Chapter1: Goasts in the Soul


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 犯行声明全文:


 死は救いである。

 腐りかけの肉から解放されるための、ただひとつの手段である。


 肉に与えられた暴力は人格をも穢す。

 穢れは永遠の戒律となり、もうひとりの人格を規定する。

 新たな人格たちは各々の判断を持ち、ひとつの肉体を使って行動を起こし続ける。

 それが犯罪なのだとしたら、私が止めなくてはならない。この腐った肉体の生命活動を終えることで。


 汚染した人格を本来の形に取り戻すことは不可能だった。

 故にして、私は死を望む。

 この、汚染された人格を封じ込めるために。


 

 自殺動画・俗称 自殺劇場 の一部:


 武士の格好をした男のように見える人物が、自分の首をどうにか包丁で刺そうと繰り返している。

 しかし、その包丁の先はいくら首に触れても、どれだけごく小さな赤い穴をつくっても、自殺という結果をもたらすことはない。

 なぜかというと、その包丁を持つ両手が、本人の言葉と異なって方向をなんどもじわじわとそらすからだ。

 言っている言葉はどこまでも勇ましい。

「自分を殺さなければお前も苦しむと、なぜ理解しようとしないっ」

 なのに、その包丁は目的をいくら経っても果たそうとしない。彼の肩からかけられていたベルトとそこにつけられた端末が何度も揺れ動く、ただそれだけの動画。

 そうして警察官たちがわずか数分で彼のもとに現れて取り押さえられていき、同時にその配信は停止された。


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 穏やかな一日だった気がする。

 十二月にしては太陽は暖かかったし、駅前まで歩いているときもぜんぜん風に煽られることもなかった。

 僕はいつもどおりに人造のコーヒーをコンビニで淹れ、それを暖のかわりにし、赤い巨塔と呼ばれる大学に来ていた。

 日の差す研究室の机は相変わらず本と資料まみれだった。僕は作業用に片付けてある机にコーヒーカップを置き、そして荷物を降ろして机に座る。そうして、なんとなく全体を眺める。

 幾人かいそうなほどに中途半端に机の周りが散らかっているが、その散らかり方にはある程度の統一性があった。まず机の奥に本と資料が平積みされていて、真ん中には何もない。そして右側には常にペンと紙がセットで置かれていて、端末群はいつも机の真ん中に居座っている。

 この研究室には、助教授も、助手も、学生も、ゼミ生も、誰もいないのだ。教授である僕だけが、いまここで研究を続けている。

 僕はそのことについて思い出し、ため息をつき、コーヒーを啜る。


 気分転換に、僕は無線で脳をネットに接続し、ニュースを見ていくことにした。

 「公園設営した市議会の無能さ」「自殺劇場の謎」「赤い巨塔のせめぎあい」「十年経ったいま明かされるリフォーミングの秘密」という記事が特に多く書かれている。僕はそのなかであまり知らなかったリフォーミングの記事を開く。


 冒頭の写真で現れるのは、愛らしく、いずれ美麗になるであろう小さな女の子。

 しかしそのおでこには、あまりにも大きな青いたんこぶがあり、その服は患者衣。

 どこを見ているでもない、年齢不相応の達観した眼差し。

 彼女はこのリフォーミング問題の悲劇と奇跡のヒロイン、群雨呼春むらさめこはるだ。


 その写真を冒頭とした記事に書かれている内容を端折りながら説明すると、このようなことが書かれていた。

 リフォーミングとは、かつてアメリカという国で行われていた養子縁組のこと。日本においても食人国家となるにあたって導入されたが、そこには数々の問題が、アメリカで導入されていたシステム同様に発生していたらしい。


 現在の日本では、子供全員が、三つの関門を通り抜けて大人へとなっていく。誕生、選定、最後に教育だ。

 選定されることなく教育までいける可能性は十人にひとりと言われている。残りの九人といえば、僕が手に取るコーヒー等の食料となる。

 話を戻し、記事を解説していく。教育にまでこぎつけた者たちは、そのほとんどが引き取られて施設で教育を受けるのが基本だ。その教育費を支払うことが現在の僕たちに課せられた義務。けれど、なかには手放す人たちもいる。そういう人たちは、半ば強引に子どもをつくられた、あるいはつくった人たちだ。


 中絶手術は現在完全に禁止され、一歳になるまでの育児は、彼ら両親には義務付けられている。そして、犯罪によってつくった側は、否が応でも完全監視された刑務所で育児またはそれに並ぶ労働をさせられることとなる。強姦罪の罪とはまさにその育児だ。しかも親権は剥奪された状態、かつ囚人労働もある状態で。そして強姦罪を行ったのが男性である場合は、女性と並ぶ労力をさせるために、一年間常に食料品に加工される献血、皮膚、頭髪等の提供をさせられ、骨髄、移植手術のドナーとして使用され、被験対象をつとめることとなる。

 こうして育てられた子どもたちは先述の通り、大抵は選定されていくが、その選定がなく、そして親権を誰も保持しない場合には、リフォーミングの対象となる。親権そのものを政府で管理しようという、オリジナルとは半ば異なった内容だったが、それもまた底なしの闇だった。こちらもアメリカの場合と同様、政府直属の人間により行われる、親権委託という名の人身取引が起きていたからだ。そして更に深刻だったのが、家庭内暴力ドメスティック・バイオレンスだった。

 写真に写るのは、群雨ちゃんのような、顔や身体が青黒く腫れた子どもたちの悲しそうな姿だ。彼らは政府直属の人間によって暴力を振るわれ、あるいは強姦され、傷つけられた子どもたち。悲惨な彼らを生みだす政府直属の人物たちの暴走が判明したのは、あるひとつの突き落とし事件がきっかけとなっている。

 群雨呼春ちゃん、当時七歳。彼女は政府直属の両親たちに突き落としをされ、大脳の大部分を挫傷、大きな障害を抱えたものの、その後瞬く間に回復。奇跡の少女と医学でも呼ばれている。

 この事件をきっかけに警察がリフォーミング機関を調査してみると、紛れもない不正がいくつも発覚。

 発覚したのは、たった月に二度行われる面会のときに暴力を振るわれていたという真実だった。

 そうして一斉検挙が起き、同時にいくつもの選定が発生した。両親らも逮捕された直後に脳にある情報を引き抜かれ、やがて選定されていくという、政府にとっての大スキャンダルとなった。


