絶望症候群

黒砂糖

第1話 自己犠牲

 宮原修みやはらおさむはどこにでもある平凡な家庭に生まれた、ごく普通の少年だった。

 明るく優しい両親と三人で、ときには些細なことで言い争うぐらいで、基本的にはとても仲が良かった。

 笑いが絶えない家庭だった。こんな日々がずっと続いていくのだろうと、修は信じて疑わなかった。


 だが終焉は予兆もなく、唐突に彼らを襲った。


 修が小学五年に上がったばかりの頃――母と二人で夕食にありついているときに、一本の電話が鳴った。

 おそらくまた、セールスか何かだろう――修はそう思った。母も少しうんざりした顔をしていたため、彼とおなじことを考えていたのだろう。

 だが電話をとって応対しているうちに、母の声が上ずった。

 父が会社帰りに、電車に轢かれたのだった。


 急ぎ警察署に赴いた彼らを待っていたのは、冷たくなった父の姿だった。

 警察の話によると、父はホームから転落した二十代の男子大学生を助けようとして線路に降りたらしい。居合わせた人々の手助けもあって大学生はホームに引き上げられたが、その直後に快速電車が通過していった。

線路にはまだ、父が残っていた。


 「あの人、らしいわ……」


 母はそう呟いたが、その声には嗚咽がまじっていた。修は突然のことで頭が現実についていけず、呆けたように霊安室のベッドに横たわっている父を見つめていた。


 父のことはニュースでもとりあげられ、市から感謝状も送られた。

 みんな、父がしたことを「自らの命を省みない勇気ある行動」として高く評価していた。

 自己犠牲によって他人を救った修の父は、世間から「英雄」扱いをされていた。

 修の気持ちはといえば、父を失った悲しみと父がみんなから褒め称えられていることに対する誇らしさとで、ない交ぜになっていた。

 だが父へのそんな評価も修の感情も、続いたのはほんの短い間だけだった。

 父がいなくなり、修たちは母一人子一人の生活になった。

 父が遺してくれた貯金も、やがて余裕がなくなり出した。修が生まれてからは家事に専念していたは母だったが、そろそろ手に職をつけなければ厳しくなってきた。

 そうして、修の母はパートに精を出すようになった。正直、彼女一人の収入では今の家のローンを払い続けるのは大変だったが、家族の思い出が詰まった家を手放すという選択は、彼女には考えられなかった。

たとえ自分一人でも息子と、この家を守る――守ってみせるという固い決意があった。

だが、そんな気負いが仇となった。

死に物狂いで働く母に、以前の面影はなかった。

表情からは笑顔が消え、かわりに眉間には深い皺が刻まれた。肌は荒れ、溜息を吐くことも多くなった。

父の死をきっかけに、かつての明るい家庭は失われてしまっていた。

修はそんな母を見ているのが堪らなく辛かったものの、口になど出せるはずがなかった。

母もまたこれ以上は何も言い返せなかった失うまいと必死なのだと――せめて今この家庭だけでも守ろうと頑張っていることを、身に染みて理解しているつもりだったからだ。


 だが、やはり無理がたたり――母は過労で体調を崩し、入院を余儀なくされた。


 一人になった家で、修は父の仏壇に飾られた感謝状をじっと眺めていた。

 そうしているうちに、いいようのない怒りが沸々と込み上げてきた。

 遺された者の気持ちも知らないで――何が『勇気』だ? 何が『素晴らしい』?

 父は『英雄』なんかではない。少なくとも自分たち家族は救われてなどいない。

 もし本当に『英雄』なら――自分たちはなぜこんなにも不幸なのか? なぜこんなにも満たされないのか?


 これは、決して『美談』なんかではない――これは、『悲劇』だ。

 

 修は感謝状を鷲掴みにすると、思いきり床に叩き付けた。そして、更に足で踏みにじった。

気持ちが落ち着くまで、修はそうしていた。

修は母方の親戚の家に預けられた。だがそこの家族の性格は、修の両親とは正反対だった。

親戚の両親が嫌々ながら修を招いたことは、幼い彼にも察することができた。それほど彼らは不快感を露わにしていたのだ。

縁者だから仕方がなく面倒を見てやっている――そんな横柄な態度で、親戚の両親は修に接した。当然、自分たちの子どもに対するものとはまるで違っていた。

食事も別々で、寝床は物置だった。入浴は一番最後だったが、風呂の栓が抜かれていることがしばしばあった。わざとだということは、修も気付いていた。両親に何かを吹き込まれたのか、それとも自分たちの意志なのか、その家の二人の兄弟はことあるごとに修を虐めるようになった。

殴る蹴るをはじめ、物をとられることも頻繁にあった。反撃すれば彼らは両親に言いつけた。親戚の両親もはじめから修の言い分になど耳を傾ける気はなく、兄弟の言葉を鵜呑みにした。

