第5話 透明人間

 そいつの喉から噴出した鮮血をまともに浴び、体が朱に染まる。

 しまった――これでは私がやったと一目で分かってしまう。

 人を殺した罪悪感はない。そもそも嫌がるから服を無理やり剥ぎ取ろうとするようなやつだ。当然の報いだ。普段から裸で行動し、羞恥心などない私と、彼らとは違う。

 視線を感じて振り向く。助けたその娘が驚愕の表情で私を見ている。彼女にしてみればあっという間の出来事だったろう。

 私はふいと彼女から目を逸らす。こんな私の姿を見れば、怯えられても仕方がない。それよりすぐにこの場を離れなければ。本気で逃げる私に追いつける者など、誰もいない。


 「……ま、待って」


 去ろうとする私の背後から、彼女の呼び止める声がする。つい足を止めてしまう。なぜそうしてしまったのか、自分でも分からない。

 彼女は地面に投げ捨てられた自分のコートを拾い上げると、私に近付いてくる。その足取りに迷いはない。

 いったい、何のつもりなのか――彼女は、いきなり手にしたコートで私の体を覆った。血がつくのも厭わずに。


  「さ、行こう。早く」


 彼女はそうして、説明もないままに私をどこかへ連れて行った。




 そうして到着した場所は、なんと彼女の自宅だった。


 「今、家族はいないから。多分、遅くまで帰らない」


 言って、彼女は玄関の鍵を開ける。

 それにしても妙な娘だ。この私に対しても他の人間と同じように接するのだから。


 「中に入ろ――ああその前にまず足、拭かないと」


 裸足の私が家にあがれば当然、床が汚れてしまう。そのことに今になって気が付いたようだ。


 足を拭き終わると、彼女は私をシャワールームに案内した。目に見える血は温かな水で洗い流せたものの、腥い匂いはかすかに残ってしまう。彼女も気が付いたのか形のいい眉を寄せていた。

 タオルで体を拭くと、彼女が用意した服を着る。


 「……弟のものなの。捨ててなくて良かった」


 服のサイズは私にもぴったりだった。だが全裸が普通の私にはどうも違和感がある。そのうち慣れるだろうか。


 「弟はかけるっていってね。落ち着きはないし言うことはきかないしでそれはもう大変だったけど、人懐っこくて可愛い弟だったんだ」


 彼女は弟について過去形で話す。それにその表情もどこか翳りが窺える。


 「でも去年、死んじゃったんだ……病気でね……」


 語尾が小さくなり、彼女は俯く。気まずい静寂が場を包む。

 だが私に、彼女のためにしてやれることはなかった。ただその傍から離れず、見守っていることしかできない。

 すると「あっ」といきなり声をあげて、何かを思い出したように彼女は顔をあげた。


  「そうだ、ごはん!」


  慌てて立ち上がり、ぱたぱたとキッチンに向かう。冷蔵庫や戸棚を漁る音がする。しばらくして肩を落とした彼女が戻ってくる。


  「食べられそうなのないや......どうしよう、買ってこないと」


 彼女は自分の財布を取り出すと、中身を改める。


  「足りるかなぁ......こんなことならお小遣い、もっと貯めておけばよかった」


 溜め息をひとつ吐いた後、彼女は私を促して別の部屋に行く。勉強机にベッドに箪笥があり、小物には女の子らしさが感じられる。彼女の部屋なのだろう。


  「わたしが帰ってくるまで、ここで大人しくしてて? 近所の人にバレたらまずいから」


 彼女はそんなことを口にする。

 まったく失礼な。それくらい出来るに決まっている。私をいくつだと思っているのだ――こう見えてもそれなりに歳は食っている。

 私は抗議の声をあげるも「静かにね」と聞く耳を持たない。扱いに不満はあるがそこは仕方ない、諦めることにする。


 彼女が買い物に行くと、特にすることもない私はとりあえず部屋の床に寝転がる。

 私が殺した人間の死体は、もう発見されただろうか? 人目につき難い場所とはいえ、あのまま放置していればすぐに誰かが見つけるだろう。

 現場に致命的な手がかりを残してはいなかっただろうか? 私はともかく、心配なのは彼女のことだ。

 彼女は、なぜ私などを匿うのだろうか? あのとき、さっさと逃げるなりなんなりするべきだったのだ。私を庇っても自分の立場が悪くなるだけだ。

 それとも昨年に亡くなったという弟と私を重ねているのだろうか? だが私は私で断じて彼女の弟ではない。代わりになどなれないし、今の私はかえって彼女を不幸にする存在でしかない。

 本当なら彼女が帰ってくるまでの間に、どこかへと消えるべきだ。だが――、


 かちゃり――。


 ふいに、玄関の方から音がした。続いてドアを開け閉めする音――彼女が帰ってきたのか? それにしては早すぎる。

ふいに、玄関の方から音がした。続いてドアを開け閉めする音――彼女が帰ってきたのか? それにしては早すぎる。

 

 鍵をあけたということは、彼女の家族だろうか? だが帰宅は遅いはずでは?