 この事件が今更ながら明かしてきた闇とは、彼らリフォーミングによって傷つけられた子どもたちがどうなったのか、という話だ。

 親権とはとってつけたようなものであり、子供は施設で暮らす義務があるために、あまり縁がない。

 そのはずなのだが、ほとんどの子供たちは、当時の影響により社会的な自立が非常に難しい状態になっているという。

 かたや刑務所で暮らす犯罪者。

 かたや献血などの自分の資源の提供を行いながらしか生きられない、荒れた生活保護者。

 うまくいってもホステス等の水商売、しかも非正規であり、この記事の広告主達を満足させる仕事に従事する。

 その合計した割合が九割を占めているのだ。

 この記事にはこう締めくくられている。

『彼らから与えられた月に二度の屈辱は、人間の器とそこに満たされるべきものを侵食したのである』


 ウィンドウを閉じ、僕は冷めたコーヒーを見つめる。

 僕もまた、いずれ両親となるときが来るのだろう。正確には、もうその期限が間もなくだ。僕は届けられたメールを見つめる。最悪なことに、お見合いのご案内とまで書かれている。僕もまた育児の義務を果たさなくてはならない。しかしいざ親となることを考えた時、彼らのようなかわいそうな結末に至らせてしまうのではないか。

 そう、ここにやってきた彼らのように。

 その不安をすべてかき消すべく、僕は人造のコーヒーを一気に飲み干す。くだらない悩みが、強烈な苦味と渋みですこし紛らわされたような気がした。


 そのとき、ドアがノックされる。講義もまだまだ先なのにどうしたのだろう、そう思いながらはい、と言うが前に、当人は入ってきて、こちらをみると、やさしく微笑んだ。

 女学生だろうか、というのが僕のはじめの印象だった。

 目鼻立ちは完璧に整っていて、服装は至って真面目なレディースのブラックパンツスーツ。髪もきれいに整えられているのだろうか、さらさらのボブショート。だがその顔は手入れはされているものの化粧っ気がまるでない。ファンデーション特有の不自然な色合いがまるで見られず、眉も描かれたものでなく、異常な方向に征くまつげもない。化粧文化が今も途切れてはいないからこそ、無化粧は比較的わかりやすかった。

 そして、気になったのは僕をみたときの表情だった。

「……すみません、どちらさまでしょうか」

 僕がそういうと、彼女ははっとして表情を引き締める。そこにはもうあどけなさはまるでない。

「失礼しました、私は厚生省生体工学安全局、生体研究監察課倫理監察官の琴永糸雲ことながしくもと申します」

 警察よろしく手帳を見せてきて、僕はその琴永糸雲と書かれた文字を目でスキャンする。そうすると視界の端でブラウザーが表示され、それが自動でスキャンした内容と厚生省のデータベースと照合を行い、情報が一致したことを示してくる。

「……倫理監察官?僕、なにかまずいことをしたんでしょうか」

 自分の身に覚えがありすぎて、僕はそう訪ねていた。

「いえ、そうではないのです、厚生省から昨日正式に降りた計画に参加してもらうために失礼も承知でアポなしで伺いました」

 僕はその話を聞いてさらに呆然とした。

「計画ですか、それもかなり急なもの……いえ、失礼。散らかってますが、どうぞおかけになってください」

 失礼します、と慇懃に彼女は腰がける。その仕草は丁寧だがどこか椅子の扱いにも手馴れている。

「で、厚生省がしがない研究者の僕にどのような要件でしょうか」

 彼女は僕のことばを聞き、微笑む。

「まだ大したことを発表していないだけですよ」

 僕はそれはどういうことでしょう、と若き官僚に訊く他なかった。琴永はバックを開けて、手早く紙資料を出していく。

「麻也際善次さん、あなたの論文を厚生省でも拝見させていただいております。齢四十を前にして素晴らしい研究内容です。ぜひこの理論の実用化を行っていただきたい。そのための予算と研究費、設備の準備のあらゆる交渉はすでに済ませてあります」

 書かれてある内容の壮大さに僕はまだ目が冷めていないんじゃないかと思った。しかしどれも厚生省に同時に問い合わせしてみても、すでに執行中の公式案件となっている。

「国営団体じきじきの超コスト非侵襲型分子構造計測BMI使用許可に、その請求先を厚生省で引き落としする調書、おまけに材料系すべての使用許可証。こんなの通すだけで四、五年かかるようなものばかり……」

「その四、五年前からやっていればできる案件、ということです。これまでこの計画をあなたに見せられなかったのは残念でしたが」

 僕は顔を上げ、自信満々に微笑む官僚に訊ねる。

「……つまり、僕に何をしろというのです」

「あの研究を完成させていただきたいのです」

 僕はそのことばを聞いて、並べられている許可証たちを見つめる。そして、この部屋にいた者たちを思い浮かべていた。すると、足音が近づいてきているかのように錯覚し始める。いや、続々と彼らがやってきている。

「……いえ、それはできません」

 身体に何かがのしかかってくる。これまでいなくなっていってしまった者たちの重み。肩に幾重にも手が載せられ、僕をじっとみつめてくるような感覚。

「それはここの研究に関わった人たち全員が選定されたからですか」

 僕は顔を上げる。そうすると琴永はじっと僕を見据えていた。そこには冷ややかさもなく、また温情もなく、ただ純粋な眼差しだった。

「わたしたちはこれらの交渉を行う前にあなたの身の回りで起きたことは調査していますから。たしかにこんな事情があれば発表もままならなかったでしょう」

「……たしかに不安でした。しかしそれ以上に、研究成果が出るたびにひとり、またひとりと減っていくのは、僕には耐えられなかったんです」

 琴永は口を少し開き、そして閉じて、眉を寄せる。

「そうでしょうね、確かに、選定が恣意的にも見えてしまうほどでしょう」

 しかし、と琴永は僕をじっと見据えて、

「あなたの研究は間違っていない。信念も、目的も。だからこそ、私たちはあなたが絶対に研究をできる、その状況を用意したのです」

 どうしてそこまで、と僕は言っていた。すると官僚は迫ってくる。

「あなたのやっている研究は、簡単に言えば魂の存続。これまで選定されて消えるしかなかった魂そのものの保存を、親しかった周囲の人間に行うことによって、あたかもその人が霊体として存続できるようにして、叡智を永久に人格として残すというものです。この理論が確立できれば、多くの人たちの導きとなってくれる。それはこの悲しい社会をもう少しだけ良くできるはずです」

 僕は首をふる。

「実は、すでにやっているんです。その実験を」

 え、と声を上げる琴永を僕はみつめ、

「その実験結果こそが、いまの僕。僕の周りにはすでにここにいた人たちの眼差しだけがある」

 そうして僕は琴永へと接続申請を行い、いま僕が見えている世界を共有する。

 みるみるうちに琴永が目を見開いていく。

 それもそのはずだ。いま僕の身体には、これまで選定によっていなくなっていった者たちが何人もまとわりついているのだから。その者たちはただ優しく微笑み、僕の肩に手を載せてくるだけであることは、振り返ればすぐにわかった。

「これが、あの研究の成果……しかし、見つめて手を載せているだけ……」

「そうです、それだけなのですよ。それも僕に対してしか。こうして僕があなたをじっとみていても、どこ展開しても、その眼差しは僕にしか行かないし、なにも語りかけては来ない」