修は罰として、一晩中屋外に締め出された。


 「ここにいられなくなったら、お前はどうなる? よく考えろ」


 朝になってようやく中に入れられたとき、親戚の父親は修にそう言った。

 それ以来、修はいっさい反抗的な態度をとれなくなった。

 この一件で調子に乗った兄弟は、自分たちの悪戯や不始末の責任をすべて修に押し付けるようになった。

 この家で、修は奴隷のような扱いを受けて育っていった。

 やがて病床にいた母が息を引きとったことで、もとの暮らしに戻ることは叶わなくなった。思い出の家も、親戚の両親がさっさと売り払ってしまった。それで得た金は、修には一銭も与えられなかった。

 父が死んだことで、修の人生は何もかも崩壊してしまった。

 かつての幸せな日々の記憶も、現在の生き地獄を過ごすうちに薄れていき、思い出すのも困難になってきた。


 高校に進学すると、修は迷いなく親戚の家を出ることを決意した。格安のアパートで一人暮らしをはじめ、学費と生活費を自分でまかなうためにアルバイトをいくつも掛け持ちした。

忙しかったが、親戚の家での暮らしに比べれば何ら苦ではなかった。むしろ充実感さえあった。

 そうして大学まで順調に卒業し、修は晴れて社会人となった。これまでバイトや勉強をしていくだけでやっとで恋愛などとは無縁の生活だったため、この時点における彼の恋愛経験はゼロだった。

 だが社会人となった今、収入は安定していて、以前のように自分の時間を犠牲にする必要はなくなってきていた。

今後はもう少し、自分の人生を楽しんでみるのも悪くないかも知れない――彼はそう思うようになった。


会社勤めを初めて三年が経った、12月のある日――修は職場の上司に誘われ、仕事帰りに二人で居酒屋に向かった。

三十代半ばのその上司は、普段から仕事の愚痴をよくこぼし、部下からの信頼は薄い人物だった。この日の修も、またこの上司の愚痴に延々と付き合わされるのかと思うと、内心うんざりしていた。

 おまけに上司はアルコールに弱いくせに、やたらとピッチが早い。こちらも酔わなければ付き合っていられないと思い、修もいつもよりペースをあげていたが、その彼がまだ素面のうちに上司の瞳はとろんとして、次第に呂律も回らなくなっていた。

職場のことだけでなく、家庭での不平不満まで上司は垂れ流した。修はおざなりな相槌を打ちながらも今夜は長くなりそうだ、終電までには帰れるだろうかとそんな別なことを心配していた。そのせいでうっかり相槌を怠り、「お前はちゃんと聞いているのか」と怒られてしまった。

 だがこれも仕事のうちだ――そう自分に言い聞かせることで、修はひたすら上司のご機嫌とりにつとめた。


  「――そうそう、これを見てくれよ」


 ようやく愚痴が一段落したかと思うと、上司はそう言い、いきなり左腕をまくった。


  「ここだ、この傷」


 言って、自分の左手首に残された複数の傷痕を見せた。

 どれも一直線に引かれたその傷は、明らかにリストカットによるものと分かった。


 「俺がまだ学生のときにやったんだ」


 そして上司は懐かしげな顔をする。


 「若かったからなぁ。自分が何のために生きてるのか分からなくて、人生がとてもつまらなく感じてな。だったら死んでみようか、死んだ方がましか、なんて考えちまって……いろんな自殺の方法を調べてみて、試してみたりもしたんだ」


 修には理解できないことだった。そんなくだらない理由で簡単に死を選ぶなんて。


「でも今思えば、本気で死ぬつもりなんてなかったんだよな。ただ退屈な日常に刺激がほしかったというか、死を身近に感じることでスリルを味わいたかったんだな」


 冗談じゃない、死は遊びではないんだ――そんな言葉が喉からでかかったが、今目の前にいる上司にそれをぶつけても仕方がないことだと思い直した。


「そんなんだったから、人にも迷惑をかけたしな……」


上司の話はまだ続くようだった。こんな不愉快な話は、さっさと終わってほしかった。


「あれは大学に通ってたとき、だったか……サークルの飲み会の帰りにホームで電車がくるのを待ってたら、また急に死にたくなる衝動がわき起こってきて。そのまま線路に飛び降りちまったんだ」


「…………?」


上司の話をきくうちに、修は何だか胸のうちがもぞもぞし始めた。

嫌な予感――というものだろうか? この話は自分に良からぬものをもたらすような、そんな気がした。


「あのときは今度こそ死ぬかな、と思ったもんだ……いや、毎回思ってたけどな」


修の心情も知らず、上司は話を続ける。


 「そしたら、背広を着たサラリーマン風の男の人が自分も線路に降りてきて俺の体を起こして、ホームの上に押し上げてくれたんだ。ホームにいた人も俺の腕を掴んで力を合わせてひっぱりあげてくれてなぁ……」