 私は身を起こすと、聴覚に全神経を集中させる。侵入者は忙しげな足音を立てて別の部屋に向かう。

 やがて、がさごそと何かを漁るような音――よほど焦っているのかやたら騒々しい。


 まさか――空き巣か? 彼女が外出し、家に誰もいないと思い金目のものでも盗みにきたのだろうか? 鍵は用意したピッキング用の道具でも使って開けたのか?

 私はとたんに緊張した。もし空き巣なら追い払わなければ。だが今ここで騒ぎを起こせば、周りに私の存在を知られる危険がある。それはすなわち彼女が私を匿っていることを知られるこということだ。彼女が責められる事態は何としても防ぎたい。私が出方を決めかねて室内をうろうろしているうちに、用がすんだのか侵入者の足音がまた聞こえた。玄関の方に向かったのでそのまま立ち去るのだろう――いや違う。ドアの開閉音がしない。

 そして侵入者は、なんと私のいるこの部屋へと近付いてきた。

 時間がない――慌てた私は、とっさにベッドの下に潜り込む。直後、部屋のドアが開かれる。危ないところだった。もう少し遅ければ気付かれていただろう。

 だが侵入者は部屋のものに触れるでもなくその場から動かない。ちらと見える足からすると女性のようだが――どうやら室内の様子を窺っているようだ。私は息を殺して相手が立ち去るのを待つ。


 かちゃり――。


 だがそんなとき、また玄関の鍵を開ける音がして、誰かが中に入ってくる。


 「ただいまー……ん?」


 彼女の声だった。買い物から帰ってきたのだ。


 まずい――彼女が侵入者と鉢合わせしてしまう。何事もなければこのままどこかへ消えただろうが、彼女に目撃されたとあれば無事に済む保証はない。

 自らの身に危険が及ぶ可能性など露知らず、彼女の足音がこちらに近付いてくる。我が身よりもまず、彼女を優先すべきことは悩むまでもなく決まっている。私はそろそろと相手に気取らないようにベッドから這い出し――


  「ああっ‼ お母さん!?」


 叫んだ彼女の言葉に、慌てて身を引っ込める。


 「何で帰ってきてるのっ? 遅くなるんじゃっ?」


 「仕事でこのあと必要な書類をとりにきただけよ」


 侵入者――いや、彼女の母親が答える。危ない、もう少しで襲いかかるところだった。


 「わたしの部屋で何してるの!?」


 「誰もいないのに物音がした気がしたから……気のせいだったみたいだけど。それよりどこに行ってたの? それ、今持ってるのを買ってきたの?」


 「えっ……いや、これはね……」


 「別に隠さなくてもいいじゃない。どうせおやつか何かでしょう?」


 「そ、そうそう……おやつ……食べたくなっちゃって」


 彼女はしどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。そんなに動揺しては怪しまれやしないだろうか?