「……この原因は」

「考えられるのは僕のまだ知らない原理があるというところくらいです。あなたはこのシステム、どう動いているかはご存知ですよね」

 琴永はうなずき、

「かつて解離性同一性障害、多重人格と呼ばれていた脳の機能を活用して人格を分かち、それぞれに脳のリソースを提供する手法、仮想化ですよね」

 そうです、と僕はいい、

「そうして実際に仮想化とデータの追加までは原理上完了したのです。しかしその結果がこれです。解離という症状の初歩はこのような眼差しのみとされています。なので順当とはいえますが、この先からどうやって拡張を行えばいいのか、それがわからないのです。

 極度のストレス状態により、脳は逃避のために人格を分かつとされてはいます。しかし、これまでの仮想化において分子操作で行えていたストレス付与手法が、此処から先は一切通じない。あるいは僕が分けてつくりあげた人格たちが答えない」

「……つまり、完全に原因が不明と」

「そういうことです。故にこの研究は目標を達成できない可能性が高い。そもそもの目標自体が、選定、死を否定するものです。だから不要と切り捨てられても仕方ありません」

 僕はためいきをつく。

「だからこそ、その研究成果を発表し続ける僕を残し、全ての人たちは選定されて――」

「そんなことはありませんっ」

 僕は身体を震わせ、琴永を見つめる。

「確かにあなたの前からたくさんの人が消えました、しかしそう決めつけるのは早計ですっ」

 なにが起きたか検討もつかず、僕はただ琴永を見つめるしかなかった。

「……そうなの……でしょうか」

 若き官僚は頷き、

「結論をつけるためには、そもそも不可能であるという原理を見出さなくてはならないはず、不可能な理由は見つかったのですか」

「それは……まだ……」

 琴永は腕を組み、

「なら続けるしかない」

 こんなふうに怒られるのはいつぶりだろうかとふと感じた。

 そして更に奇妙なことが起きていた。

 手を置き微笑んでくるみんなが、手を置いたままに僕の目の前に屈んできて、目の前から僕を見つめてきた。

 特に笑いかけてくれるのは、常永と呼ばれていた高校生。彼女が髪を揺らして首をかしげ、僕に笑いかけてくる。

 どういうことだ。これまで僕の感情に励起して挙動することには気づいていた。しかし、こんなに正確なタイミングで動くとは――

「でも、あなたの気持ちはよくわかってる。だから私があんたの思いを晴らしてあげる。そのために私はいる」

 僕は琴永を見つめる。

「それは、どういう……」

「知りたくはない、あなたの知り合いがなぜ消えて、どこへ行ったのか」

 僕は固まっていた。

「それは……」

「あんたはこれまで、休日のたびに旅行と称して選定者をずっと探してきた。放浪してきた。そしてやがて厚生省の官僚にまで掛け合った。でもあんたはいつも締め出され、結局わからずじまいだった。理由は単純。トレーサビリティそのものが悪用される可能性が高かったから」

「そうです、僕もあのときそう言われた。しかしなぜ、今になって協力してくれるのです」

「それが交換条件なんです」

 それで僕はようやく思い至った。僕はそのことをどうにか言語にしようとする。

「……厚生省の調査に同行する権限と、そして研究の環境を用意する代わりに、研究を続行しろ、ということですね」

 琴永は頷き、

「もちろん調査にも報酬を出しますし、研究に従事することに対する報酬も用意します。これでいまある人格を細かく作ることができるかもしれない……いかがなさいますか」

 見つめてくるみんなを見つめる。彼らは優しく微笑んできていた。

「……やります。それが、ここにいる人たちのためになるならば」

 琴永は満面の笑みをこぼし、そして背もたれに思うがままに身体を預ける。

「はあ……よかったあ……」

 その姿は、僕にどこか懐かしさすら感じさせた。そう、こんな風に無邪気な子が――

「もしかして、どこかでお会いしたことが……」

 琴永は少し固まると頷く。

「以前、あなたの発表を聞いたことがあった。ほんのすこしだけ。そのときのことが忘れられなくて、自分はこの研究を厚生省に提案したのです」

 記憶にはこんな女性は見覚えはない。しかしまるで不快ではなかった。

「……すみません、僕の方はどうやら覚えてないようです」

 勘違いだったのだろうか。いやしかし、それでも気になったことがあった。無化粧の理由だ。

「つかぬことを聞きますが……おいくつなのですか」

「え、十八ですが」

 僕が固まっているのを見て、琴永は笑う。

「ご安心を、これでも必要なカリキュラムをすべて履修済みですから……」

 僕は無化粧の美人と縁があるのだろうか、と思ったそのとき、ふと琴永は失礼、と言って耳元に手を当てる。はい琴永です、という声で電話が始まったことを理解したが、琴永の顔が蒼白になる。

「対象がまた行動に移したってことですか……」


   2


 警視庁の周囲には人混みができていて、その奥では青い服の人たちがいて周囲を行ったり来たりしている。近くでは赤の灯火が点滅しており、白い車も入り乱れている。

 そう、僕は気づけば事件現場というところにいた。

 その目の前では幾人もの制服姿の警官が右往左往している。

「……ここに探している人がいると」

 僕がそう訊くと若き官僚はうなずき、

「正確にはあなたの探し人をよく知っている人物です」

 僕は気になって顔を寄せる。

「これもしかして、最近未遂に終わった劇場型の切腹事件……」

「そう、その人の拘置所内での再実行です。事情聴取において自殺しようとしていた証拠、具体的には自供とアクティブレコーダが取れず、手こずってる間にこうなったようです」

「アクティブレコーダが?意識が覚醒している最中は常に記録されてるものが取れなかったと」

「そうです、本来は海馬を通して大脳皮質の特定領域で記憶されるはずのそれが、どうやっても見つからない。つまり記憶がつながっておらず、我々には分析できなかった。だから間接証拠に訴えて拘束はできたのですが……」

 琴永はためいきをつき、

「しかし結果はこの有様です」

「となればもう僕たちは話を聞きに行けそうにないですが」

「逆ですよ、記憶が繋がっていない。だからあなたとわたしがここに来られたってわけです」

 ついてきてください、とつかつかと警視庁に入り込んでいく琴永に、僕は疑問もそのままにどうにかひっついて進んでいく。

 やがて留置所の黄色のテープをくぐり抜けて辿り着いた先にいたのは、たくさんの黒いスーツの警官と、そして片手に手錠をつけられ泣きじゃくる女性。転がっている凶器はプラスチック製のスプーンを斜めに折ってつくったナイフ状のもの。片方の手首から血が溢れていたようだが、すでに止められ、傷口をタオルで圧迫しているさなかであった。

