第2話 指切り

 普段なら気にも留めない蝉の鳴き声が、今日に限ってはひどく耳障りだった。

 苛立ちのあまり、足元に転がっていた石ころを拾う。空地の隅に生えている木の前に立って頭上を仰ぎ、幹に止まっている一匹のアブラゼミ目がけて、思い切り投げつけた。アブラゼミがいるよりずっと下方の幹にぶつかると、木の根元へと落ちてきた。

 飛び去ることもなく、アブラゼミは何事もなかったように鳴き続けている。


 「…………」


 もう一度、アブラゼミめがけて石を投げ付ける。また外した。

 更に投げるが、やはり当たらない。

 新川淳平しんかわじゅんぺいは、虫が大嫌いだった。ミミズやムカデはもとより子どもたちに好かれているカブトムシやクワガタといった類を見ても嫌悪感しか抱かなかった。

小学二年の夏休み――同年代の友達がみんな虫採りに興じていた中、淳平はただ一人日頃の鬱憤をもて余していた。

 もともとインドアな性格だったが、今日は家にいる気にはなれなかった。

 今、家には淳平の二つ年の離れた姉がいた。

 先ほど淳平は姉と言い争って、そのまま家を飛び出してきたのだ。

 太陽は西に傾きつつある。そろそろ帰るべき時間帯だろう――そう思うと気が滅入る。姉と顔を合わせたくない。

 姉は普段から何かにつけて淳平に意地悪をしてくる。それが争いの原因の大半を占めている。自分に非はないはずなのに、母はといえば「喧嘩はやめなさい」と口にするばかりで一向に姉の行いを咎める様子はない。

 喧嘩をやめさせたいのなら元凶をなんとかしてほしかった。

 淳平がどれだけ訴えようと姉の方が弁が立つ。母はそれを簡単に鵜呑みにしてしまう。そのことがますます気に食わなかった。

 あんな姉に好きなようにされて、泣き寝入りするしかないなんて我慢がならなかった。

 特に今日されたことは、本当に許せなかった。淳平の携帯ゲーム機を無断で使用した挙句、フローリングの床に落として液晶画面に罅を入れたのだ。さすがに頭に血がのぼり、取っ組み合いの喧嘩になった。それを目撃した母が、「男の子が暴力しちゃダメでしょっ!」と理由もきかずに彼を叱りつけたのだ。それだけならともかく「お姉ちゃんに謝りなさい」とまで言ってきた。

 怒りと悔しさのあまり、淳平は家を飛び出したのだ。

 がつっ、と木の幹を蹴りつける。淳平の力などたかが知れている。彼のしたことは何一つ影響を与えず、蝉も動じない。


 「姉ちゃん、なんて……」


 やり場のない怒りが、口からこぼれる。


 「姉ちゃんなんて、いなくなっちゃえばいいんだっ……」


 がつ、がつっ――目の前の木に、八つ当たりをする。木は文句も言わずに淳平を見下ろしている。それがまるで自分のことをとるに足らない矮小な存在だと思われているようで、淳平は余計に癇に触った。


 そんなとき、ふっ――と周囲が暗くなった気がした。


 「……?」


 地面には、大きな陰が映っていた。どうやら暗くなったのは淳平の後ろに立った、誰か大人のせいらしい。

近付いてくる足音は、まったく聞こえなかった。いや、ただ単に怒りのために淳平の耳に届いていなかっただけだろう。


 「――やあ」


 ちょうど淳平が気付いたタイミングで背後の人物が声をかけてきた。

 振り返るとそこには白いシャツに濃紺のネクタイをした、背の高い男性の笑顔があった。


 「何だか、とても嫌なことがあったみたいだね?」


 見知らぬ男性にいきなり声をかけられ、警戒心もあらわに淳平は男性を見上げた。

 何だろうこの人は? 自分に声をかけてきて、いったい何の用だろう?