 「ああ、早く戻らないと。じゃあ行ってくるわね」


 「うん、行ってらっしゃい」


 遠ざかる足音――玄関ドアの開閉音で、母親がまた仕事に向かったのが分かった。


 「どこにいるの? もう大丈夫だから出てきて」


 呼ばれて私はベッドの下から姿を現す。


 「そんなところにいたんだ?」


 彼女は私を見て目を丸くし、それから手に提げた袋を示す。


 「買ってきたよ。さ、ごはんにしよ?」


 そして私たちは、二人で夕食を摂った。彼女は畳の上できちんと正座をしてコーンサラダを食べている。慣れているのか足が痺れた素振りはない。

 テレビではちょうど報道番組が流されている。平静を装ってはいるものの、彼女も今日のことが気になっているのだろう。

 やがてテレビは見知った風景を映し、彼女の顔が強張った。

報道によると、死体を見つけたのは近所に住む老人らしい。あとは死因と近隣住民のインタビューだけで、目撃情報の類はない。とりあえず安堵した。

 だが彼女にとっては早くも死体が発見されたというだけでも充分だったらしく、顔色が芳しくない。食事の手は完全に止まってしまっている。


 「……ごちそうさま」


 まだ手つかずのものが残っているというのに、彼女は食器を流しに運んで行った。それからは口数も少なくなり、入浴を済ませるとすぐベッドに横になる。

 しばらく寝付けないようだったが、彼女はやがてすうすうと寝息を立てはじめた。それを確認してから、私もベッドの下で身を横たえて目を閉じた。




 翌日になると案の定、彼女は学校を休んだ。母親には寒気が酷くて――と説明していた。実際、彼女の顔色は著しく悪かったため母親は鵜呑みにしたようだ。

 私は母親が仕事に行くまで、ベッド下に隠れていた。玄関のドアが閉まる音がして彼女の合図を待ってから出てくる。

 食事と用を足すとき以外、彼女は部屋から出なかった。ときおり不安げな視線を窓の外に向けるだけで、ベッドで布団を被って過ごしている。

 昼を過ぎた頃、いきなり玄関でノックがした。一度ならず、二度三度と――しつこい。いったいどこの誰だ?

 初めは無視しようとしていた彼女もついにベッドから抜け出し、玄関に向かう。私もそっと後についていく。

 だがドアスコープを覗いたとたん、彼女の顔は一気に青ざめた。それから応対することもなく部屋へと引き返してまたベッドに潜り込んだ。

 誰だったのだろうか? まさか警察か?

 訊ねることも出来ず、私は固く閉ざされたドアを見つめていた。


 翌日もまた、彼女は仮病で学校を休んだ。傍目から見ても登校できるような精神状態とは思えないが、周囲から妙な勘繰りをされるのではないかと私は不安だった。

 私がこの家から出ればそれで済む話だったが、彼女がそれを許そうとしない。昨日だけでも何度阻まれたか分からない。

 テレビの報道では被害者の死亡推定時刻が明らかになり、現場からは女性のものらしい毛髪が発見されているらしい。彼女のものだろう。DNA鑑定の結果が出れば、捜査の矛先は彼女へと集中することだろう。それに今の彼女が堪え切れるかどうか――。


 彼女の母親が帰宅したのは、夕刻になったときだった。どうやら娘を心配して仕事を早めに切り上げてきたらしい。そのしわ寄せが後にくることは理解しているだろう――良い母親だ。私はこっそりと、二人のやりとりをうかがう。


 「どう、具合は? 少しは楽になったの?」


 「う、うん……」


 仮病を使った罪悪感で、彼女は母親の顔をまっすぐ見られずに俯いている。


 「ご飯、作るわね。久しぶりに一緒に食べましょう?」


 母親はキッチンに向かい、包丁がまな板を叩く軽快な音が聞こえる。やがて夕飯が出来上がり、二人は食事を始める。私は彼女の部屋で聞き耳を立てながら、物音を立てないよう注意してじっとしていた。