「ひどいな……」

 そんな僕をよそに、琴永は

「厚生省監察官の琴永糸雲です。件の教授と伺わせていただきました」

 スーツの男のひとりが会釈をしながらやってくる。

「琴永監察官と麻也際教授ですね、お伺いしています。私は警視庁刑事課の無道と申します」

「……これはいったい」

 僕の見つめる先には、先ほどの血まみれの人。しかし、まるで抵抗しようという雰囲気はなく、ただ小さな子のように泣きじゃくっている。無道が説明をはじめてくれる。

「彼女は群雨呼春、元生物工学研究所研究員です」

 その顔にはひどく見覚えがあった。

「……この人ってあのリフォーミング事件の子では」

 琴永はうなずき、

「ええ、かつてのリフォーミング事件発覚のきっかけになったその方です」

「自殺をしようとしたのは男性だと思っていましたが……」

 半分は正しいです、と琴永は返しつつ、

「彼女は、これまでの劇場自殺事件の『犯人のからだ』の持ち主でもありますから」

 そこで僕はようやく自分が呼ばれた理由に気づいた。

「……『ビリー・ミリガン』の再来だと」

 琴永が引き継ぐようにうなずき、

「話が早くて助かります。そう、彼女はおそらく解離性同一性障害、略称DIDにより人格が交代してしまう、そんな人のひとり。彼女が男装をしていたのは、その交代した人格が男性の人格であるためと考えられます」

「そこまで知ってたならカウンセラーが対応したはずです、その結果は」

「だめでした。彼女本人がその人格を守っていますし、どれだけ暗示をかけても自殺をしようとした人格は現れませんでした」

 なるほど、と僕は首肯し、

「僕が呼ばれたのは否が応でも交代人格の記憶を見つけ出すため、といったところですね」

 そうなります、と琴永は続き、

「そして、彼女の交代した人格こそが、あなたの知り合いに密接に関わっていると考えられる。関わっているのは八宮慧理やみやえり、あなたの研究に携わり、卒業した後に群雨と同じ研究所にいた。すでに選定済みであり、その真実は闇に消えている。あなたの任務はその女性の行ってきたことの調査も含まれる」

 女性は泣きじゃくり続けていた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……あたし、止められなかった……ごめんなさい……」

 その言葉は明らかに自殺を止めようとした人の言葉だった。

 そうして見ている時、僕は以前、彼女、というより彼がベルトに何かをつけていたことを思い出した。

「そういえば、彼女のつけていたあの外部デバイスは……」

 無道が応じる。

「彼女の所有品です。なんでも脳接続が苦手になったらしく、一ヶ月から持ち歩くようになったと」

「一ヶ月前から、ですか……」

「外部デバイス……なかなかお目にかかれませんよね、高機能でとってもお高いですし、使ってる人がまずいない」

 僕は首をかしげ、

「普通は認可を受ければ無償で提供されるはず。というよりは、そういう事情がないと手にすることすらままならないはずですが……」

 無道が応じる。

「元いた研究所から認可を受けたそうです。だからこのデバイスを持ち歩くようになったと……ところで、お詳しいのですね……」

 僕はある女性を思い出していた。

 研究室に来るとすぐに黒髪をまとめ、黒い端末を置いて本を読み漁っていた光景だ。

「以前、この人の関係者でもある八宮がちょうど同じようなものを持っておりまして……」


   3


 警察署の取調室のなかを別室のマジックミラーからじっと覗いている。暗い僕らの部屋の境界である窓の先には、刑事課の刑事さんである無道が顎に手を当てて、その診断結果を眺め、犯人の体の持ち主である群雨へと問いかけていた。

「やっぱりレコーダの記録が破損してる……」

 僕はその記録を呼出して自分の網膜に表示させていく。

「本当だ……完全に見えないじゃないか」

 映し出されるのはノイズの嵐。音量を小さくしてなければ爆音が鳴り響くような始末だ。

 表示を共有している琴永も同じウィンドウを覗き込んできて、

「これがアクティブレコーダに記録がない理由です。DIDの人の場合でも記憶が取り出せるようにしているはずなのに、今回の場合はまず読み込むことができていない。おそらくはデータはあるけれど、データの固め方が通常と異なる方法によって行われている」

 窓越しにいた群雨がおもむろに口を開く。

「……すみません」

 無道は今度は腕を組んで唸り、

「あなたに謝ってもらうためにここにきてもらったわけじゃないんです。前回も今回もね」

 無道はため息をついたあと、失礼、愚痴らせてください、と顔を俯け、

「我々はよくわからんのですよ。これまではアクティブレコーダさえあれば犯人であることですらすぐわかりました。だから自供は普通でしたし、裁判までも楽になった」

 なので、と無道は前置きし、

「申し訳ないが我々には手に余る。こうなったら我々にできるのは、あなたの認識できる範囲で、これまでのことを訊ねることと、委任することしかありません」

 群雨は顔を上げる。

「……わたしを追い詰めたりはしないと」

「ええ、追い詰めるとしたら自殺をしようとした張本人ですよ」

 女主人はその言葉についに大きく眉を歪めたのが見えた。しかし刑事はそれを見ても顔色を変えず、

「引っ張り出すのは我々では行なえませんので、ここからさきは専門家の人とお話をお願いします」

 群雨がうなずくと、無道はこちらへと振り返ってきた。僕はそれにうなずき、取調室へと入り、無道と入れ替わるように椅子に座り、琴永はとなりに立つ。

「産業技術大学の生体工学科教授、麻也際です」「厚生省の倫理監察官、琴永です」

 赤い巨塔のひと……と群雨が言っていたのには僕は苦笑いしてしまったが、ではまずこれまでの調書をもとにひとつめから、と群雨へと投げかける。

「あなたが記憶が地続きにならなくなったことは何年前からでしたっけ」

「……ちょうど三年前からでした」

 網膜に表示されている調書の通りだ。僕は続ける。

「その前に何か変わったこととかは」

「……ある方の研究で没入感の高いゲームのようなものを行えるというのを、研究員として被験しました」

「ある方、とは同じ職場にいた八宮さんで間違いないですね」

 彼女は目を俯け、頷く。

 ここまでは調書のとおり。

「ではゲーム、というと」

「その、仮想体験的なものでして……理想の異性の方とおしゃべりしたりとかができるというもので……」

 調書のとおりだが、なんとなく俗な様相を呈してきたことを理解した。

「……なるほど、VR彼氏といったところでしょうか」

 何かを思い出したのか、群雨の耳の先が赤くなっていくのが見えた。

「はい。使用制限があってその被験先でしかできないようになっていたので、いつにもましてずっと研究所に泊まり込んでいました」

 調書の内容を更に追っていく。

「それからぱったり研究所をやめたのは……」

 目をそらし、遠くを見つめ始めたことは僕でもすぐにわかった。

「実は……職場でなくてもできるようになっていて……それからはずっと……ダメだって思ってはいたんですが離れられなくて……」

 琴永が膝立ちになり僕に訊ねてくる。

「これって現実的には可能なんですか」

 僕は唸り、

「逆ですね。僕の研究ではそもそも使用制限をかけるほうが手間がかかる。その研究のときになにかされたと考えるのが自然です。ただ問題は、改良が施されていることと、それが臨床試験として平然と素通りしているところですね。すみません、そのときのログを出していただけますか」