 「ああ、ごめん。知らないおじさんにこんな風に話しかけられたら、そりゃびっくりするよね。そんなつもりじゃなかったんだ」


 危害を加える気はないと両手をあげ、笑みを深める。


  「…………」


 「おじさんは家に帰るところだったんだけど、君があまりにも荒れてるようだったから見るに見かねて、ね。お節介かなとも思ったんだけど」


 淳平の警戒心をどうにかして解きたいのか、男性はやけに饒舌だった。


 「……おじさん、誰?」


 「僕? 僕は君のお父さんの知り合いでね」


 「お父さんの?」


 「うん。おんなじ会社で仕事をしてるんだ」


 父の同僚がなぜ自分のことを知っているのかは気になっていたが、父の名前が出たことでいくらか淳平は安心した。


 「良かったらおじさんに話してごらん? 誰かに誰かに話すだけでも、だいぶすっきりすると思うんだ」


 「…………」


 話すだけなら、いいだろうかと淳平は考えた。どこかに連れていかれるというわけでもないようだ。

幼い淳平は父の顔見知りというだけで男性にほん少し信じる気になっていた。

 それで淳平は姉とのことを、その男性にすべて話して聞かせた。


 「うぅん……そうなのか。だったら確かに、君のお姉さんの方が悪いね」


 「本当!?」


 初めて自分の味方になってくれた存在に、淳平はつい嬉しくなった。


 「君の言ったことが事実ならね……ああ、別に疑ってるわけじゃないんだ。ただいくら姉弟とは言ってもやりすぎだと思ってね。それでお姉さんを叱らない君のご両親もどうかと思うよ」


 「本当だよ。全部」


 これまでの仕打ちを思いだし、淳平はべそをかきそうになる。


 「ううん……だからいなくなってほしかったんだね……」


 「え?」


 「ごめん。君に話しかけようと近寄ったときにね。そう言ってたのが聞こえちゃったんだ」


  「…………」


 恥ずかしくなって、淳平はうつむく。


 「あ、ごめん。聞いちゃまずかったかな?」


 淳平は首を横に振る。


 「そうか、安心したよ」


 そこで男性は初めて真面目な顔をした。


 「本当に……お姉さんがいなくなればいいって思ってる?」


 「うん……」


 淳平は今度は首を縦に振る。


 「あんなお姉ちゃん……いらない」


 「そうか……じゃあその願い、僕が叶えてあげようか?」


 「えっ!?」


 意外すぎる台詞に、淳平は大きな声を出した。


 「でもその代わり、君が大切にしてるもの一つと交換だ」


  「僕の大切なもの?」


 「うん。何でもいいよ。本当に大切にしてるものならね」


  「一つだけ?」


 「そう、一つだけだ」


  「何でもいいの?」


  「何でもいいよ。大切なものなんて、人それぞれだからね」


 何でもいいのだったら楽だ――それに自分がどれだけ大切かなんて、本当のところはこの男性に分かるはずがない。

 それに願いを叶えるというのも嘘くさい。姉が急にいなくなるなんてありえない。

 多分、冗談なのだろう――淳平はそう結論付けた。


 「分かった……」


 そう、淳平は返答していた。


 「そうか。じゃあお姉さんがいなくなったら、この場所に君の大切なものを持ってきてよ。待ってるからさ」


 「うん……」


 「よし、なら約束だ」


 言って、男性は小指を差し出す。


 「うん、約束」


 その小指に、淳平は自分の小指を絡めた。


 「ゆーびきーりげーんまーん、うーそつーいたーら、はーりせーんぼーんのーます。ゆーびきったっ……これでよし、と」


 そして男性はにこ、と笑った。


 「まずは僕からだね。ちゃんと約束は守るよ」


 こうして男性は帰っていった。




 八月もあと二週間もしないうちに終わろうとしていた。八月が終わるということはつまり、夏休みが終わるということだ。

 そこで淳平は、残された夏休みの宿題の片付けに追われていた。これまで怠けていたつけが、月末に押し寄せてきたというわけだ。

 部屋で一人ぶつぶつと愚痴を呟きながら、一日の大半を机にかじりついて過ごしていた。もっと早めに取り組んでいればという後悔が頭をよぎる。これも毎度のことだった。

 危機感に突き動かされて歯を食いしばって集中して課題のプリントを睨み合いをしているうちに、太陽はあっという間に本日の役目を終えようと地平線の彼方でオレンジ色に輝いていた。

一息吐きながら、淳平は夏休みの残り日数と宿題の進み具合を頭の中で照らし合わせる。何だか嫌な予感がしたので、そこで考えるのはやめにした。現実逃避を図ったのだ。

 こうしている間も時は無情にも過ぎていく。勉強している者にも遊んでいる者にも等しく終わりはやってくる。まだ済ませていないからといって時間は待ってはくれないし、巻き戻ってもくれない。時間の使い方はあくまで自己責任だ。大人も子どもも関係ない。