 もっぱら母親が話題をふり、それに彼女が答えているようだった。娘と食事をするのが久しぶりと言っていた母親の声は、どこか嬉しげだ。


 食事をしてしばらくすると、玄関でノックの音がした。


 「……はい?」


 母親が玄関に向かい、応対する。


 「お食事中にすみません。今、少しお時間頂けますか?」


 男の低い声が聞こえる。


 「どういったご用件でしょう?」


 母親の声が、とたんに固くなる。

 警察――私はなるべく会話を聞き取ろうと、部屋のドアを薄く開く。


 「先日、娘さんの通う小学校のクラスメイトの男の子が亡くなった件はご存知ですね?」


 「ええ……それが、何か?」


 「実は、そのことで少々お話がありましてね」


 「……分かりました。あなたは部屋に戻っていなさい」


 言われるがまま、彼女が部屋にくる。その表情は青というより真っ白だ。彼女と一緒に母親と警官の会話を盗み聞く。


 「それで、話というのは?」


 「はい……実は事件について学校で話をうかがっていたところ、どうやら娘さんがクラスでいじめに遭っていたらしいと分かりました」


 「えっ……?」


 「その様子だと、ご存知ではない?」


 「え、ええ……最近は仕事で、娘とほとんど話をする機会がなくて」


 責められていると思ったのか、母親の声が心なしか小さくなる。


 「娘さんはクラスの子たち、みんなから無視をされていたようです。彼らは『透明人間』といういわゆるごっこ遊びだと主張していましたがね」


 『透明人間』という言葉を聴いたとたん、彼女はびくりと体を震わせた。


 「あの……そのことと事件と、どう関わりがあるのでしょうか?」


 もっともな質問を母親がする。警官の口振りでは娘が事件に深い関わりがあるように聞こえるため、心中穏やかではないはずだ。


 「それが、ですね……亡くなる直前、その男の子がクラスの友達と話していたそうなんですよ。『透明人間が服を着てるのはおかしいよな』と」


 そういうことか――それで彼女の服を脱がそうとしたのか。


 「男の子の遺体は普段ほとんど人の立ち入らない場所で発見されました。おそらく娘さんを呼び出して無理矢理にでも服を奪おうとしたのでしょう」


 「そんな……」


 「そういう事情ですので、娘さんとも少しお話をさせて頂けませんか? あのとき、娘さんが目撃したものについて」



 男が言い終わるか終わらないかのうちに、彼女は部屋のドアを閉めた。


 「早く隠れて! 早く!」


 急かされるまま、私はベッドの下に潜り込む。男がやってきたのはその直後だ。間一髪のところだった。


 「……あなたに、警察の人が話があるそうよ」


 気が進まないといったように、ついてきた母親が言う。


 「君はあの日、クラスの男の子と一緒だったんだよね? そのとき見たものを話してくれないかな?」


 「見てない」


 彼女は即座に答える。


 「すぐ振り払って逃げてきたから……後のことは知らない」


 「娘はこう言ってますけど?」


 母親はあからさまにほっとしている。


 「……本当に何も知らないのかな?」


 警官は追及の手を緩めない。


 「娘が嘘を吐いてると?」


 母親は憤然とした口調で言う。


 「現場の状況からして相当の返り血を浴びてるはずなのに、現場以外に一滴も見られないのは不自然です。その場に居合わせた誰かが、体を何かで覆って痕跡が残らないようにしたとしか考えられません」


 「それが娘とは限らないではないですか? 」


 「仮に現場にもう一人いたとしても、そんなことをする理由はありませんよ。自分も襲われないという保証はありませんから。でも娘さんはその限りではありません。男の子から助けてもらったと考えた娘さんならね」


 「…………」


 母親からの反論はない。したくても出来ないのだろう。


 「だからすまないけど、ちょっと部屋を見させてもらえるかな?」


 「駄目! やめて!」


 彼女が止めるも、大人が相手では勝ち目はない。入ってきた男は遠慮なく彼女の部屋を探りはじめる。彼女を悲しませる人間は許さない。誰であろうと容赦はしない。


 「……いないな。あとはベッドの下か」


 「やめてってば!! やめてよぉっ!!」


 男の両足が、私の目と鼻の先まで来た。膝を床につけ、こちらを覗き込もうとする。

 警官は私を認めると、瞠目して声をあげようと口を開きかける。

私はその無防備な顔に、思い切り噛み付いてやった。顔を抑えて身を引いた隙にベッドの下から出る。


 「こっち!!」


 大きな声にそちらを見ると、彼女が部屋の窓を開け放っている。私はベッドの上に飛び乗って外に飛び出した。


 「いたっ! いたぞ、おい!」


 「逃げるな! 待て!」


 家の外で待ち構えていた警官が走りよってくる。私はすぐにその場から逃げた。全力で走る私に敵うはずもなく、みるみるうちに引き離す。

 このままやつらを撒いて、身を隠す。ただ頭をよぎるのは彼女のことだ。私を匿ったばかりに――いや、今はとにかく自分がいかにやつらの目から逃れるかだけに専念しなければ。

 甲高いブレーキ音を聞いた――直後、私は凄まじい衝撃を受けて車に撥ね飛ばされた。

 だが、激痛に身悶えしている暇はない。身を起こし走ろうとしたが、右足がまったく動かない。

 足は歪に折れ曲がっている。もう走ることは出来ない。残る足で歩くが速度などたかが知れている。

 やがて追い付いた警官たちによって、私は取り押さえられた。

 抵抗する気力も失い、私は耳を垂れた。




 その後、私は檻に入れられトラックに乗せられた。齧ろうがぶつかろうがびくともしない、頑丈な檻だ。

 後部ドアが閉ざされる直前まで彼女の姿を探したが、ついに見つけることは叶わなかった。彼女はきっと悲しんでいるだろう――だがいずれ、時間がその悲しみを忘れさせてくれることを心より祈る。私にはもう、彼女の今後を知るすべはない。


 私はこれから、『保健所』に行く。その場所で私の生涯は、幕を閉じるのだ。

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