 群雨は理由がわからないのか首をかしげたが、すぐにログが渡されてくる。僕はそのログの山を網羅して読んでいき、気づいた。

「……なるほど、これは素通りしますね」

 そうなの、とすべては読めていないのか目を白黒させている琴永と刑事へと振り返り、

「そもそもこれ、臨床試験内容が違うんですよ。はやい話が、専門用語でだまくらかす手法です」

 え、と役所勤めな琴永は呆然としている。

「出てきているのは、『記憶野ライブラリの参照を行うことによる、理想の異性像の形成』。これは『参照』であって、『書き換え』や『五感制御』ではない。本来は異性像のデータしかできない。でもこれだけあれば寝泊まりさせるにも充分だった。臨床試験を行っている場所の装置をそのまま使って、脳の操作を行えば、騙しながらでも行えなくもない……」

 無道が首をかしげ、

「しかしそれにも制限はあるのでは、脳のネットに接続したらエラーコードを吐かれてすぐに検挙されるはず」

 僕は肯定し、

「認証のことですね。確かに、ネットワークに接続した時、変更値と認証値が一致しなければ即刻研究所は停止させられます。では群雨さん、なぜあなたはあの外部デバイスを持っていたのですか」

「彼から手渡されたんです。もうすでに脳接続がうまくできなくなっていたので」

「どんな風に接続できなくなりましたか」

「すごく頭が痛くなるんです。そして、彼が現れる……」

「なるほど、では、彼のことについてと、その出会いについて、少しお話していただけますか」

 彼女は頷き、自分の生み出した彼について、そして彼が生まれるまでのことを仔細に語ってくれた。


 彼の名前は黒木耕作。武士のように振る舞うように定義してもらった人物とのことだ。

 耕作氏との出会い三ヶ月前に遡る。配置換えにより一年前に研究所に現れた八宮に親しくしてもらい続けたため、彼女と仲良くなる。そうして恋人のできない自分に困っていて、そもそも異性が非常に暴力的に見えて怖いという話を八宮にした。また、時折自分に暴力を振るってくる男が夜中に現れ、それがとても恐ろしいんだという話をした。

 それを八宮は深刻に捕らえたのか、『いっそ怖いくらいなら理想の彼氏を脳内に生み出し、彼と生活していけばいいのでは』と提案してきた。あまりにも深刻そうに提案されたため、そして理想の彼氏と暮らせるとなれば、それに越したことはないと提案を受け入れた。その条件には「研究所のなかで暮らし続けること」が含まれていたが、孤独を常に感じ、諸事情を抱えていた彼女は瑣末な問題と捕らえていたらしい。

 やがて彼、耕作が現れてからの日常は豊かな日々だったと語る。

「毎日、孤独だったわたしといろんなことをしてくれた。触れ合うことすらも八宮のおかげでできたので、常に満ち足りていました」

 しかし、その日常には少々の問題がつきまとっていた。八宮による監視と外の世界への渇望だった。彼女は新原理による研究のため、そして自らの安全のためにも、これまで通り生活を研究室だけにしてほしいと語っていた。

 そして問題はもうひとつ。記憶の繋がらなさが更に続き始めたことだった。時折物が散らかっていることがあり、それは何かの悪戯かと考えていたらしい。このため可能な限り研究所から外に出ることはしないようにし、被験者用の部屋で長く彼女は暮らし続けていた。それからぱたりと悪戯が止んだと思ったが、自分の体に、覚えのないあざが増え始めていた。

「誰かに殴られたに違いない。昔の両親のときのように。わたしはそう考えて、もうほとんど部屋にひきこもることにしました。そんなときにやってきたのが八宮と耕作でしたが、今度はまた部屋が荒れはじめました。耕作も理由がわからないといい、また八宮も調べてもらっているがわからないと返してきたため、わたしはここの幽霊に取り憑かれたんじゃないかと考え始めました」

「幽霊……というとどんな幽霊だと考えましたか」

「ここで被験している最中、被験者が選定を受けることが多いんです。わたしの縁のある人がここで亡くなっていて。なので、その人たちの霊が、この研究室を飛び回っているんじゃないかって思ったんです。だから、どうしても、絶対、この研究所から出ていって、幸せに暮らしたかった……」

 やがて転機は訪れた。外へと飛び出して行かせてくれたのは耕作だったと語る。

「耕作がわたしの枕元にやってきて、外に一緒に行きたいと言ってくれたんです。そして、わたしが寝ている間に、八宮から預かりものがあると、あの黒い端末を差し出してきました。久々に脳接続をしようとしてもうまくいかないだろうから、それを使うといい、と言っていました」

 そのとき琴永と刑事が僕へと向いてきたため、僕は補足を行う。

「経緯はまだわかっていないところが多いですが、つまりはネットワーク認証の回避をしようとしたのだと考えられます。ネットワーク接続時の認証を理由をつけて行わなければ不正な値を叩き出す要素がないですし、人間はそもそも脳をネットワークにつなげなくても生きていける存在です」

 刑事と琴永が混乱しているので、僕は補足する。

「研究所における特権を活用すれば、自身の脳とのネット接続はいらないってわけですよ。だからこの人はネット接続が不得意な人向けの端末を持って、それを通信機としたのです」

 ふたりはようやく理解を示したのか頷いてくる。やがて僕は疑問を持った。

「そうなると、この外部端末使用は不正なものとなります。研究所と言えどもそうやすやすとこの端末を手に入れられるわけではありません。この端末を無償で手にできるとしたら、八宮からもらう以外の方法はない。この端末をどうやって自分用に切り替えたか、そこにはやはり覚えはありませんか」

 群雨は首を傾げ、

「そこは私も知らなくて……ただ耕作から手渡されたときにはすでに使えるようになってましたので……」

 その後僕は彼女に話を促し、自由の身になってからの生活について聞いていた。

 一ヶ月前、自宅に戻ってからの平穏は、実際のところは半日も保たなかったらしい。

 耕作氏は頻繁に群雨を殴る、叩く、蹴る、を繰り返していた。攻撃場所を衣服で見えない場所にする方法は、まるで幼い頃の父と母からの暴力に似ていた、と彼女は語っていた。しかし、彼女自身がすでに耕作氏を信じていたこともあり、彼女は耐え続けていた。そうして群雨が研究所を去ったその日、八宮は選定されたことは、一週間後の任意同行の時にはじめて知ったと彼女は語っている。

