壊していく。
「わたしが……」
両手が自然と、妹の首にかかる。
「わたしが、和美だ」
体重をのせて、全力で絞めた。妹は抵抗したようだが、それすらもわたしの記憶にはいっさい残されなかった。
こうしてわたしは、実の妹を殺した。
我に返って、妹の死体を見下ろす。
殺してしまった――わたしは何てことをしてしまったのだ? 後先考えずに、わたしは何て恐ろしいことをしてしまったのだ?
わたしは発作的とはいえ自分のしたことのあまりの重大さに、茫然とするばかりだった。
両手には、まだ妹の首の感触が残っていた。柔らかな喉に、この指が食い込み、彼女の気管をふさいだのだ。
これはまずいことになった――などというレベルではない。このままではわたしは殺人犯として、和巳ともども罰せられてしまう。
もとはといえば和巳に原因があるのだから、彼が巻き添えを食うことに同情する気持ちはない。だがもし精神鑑定でも受けさせられてわたしという別人格の存在が露呈すれば、わたしは確実に消される。人を殺すような危険な人格を残しておく理由はない。
どうする――どうしたらいい? とにかく死体を――目の前の妹の死体を始末しなければ。こんな現場を両親にでも見つかれば、自分が彼女を殺したと白状しているようなものだ。
屋敷の裏にある焼却炉――あそこで燃やしてしまおう。
両親が起床する前に急いで妹の死体を運び、焼却炉に入れ、火を点けた。妹の肉体は黒煙となって日の出前の空へ昇っていく。
こうして妹は、この世から永遠に姿を消した。
娘の失踪を知った両親の恐慌は想像以上だった。すぐさま警察に捜索願いを出し、屋敷の内外は騒がしくなった。
警官隊による山狩りがはじまった。両親は何も手につかない様で、一刻も早い愛娘の発見を、ただ祈っているばかりだった。
どれだけ捜したところで見つかるはずがない――死体だけではなく、部屋にあった妹の痕跡はすべて消してある。発覚することはないだろう。
連日の捜索で屋敷の周辺は慌ただしく、わたし一人の動向に気を留めるものなどいなかった。証拠隠滅は思ったより容易かった。
凄まじい苦痛の中で、わたしは夜中に目覚めた。
頭痛と目眩――それと吐き気。喉が焼けるように痛む。全身が勝手に痙攣する。
シーツの上に嘔吐した。それでも吐き気はおさまらず、げぇげぇとウシガエルのような声が口から漏れた。
どうしたんだ? この体に何があった?
身悶えながらも考える。だが苦痛に支配された頭は用をなさない。
ぐにゃぐにゃと歪んでいる視界に何かが見えた。つかんで顔の近くに持ってくる。
なんだ? これはなんだ?
小さな銀紙のようだ。しかも枕脇におなじものがいくつもある。
その銀紙に包まれていたものが何だったのか――恐ろしい想像が頭をよぎる。だがそうでもないと自分を襲っているこの症状の説明がつかない。
ベッドから転げ落ちる。息が――息ができない。吐瀉物を喉にでも詰まらせたのか?
喉を両手の指でかく。傷ついた喉から血が滲む。
汗がとまらない。体がいうことをきかない。視界の乱れがひどくなる。
死ぬ? 死ぬのかわたしは? いやだ死にたくない。わたしはまだここにいたい。ここで生きていたいんだ。
大量の涎がカーペットを汚す。視界のすべてが苦痛の最中に赤く染め上げられていく。
ど うして? どうしてだ? わたしを生んだのは両親と和巳の三人だ。勝手に生んで勝手に殺すのか? それはあまりに残酷ではないか?
わたし――わたしだって一人の人間として――。
それ以上は、もう何も考えられなくなった。
わたしは、ここで死んだ。
わたしは死んだ。間違いなく死んだ。
その証拠に今、わたしは自分の死体を見下ろしている――正確には和巳の死体だが。
身体機能が完全に停止しているのは、脈拍を確認するまでもなく明白だ。眼を剥き、舌をだらしなく垂らし、おまけに失禁までしているのだ。
和巳の魂も、もはやあの肉体には宿っていないことは疑いの余地がない。どこにいったのかは知らないが。
わたしの魂は、今はこうして自室の天井付近を漂うばかりだった。これで本当の意味で、わたしは体を失ってしまったわけだ。
和巳が薬を呑んで自ら命を絶った理由は、本人がいない今となっては想像する以外にない。いつまでかかるかも知れない病院生活より、わたしを道連れに心中することを選んだのだろう。
もしかすると和巳にはわたしを悪者にして抹消し、自分だけが生き残るつもりはなかったのかも知れない。
男として再教育を受けながら外の世界の楽しみを知らない和巳にとって、屋敷での日々は禁欲を強いられる生活だったのだろう。末永葉月との交流で初めて人を愛する感情を体験した彼には、なおのこと辛かっただろう。
和巳の心は、まるで自由を得てはいなかった。
そんなときに妹と木崎真吾の情事を聞いてしまい、末永葉月以来久方ぶりとなる彼の欲望に火が点いた。
和巳は木崎に嫉妬し、二人のことを両親に密告して彼を屋敷から追い出した。
相手は実の妹だ――倫理観の狭間で和巳は悩み苦しんだことだろう。
だがその後、妹の方から何度も何度も誘われて――和巳はついに屈した。
自分の中にわたしという人格がいるらしいと気づいた和巳は、どのような気持ちだったのだろう?
戸惑い? 恐れ? それとも嫌悪だろうか?
いずれにしても和巳はすぐにわたしをどうこうするつもりはなく、取り敢えずは様子見に徹することにした――そうでなければわたしはとっくに消されている。
だが結果として、それが妹の死を招いてしまった。自分が放置していたせいだと和巳が罪悪感を覚えたとしてもおかしくはない。
そして、和巳は責任をとることにした――自殺というかたちで。
――以上はあくまで推測の域を出ない。真実は闇の中だ。
妹を失なった母親は、すっかり心を病んでしまっていた。
警察による捜索がいったん打ち切られてからは、更に悪化したようだった。
一人で妹の部屋に籠り、何やらぶつぶつと喋っていることが増えた。内容を聞くに、どうやら母親は妹と会話をしているつもりらしい。もちろん部屋には母親しかいない。いるのはたくさんの人形だけだ。
父親は父親で、日がな一日何もせずに呆けてばかりいた。覇気のない様子は生きながら死んでいるようだった。
これならいっそ、二人も楽にしてあげた方がいい。
そうすればもしかすると、わたしをちゃんと見てくれるようになるかも知れない。かつてのように、わたしを愛してくれるかも知れない――。
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