 上司はそこでいったん言葉を切った。修の心臓は次第に鼓動を早めていく。

 しばらく間をあけたあと、再び上司は口を開いた。


 「まぁ……おかけで俺は助かったんだが、そのサラリーマンは死んじまったよ。俺の自殺に巻き込まれて」


  「……その」


 修はそこで、初めて口をはさんだ。


 「……ん? 何だぁ?」


 「そのことがあったのは……何ていう駅ですか?」


 多分、違う――たまたま似ているだけだ。こんな偶然なんて滅多にない。だが時期的には一致している――修の父が、死んだ時期と。


 「ええっとな……確か……」


 上司は記憶を捻り出すようにこめかみに親指を当てた。

違っていてくれ――自分の考えすぎであってくれと、祈るような気持ちで修は上司の答えを待った。

忘れてしまっているなら、それでも構わない――違う可能性が、少しでも残されているのなら。


 「ああ、思い出した……そう、×××駅だ」


 だが上司は思い出し、その駅名を口にした。

 そのとき、修が受けた衝撃はとても言葉では表現できないほどだった。

 そう――その駅こそ、かつて修の父が一人の大学生を救い、かわりに命を落とした場所だったのだ。


 それから居酒屋を後にするまでのことは、修もあまり覚えていない。それほどこの事実は彼にとってショックだったのだ。どんな話をしたのかも記憶にない。

 ただ、先ほどの話の締めくくりに上司が口にした言葉は、はっきりと覚えていた。


「――ったくよ。俺なんかを助けようとしなけりゃ、あの人も死なずにすんだってのになぁ……」


自分のせいで死んだ人間への感謝でも謝罪でもなく、上司はそんなことを言ったのだ。もちろん、反省しているようにも見えなかった。

 すべては若さゆえの行動で、今となってはもう過ぎ去ったこと――まるでそうとでも言いたげな様子で。

 まさか自分の目の前にいる部下が、そのときのサラリーマンの息子だとは夢にも思ってはいないのだろう。

修にとっては、あれは過去のことでは到底済まされない。父の死によって、自分の人生は狂わされたのだ。父があのとき死ななければ母ももっと長生きができたに違いない。自分だって親戚の家であんな辛い目にあわずにすんだ。


自分たち家族を襲った不幸は、すべてこの上司が元凶だった。

 それを、修は知ってしまった。


 若かりし頃のことだから――ずっと昔のことだから、もう時効だと――許されることだとでも言うつもりなのか?  遺族のことを少しでも考えたことがあるのか? 彼らのその後の人生について、少しでも思いを馳せたことがあるのか?  罪の意識というものを、少しでも感じたことがあるのか?

修にはどう見ても、今の自分の上司が当時のことを後悔しているようには思えなかった。

泥酔した上司に肩を貸しながら、繁華街から離れていく。タクシーはなかなか捕まらなかった。このまま徒歩で送らなければならないようだ。上司の自宅が近いのがせめてもの救いだ。

酔いの回った上司の顔は、何だか幸福そうに、修の目には映った。


  「うっ、ぷ……」


 吐き気を催した上司は、修から身を離すと、通りがかった橋の欄干から身を乗り出して嘔吐を始めた。


 「……大丈夫ですか?」

 

 修は上司の背中を何度も擦ってやる。

 こんな男のために父は自らを犠牲にしたのか――ふとそんな思いに囚われ、修は上司に怒りを覚えた。

 せめて、誰もとばっちりを受けない方法で死んでいてくれればいいようなものを――。


 「ううっ……すまないな、宮原君……」


 「いえ……気にしないでください」


 上司の言葉にも、上の空で返す。

 この男のせいで父は死んだ。この男のせいで母も死んだ。この男が自分の家庭を壊した。

 恨みのフレーズが、脳内でリフレインする。

 修は無意識のうちに、周囲をうかがっていた。夜遅くで、この辺りの人気はすっかり途絶えている。

一方、自分の上司は足元も覚束ないほど酔っている。

 この二つの条件が、修の頭の中で合わさったとき――彼は行動に移していた。


 上司の両足を抱え、そのまま持ち上げる――修がしたのは、ただそれだけのことだった。


 驚いたような、ほんの短い声を発しただけで、修の上司は彼の視界から消えた。

 あれほど泥酔していれば、誤って橋から転落しても何ら不思議ではない――あのときの修の耳に、そう悪魔が囁いたのだ。


 「良かったですね……望み通りに、死ねて」


 そう呟いた修の表情からは、いっさいの感情が抜け落ちていた。

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