「家に帰ってからの一ヶ月、記憶がなくなることは更に加速したのでしょうか」

「はい、そのときから耕作の服に似たものが家に何故か転がっていたり、新しい包丁があったりするようになりはじめました。でも、耕作が買ってこれるわけではないので、私がしたことなんだろうかととても悩んでいました」

「ところで、あの劇場型切腹がはじまる前、耕作氏はなにかこう……刃物であなたを傷つけるような真似をすることが増え始めたりしてませんでしたか」

 群雨は顔をあげてくる。

「……はい、たしかにそういうことが、刃物を手にしてからすぐに繰り返されるようになりました」

「そのとき、あなたが傷つけられるか、それとも周りの人を傷つけられるかを選べと言われたりは」

「しました。はじめて自傷をしたと話されたときも、わたしが自分を傷つけるのだけはやめて、と言ってしまったときでした」

 酷なことを聴いているかもしれない、と思いながらも、ぼくは続ける。

「ご両親は暴行を理由に刑事罰を受け、罪を償っている最中に選定されたようですね。そして、最後に両親が訪れた場所も、いまあなたと同じ研究所ですね。だからあなたは幽霊がいる、とおっしゃっていたのでしょうか」

 群雨はうなずく。

「逃げたかったんです。何もかもから。でも、耕作が自分を殺すって言い出して。結局、こんな結末になってしまいました……」

「あの劇場型切腹のときも、あなたは警察で事情を聞いて初めて知ったのでしょうか」

「はい、元から彼の自傷のあとはいくつもあったのですが、まさかあんなことまでするとはとても思っていませんでした」

 それで大方の結論がみえつつあった。

「では最後に。三年前、何か特別変わったことがあったりしたでしょうか」

「……八宮さんに会ったことでしょうか。彼女はほんとに優しくしてくれましたから」


   4


 僕は研究室に持ち帰った群雨の脳のデータを自分の端末に入れて解析を行い、そこから図形が叩き出されるまで、若き官僚に講義をしていた。黒い外部デバイスは講義をする僕らの脇に置かれていた。

「別人格における自傷等の暴力は、大抵の場合は主人格のストレスの体現を行うが故であるといわれています」

「それはどういう理屈で」と琴永は訊ねる。

「たとえば、僕たちもストレスが溜まることがあります。でも普通は状況を改善してストレスを解消しています」

「憂さ晴らしや逃避はどうなのですか」

「憂さ晴らしは多少有効ですが紛らわせる程度です。逃避も同様。結局もとの局面に戻ればストレスを貯める。三歩進んで二歩下がる、というのが正しいでしょう」

「じゃあそうして臨界点が訪れた場合は、やはり怒鳴るとかそういうところに行き着くわけですね」

 僕は静かに首を振る。

「それもまた憂さ晴らしと同じです。まだ怒鳴ってるくらいであれば臨界点とは言えないでしょう」

「じゃあ臨界点ってどういうものに……」

「うつ病等の後天的精神障害ですよ」

 琴永は首をかしげる。

「うつ病?と言っても最近じゃまるで話に聞きませんが……」

「たしかに、この社会はかなり多くのストレスを回避できる。衣食住があり、感性の合わない者同士は同じ配置にならない。仮にうつ病になったらすぐに配置が変えられ、すぐ直せる。というのが世間一般での認識です……しかしそれでも残るんですよ」

「それはどういうことでしょう」

「幼少期等に『ある精神障害』になってしまった場合、というより『そういう素質を先天的に持っていた』場合、異常に気づけないケースがあるということです」

 若き官僚はそのことばで気づいたようだ。

「解離ですか」

 僕は首肯する。

「解離とは、逃避の究極系です。認識に変革を起こし、自分でない誰かをイメージする。そうすることで自分でない誰かが怒られているのを見ている気分になる。それを繰り返す状況ができてしまう、つまり改善の余地がないと、最後は人格として分かたれてしまうことがあるのです」

「となれば、かたや怒られて自殺願望のある人格、かたや普通の自分と残り、その片方が暴れだすことがある」

「わかりやすくいえばそうです。つまり、本来残された怒りはそのまま残って、爆弾のように抱えることになる。そうして怒りの人格の限界を迎えた時、その人格は更なる逃避のために自殺を選ぼうとする」

 琴永は腕を組み、

「つまりあの自殺は過去の虐待のトラウマが……」

「そういうことです」

 仮想音が響き、結果ができあがったことを知らされた。僕はそれを琴永に共有しながら情報を吟味する。

「アクティブレコーダが役に立たない理由がわかりました……まずこれは、完全に僕の研究内容ですね」

 琴永は顔を寄せてくる。

「それはどういうことですか」

「僕がDIDを作成すると、おのずとこんな図形ができあがるんですよ。脳の人格をより分けるために大脳皮質を仮想化するためです。そうして解析をわかりやすくしたのが、このフォルダ変換型解析ソフト」

 表示を一新し、フォルダ別で切り分けられて表示される。よくあるファイルシステムだ。

「便利……これ使えば解決なのでは……」

「そうにもいかないんですよ。最大の理由は、そもそもここにデータがないということ。アクティブレコーダが壊れているのはそのせいですね」

「どういうこと」

 口調が変わったなあとふと思いながら僕は続ける。

「今の人間の脳は通信機付き電子計算機。だから通信を行うことも簡単で、そもそもデータクラウドなんて当たり前に使って、脳に余計な負荷をかけないようにしています。介護が楽になったのもこのシステムのおかげですね」

「つまりクラウドから劇場自殺の人格が呼び出されている……となればさっきの話と合わせると、解離した人格はクラウドからふたたび送り込まれてくるということになりますよ。そうまでしてやらなければならなかったんでしょうか」

 それもそうだ、と考えはじめたそのとき、唐突にフラッシュバックが起きた。

 僕の隣で作業をしはじめた女性が現れる。八宮だ、と思っていたそのとき、彼女が僕へと振り返り、黒い端末を使って何か通信をはじめる素振りをみせる。そうしてやがて、彼女は人が変わったように僕へと迫ってくる。そう、その通信を行っていた先は。

「……人工的な人格形成による作業効率の促進」

 若き官僚はわけがわからないと僕をみつめていた。

「八宮は人格を人工的に形成していたんです。その時にもあの端末を使ってデータをクラウドから呼び出していた。八宮本人は脳接続が不得意だったから、その端末を貸し出したこと自体が八宮の人格と大きく関係していることになる」

「……劇場型自殺の正体がつかめるってことですね、となればあとは通信先を見つけないといけませんが……可能なのですか」

 僕は手早く外部デバイスを自分の端末に接続し、通信を行っていると思われるデータを漁りながら、琴永に説明をはじめる。

「二十一世紀の通信無法時代は、端末を人間の脳に置き換えられ、プロトコルを完全に移行したことによって終焉を迎えました。サーバも僕たちの端末も認可制。プロバイダはあらゆるデータを監視する時代になっています。となると追跡は楽になっているはず……あった」