 「夏休みの宿題って、何でこんなに多いんだよぅ……」


 また愚痴をこぼす。そうでもしてないとやっていられない。この状況がどうにもならないのなら、せめて愚痴ぐらいは自由に言わせてほしい。

 それでも今日はいつになく宿題ははかどっていた。どうしてだろうと考えたら、今日は姉の邪魔が入らなかったからだと思いいたる。姉はとにかく淳平の嫌がることをしてくるのだ。

 今日の昼間から、淳平の姉は友達の家に遊びに出かけていた。いっそのことこちらの宿題が片付くまで帰ってこなければいいのにと、淳平は思った。

現在の時刻は六時になろうとしていた。いつも通りならあと三十分か一時間したら夕飯になる。もうじき姉も帰宅してくるだろう。そうなったら宿題どころではない。そろそろ切り上げる頃合いだ。 

 こちらの宿題を妨害しておきながら、姉の方はとっくに宿題を済ませてしまって余裕綽々といった様子だった。それがまた気に食わないこと甚だしい。

 キッチンからはとんとんと包丁がまないたを叩く音や、ぐつぐつと食材を煮る音、そしてかちゃかちゃと食器の擦れる音もし始めた。もうじき夕飯だ。

時刻は六時半を過ぎていた。


 「…………?」


 姉はもう帰ってきているのだろうか? 玄関からの物音を聞いた覚えはないが。


 「……姉ちゃん、帰ってきてる?」


 部屋を出て、キッチンで忙しなく動いている母に訊ねる。


 「そういえば、まだね……何してるのかしらあの子は。あとちょっとで夕飯になるのに」


 呆れ顔で母は言う。


 「淳平は何か聞いてない?」


 「ううん……」


 「そう……こんなことは今までなかったのに」


 母の言うとおり、姉の帰宅がここまで遅いことは一度もなかった。友達と一緒に時間も忘れて今も遊んでいるのか、帰りにどこかで道草を食っているのか――。


 ふと淳平の脳裏に、以前に見知らぬ男性と交わした約束のことが思い出された。


 「…………」


 まさかとは思いながらも、一抹の不安を拭い去ることはできなかった。

 六時五十分になると、夕飯の準備が一通り済んだ。

 だが姉は、まだ帰って来ない。

 七時を過ぎてすべての料理がテーブルに並んでもなお、姉は帰宅しなかった。


  「もう夕飯だっていうのに……どうしちゃったのかしら」


 さすがに心配になったのか、母は淳平に先に食べているように伝えると、クラス名簿を見ながら姉の友達の家に一件一件電話をかけていった。


 「――はい……えっ? そうですか……いえ、ありがとうございます」


 何件目かに、母はそう言って電話を切った。


  「どうしたの?」


  気になって淳平はきく。


 「五時前には……友達の家から帰ったらしいの」


 母の顔は、はっきりと青ざめていた。




 事態の深刻さを悟った母は、すぐに警察へ捜索届を出した。

母は姉の身に何が起きたのか見当もつかずに気が気でないようだったが、淳平には別の懸念があった。

 もしかすると姉の失踪には、あの男性が関係しているのかも知れない――と。

 いや十中八九、関係はあるだろう。無関係だとする方に無理がある。

 だが淳平はそのことを誰にも打ち明けられなかった。なぜならあの男性の仕業ならつまりは自分のせいだということになる。まともに信じてはいなかったというのは言い訳にならない。間違いなく自分は責められる。

 その事実を認めるのが恐ろしくて、とてもではないが口にはできなかった。

 淳平の恐れを裏づけるかのように、失踪した日に姉がスーツを着た三十代後半の男性と一緒にいたという目撃情報まで現れた。だが男の素性やその後の足取りについての捜査は難航してるようだった。

 母は日毎に元気をなくして食事も喉を通らず、またろくに寝てもいないのか、頬はやつれて目の下には濃い隈が出来ていた。

 こんな母を、本当なら淳平が慰めの言葉をかけるべきなのだろうが、原因が自分にあると思っている彼には、それがどうしてもできずにいた。

 ただあの男性が一刻も早く逮捕され、姉が無事に見つかるときを待つのみだった。

 男性との約束のことなど、頭からは抜け落ちていた。まさか本当に実行するなど夢にも思わなかったし、姉の失踪に自分自身も加担しているという罪悪感が、男性と会った空き地を避けさせていた。