 僕は送信元のデータを琴永へと渡しながら、

「プロバイダに送信元の照会を行っていただきたい。厚生省と警視庁の名前があればすぐにできるはず」

 琴永がうなずき、照会の申請をしている最中、僕は今度は八宮のいた端末に近づき、研究データをまるごと自分の脳とクラウドに保存をはじめた。


   5


 行き先が明らかになり、僕らは自動運転の車に乗って目的地へと走っていっていた。僕は琴永から伝えられた情報をまとめる。

「つまり、照会の結果として神奈川のデータセンターにその核が詰まっていると」

「そうなります。あとはそこから人格を確認できれば真実は明らかになると」

 そこで琴永がふと僕をじっとみていたかと思えば、

「……ところで、八宮さんってどんな人格を作っていたのですか」

「どうしてそんな質問を……」

「いえ、かなり焦っているように見えますから……」

 顔に出ていたか。昔からこの悪癖だけは治らない。僕は深呼吸し、表情を平坦にできるようにして、

「……接客業のための人格ですよ」

「かなり普通に聞こえますが……そこまで焦る理由には……えっ、まさか……」

「いわゆる水商売を行う人たちのための人格です」

 倫理監察官としてはその答えはまったくもって気に食わなかったらしい。

「なぜそんなものを……」

「異常に溜め込むんですよ、ストレスを。彼女はそう言っていました」

 琴永はその言葉に息を呑んでいた。

「じゃあ彼女は研究者になる前は……」

「非正規の水商売をこなしていました。その重圧に耐えきれず、配置換えのときに僕の研究室にやってきた」

「学歴はどうなっているんです」

「判定が覆ったおかげで二年近くの勉学の猶予をうちで与えられました。すると瞬く間に学者としての頭角を現した……」

「ならまたわかりません、どうして新人格を形成していったのか。それが暴発すれば、群雨さんのように本人の意思なく自殺に進んでしまいます」

「自分と同じように苦しんでいる人を助けたい、彼女はそう言っていたけど……」

 僕の沈黙に琴永は顔を覗き込む。

「……筋は通っているように聞こえますが」

「彼女は研究の最中、また別のものに執着しているように見えたんです。目的は別のところにありそうな気がして……」

「どちらにせよ、自殺を本人の意志と無関係に選ばせるなんて、ほとんど殺しですよ。それも劇場型なんて、みんなもそうしてくださいと言わんばかりじゃないですか……」


 その時の映像は記憶に新しい。ネット上で投稿されたそれは、生放送によるものだった。ネット上で過激な発言を繰り返していた人物が、ついに自殺すると放送し始めたのだ。

 彼の注目度は非常に高かった。そもそも選定のあるこのご時世、自らの選択をすることができるというのも、自殺だけと考える人物はいくらでもいるのだ。

 そしてなぜ至る人たちが知るところの情報になったかというと、彼の主張の対抗勢力が非常に多く、許せないと拡散されていったからだ。

 禁断の恋に人々は燃える。敬虔なるかの教徒の若者たちが愛の時間に至るまで、他のどの若者たちよりも早かったことが、それを証明している。

 そんなふうに、生物とは認められない動物的本能を欲し、非常に関心を持っている。

 自殺劇場とは、ある意味でロミオとジュリエットのようなものだった。


 僕は思い出した内容から所感を述べる。

「……マスコミを使用した自殺配信による自殺誘発、いわゆるウェルテル効果を狙うにしては、やけにためらっていたようですね。結果的には否定的な意見と、嘲笑的な意見しか出てきていませんでしたし」

「そうですね、あれで結局自殺した人たちはいませんでした。ですがためらうっていうのもかなり普通のことなのでは」

「僕もそうは思います。しかし、あの過激な発言と行動の相違は、鬼気迫るものがありました。まるで殺そうとしている人と、どうにか押し止めようとする人と、ふたりいるかのようで」

 そうこう言っていると、やがて白い大きな倉庫たち、つまりはデータセンターが見えてきた。


 データセンターの内部に案内されていき、やがてサーバールームがわずかに見えた。白いカプセルがずらりと並んでいる。その水に満たされた白いカプセルのなかで、身体をベルトによって固定され、立たされている人間。彼らの延髄にはプラグのようなものが挿管されていて、目は隠され、鼻も挿管され、口にも管が入れられて固定されている。イチジクの葉の如く恥部も見えぬように管と強化プラスチックで覆い尽くされた彼らはまるで、眠っているかのようでもある。しかし、それらはすべて、本来の生物としての記録を上塗りされて、ただただ送られてくるかつての同胞たちの情報を、脳で整理し続けている。

 彼ら人格を失わされたものの中に、人格のデータがコピーされて残されているというわけだ。

 管制室にたどり着くと、僕はデータを検索していく。

「おそらくはここに……あった」

 琴永が端末を覗き込んできて、

「データを持ってきてもどうやって中身を再生するんですか」

 僕はどうにか笑顔を取り繕い、

「僕はある意味で投影機でもあるんですよ」

 僕はデータ共有部に手をかざして、データドライブを追加で載せる。そうして追加で設定を行ったあとに、琴永と視覚を共有し、人格の再生をスタートする。

 するとやがて、事件時の群雨の姿によく似た人物が現れる。考えていた以上に中性的であり、その整った顔立ちはほとんど群雨だ。しかし、僕らをみて警戒し、距離を取る。

「……この方が」

「耕作氏……と思われるが……」

 周囲を見渡し、何かを悟ったのか、耕作は僕をじっとみつめてくる。

「……なぜこんなところにいる」

 声もまたほとんど女性のようだ。男装の麗人、といった風情。そして、八宮というよりは群雨の顔立ちに限りなく近い。

「いったいどういうことだ」

「それはこちらの台詞だ、麻也際」

「……僕を知っているのか」

「いかにも。御身は産業技術大学生体工学科教授、麻也際善次、何か間違いは……」

「いや、一切ない」

 僕は相手の様子があまりにも落ち着いていて、あの自殺劇場のような不安な雰囲気をまるで感じず、そしてあることに戸惑っていた。

「なぜ僕を知っている」

「お会いしたことは何度もありましょう……いや、すでに私の姿が変質しているのが最大の理由か」

「……そうか、君はあのときの八宮さん」

 武者はうなずくが、僕は更に疑問だった。

「ますますわからない。君がなぜ上書きされてその姿に至ったのか。なんで切腹に至ったのか」

「切腹だと、それは誠か……」

 その言葉と、彼女の落ち着いたふるまいから、僕はようやく事情が見えてきた気がした。

「……君が知らないとなれば、群雨さんのなかにいたのは、群雨さん、切腹の人間。そして君の三人だったわけか」

 事情がまだつかめていないのか、琴永は、

「それはどういうことです」

 僕は戸惑う琴永へと向き、

「解離性同一性障害は、人格が分かたれる程になった場合は、大抵の場合三つ以上の人格を持つことになるんです。ひとつの人格が犯罪を行ったことによって有名になったビリー・ミリガンの場合は、二十四の人格を持っていたとされる」