『姉がいなくなる代わりに、こちらが大切にしているものを一つ差し出す』――今になって思えばまるで割に合わない約束だ。男性の方では何一つとして失うものがない。男性はそれを分かっていて提案したのだろう。ならこちらは欺かれたに過ぎない。こんな約束は無効だ。

 それでもいくら空き地に近づかないようにしたところで、あちらから直接やってくるかも知れない――そんな恐怖心に苛まれる日々を送っていたが、一週間二月経っても二週間、そんな事態は来なかった。

 罪悪感より恐怖心が勝っていた。だが時間の経過はそれすらも薄れさせていった。

 安心していなかった、と言えば嘘になる。気が緩んでいたのは確かだ。

 淳平の生活に男性の影が再び現れ始めたのは、そんなときだった。

 十二月のある日、自室で勉強をしてた淳平の耳に母の悲鳴がきこえた。ただ事ではないと思い、急ぎ部屋を飛び出す。

母はリビングにいた。やってきた淳平を振り向きもせず、引き攣った表情でテーブルを見下ろしている。

 テーブルの上にはポストから取り出してきたばかりらしい郵便物に混ざって、宛名も何も書かれていない茶封筒がある。その中からこぼれているものをみて、淳平は絶句した。

 

 それは、大量の裁縫針だった。


 「いったい、誰が……どうして……?」


 母がそう呟くが、淳平は一目見たとたん、この裁縫針が意味しているものを悟ってしまっていた。


 指切りげんまん ウソ吐いたら 針千本のます――。


 自分が約束を守らなかったから――だからこうして封筒に《針千本》を入れて直接、玄関ポストに忍ばせたんだろう。

 

 誰が? というのは当然、夏休みに一度会い、交わした約束に従って姉を誘拐したスーツ姿の男性に決まっている。

 自分だけが真相を知っている。自分だけが――自分が打ち明ければ姉は助かる可能性だってあるだろう。だがその後はどうなる? 姉が攫われたのが自分のせいだということが、果たして許されるだろうか?

 もし自分が同じ立場なら、決して許しはしないだろう。

 あるいは淳平がもう少し大人であれば、もっと正しい選択をすることもできただろう。だが彼の思考はあくまで自身の保身を優先してしまっていた。淳平の中では恐怖が勇気をはるかに凌駕していたのだ。


 針千本が入った封筒は、年が明けて以降も頻繁にポストへ投函された。淳平の母は警察にも相談したが、犯人は手袋をはめていたのか封筒には指紋がいっさい残っていなかった。だが針を入れた封筒を危険を顧みずにわざわざ直接ポストへ投函した理由が不明だった。失踪事件とどう関係してるのかも謎だった。

 その謎の答えを持っているのもまた淳平だけだったが、彼には警察の捜査の推移など知る由もなかった。

 淳平を含めて誰もが、犯人逮捕まで今回の奇行は続くものだと考えていた。


 だが事件は唐突に――誰もが予想だにしない結末を迎えた。


 三十八歳の会社員の男性の死体が、彼の自宅で発見された。死因は手首を剃刀で切ったことによる失血死――つまり自ら命を絶ったのだ。

そして男性の部屋の押入れには、淳平の姉の変わり果てた姿があった。

 これによって自殺した男性こそが淳平の姉を誘拐した犯人であり、彼女を自宅で監禁し、殺害したことは、もはや疑いようはなかった。

 以上のことはたまたま目にしたニュースでも取り上げられていたが、明らかになった事実の中で不可解なものが、一つだけあった。

 自宅で発見された男性と姉の死体は、少なくとも死後半年以上は優に経過していたということだ。つまり新川家のポストに裁縫針入りの茶封筒が投函されはじめたときにこの世を去ったことになる。


 姉の仏壇の前に正座し、ひとり手を合わせながら淳平は考える。他に男性との約束を知っている人物がいたのだろうか? 男性が誰かに話したのか? 姉の事件には共犯者がいたのだろうか?


 淳平が物思いに耽っていると――ぽと、と目の前の畳に何かが落ちた。それを見て、淳平はぎょっとした。


 それは、一本の裁縫針だった。ふと視線を感じて、淳平は顔をあげた。


 写真の中の姉が、恐ろしい形相でこちらを睨んでいた。

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