「……じゃあどうしてこんなことに」

「クラウドへと接続することで、仮に外に出ていても人格自体の呼び出しに制限をかける。しかしこの方法でも、悪いことをしようとしている人格そのものを隔離することができない。脳から完全に意識を消失させることはどうあっても不可能だから。だから君たちは行おうとしたんだね、人格統合を」

「……そういうことです、しかし、結果としてはうまくいかなかったようだ。申し訳ない」

「ところで質問だ、最後に群雨さんと会ったのはいつだい」

「今の時刻によれば、一ヶ月前ということになる」

 僕はそれで大筋を理解した。

「つまり、君は自殺をしようとしていた本人ではないというわけだ。じゃあ君が武士になるまでの事情を聞かせてもらおうか、八宮さん、いや、いまは耕作さんといったほうがいいか」

 耕作は頷き、居住まいを正して、

「はじめの目的としては、私は対人コミュニケーションを目的とした人格として研究室で調整を続けられていた」

 琴永が話についてこようと、

「それが接客業用であったと」

 武士はうなずき、

「私がこうして現在は時代劇の人物のように語るようになっているのは、初期化を行い、調整を行うことによって成されている。つまり、必要に応じて何者にでも成れるということだ」

 琴永はそのとき首をかしげる。

「そういえば研究所ではどういう人格だったの」

「ホステスだ」

 琴永が半眼になって見つめてくる。

「いや僕は何もしていないだろ、ね……」

 耕作はため息をつき、

「いかにも。御身に何をしても陥落させられなかったのは八宮も悔しがっていたものだ。群雨はものの見事に骨抜きだったがな」

 その言葉には揺るぎない自信に満ちていた。なるほどね、と琴永はうなずき、

「ところで、なんで教授は彼を参照しないのですか」

「いや、僕の研究においても、彼女の研究はかなり使わせてもらっています。しかし彼のようにはしゃべることはできていない……いや、その話はあとにしよう。ところで質問だ。君は今、すごい昔の何か嫌な記憶はあるかな」

「いや、あるとは言えるが参照しないようにしている。そうしないと接客もままならん」

「それもそうだ、なら昔の君も過去の嫌な記憶は参照していないだけということになるよね」

「そこは間違いない……いや待て」

 琴永がどうかしました、と訊ねると武士は、

「切り離した記憶を、現在私が持っていない。そして他の誰かが暴れている。となると切り離された記憶が暴れている者には加わっている可能性がなくはない……」

 僕は首肯し、

「凶暴化の理由はおそらくそれだと僕も踏んでいる。問題はその凶暴化しているのがどうやって雲隠れしているかということだけど……ここには過去に切り離されたという記憶はやはり見つからない。そうなると……」

 僕はこれまでの状況を時系列に整理していき、

「群雨は言ってた。研究所から出て行ったそのあとから、ネットに接続せずとも現れるようになったって。つまり彼女の中に、その記憶が丸ごと移動していることになるのだが……その場所が君のところを最後に途切れている」

「私を経由して新たなデータがあるとすれば、それは黒い端末を経由してのことになるとは思う」

 宛先を手渡され、琴永に手渡して再び宛先を検索してもらう。そうして、彼女は首をかしげる。

「おかしいですね、また群雨さんが宛先になってます」

 僕はそのデータを貰い、詳細に情報を見ていく。そうして、初めて見る内容に驚愕するしかなかった。

「……彼女は何者なんだ。いま参照されているのは本来参照されるはずの大脳じゃない、彼女の小脳だ」


 僕たちは車に飛び乗り、警察署へと戻っていくことにした。そうして後部座には僕と琴永が座り、今度は真ん中にノーシートベルトの武士、耕作が座っていた。僕は彼らへと考えられる仮説を説明していた。

「アルツハイマー病の患者は、機能が不十分になった大脳の機能を補うためか、小脳の活動が通常の場合より強化されるといわれている。しかし、群雨さんには若年性アルツハイマーを罹患しているとは考えられないほどに時系列をきちんと処理することができている。つまり大脳の機能が再生していることになる」

 琴永は首をかしげ、

「では小脳で記憶が参照される理由はどのようなものに……」

「早い話が脳梗塞だ。けど後遺症もそのような病歴も見られていない点からすれば、おそらくは……」

 耕作が結論を出す。

「彼女の受けたDVによる脳外傷が原因と考えるしかないだろう」

 僕は同感だと首を縦に振りながらも、

「しかしそうなると更にわからない。小脳が自我を持つほどの状況ができながら、どうやって大脳の意識が修復されたのか……」

 そこで僕は、ある言葉を思い出していた。

 進化とはある種の変異のようなものであり、場当たり的なものでしかない。我々が現在持つ特徴とは、淘汰されたか否か程度の差しかないのである。

「いや、そうか。逆だ。だからシステムが選定を行わなかったんだ。これは生きた彼女そのものに大きな価値があることを意味する」

「それほどの価値とはなんでしょうか」

 耕作が僕へと向く。

「修復能力か」

 僕はおそらくそれだ、といい、

「現在のシステムが多くの人間を要求してくる。なぜかというと、いつ脳の回路がアルツハイマー病などで壊れるかわからないからだ。けれど、彼女のような特異な修復能力を手にした場合は話が変わる。半自動的に変容と修復を起こしていければ、システムは多くの犠牲を使用せずに済むんだよ。となれば、最後にわからないのは自殺の目的になる。彼女の小脳は、むしろ死から逃れる道を選ぶはずだ……」

 耕作が僕へと向き、

「自殺の理由はわからないが、少なくとも八宮と……いや正確には、私と群雨の来歴だけは知っている。私と群雨は、親権だけで言えば姉妹だったんだ。私たちはリフォーミングによって繋がった関係だった」

「きみもなのか」

 そのとき、琴永は失礼、と耳に手を当てる。そうしてわかりました、というと僕と耕作へと向き合う。

「彼女が再び自殺を図りました」


   6


 たどり着いた先は病室だった。幾人もの警備員が周囲を固め、そして中に入っても多くの人達が監視を続けている。その中心にいるのは、茫然自失して頭に包帯を巻き、身体をベルトで完全に拘束されている群雨だった。僕たちがやってきたのをみて無道が応じる。

「申し訳ない。今度は自分で頭を打ち付け始めました。幸い大事には至りませんでしたが、鎮静剤のある病院に移したほうがいいという判断でここに……」

 なるほど、と僕は返し、

「そもそもの最終目標は薬物の過剰摂取(オーバードーズ)、そして選定の判定を待つ殺害だったわけか……八宮さん」

 誰もが僕へと一斉に振り向いてきたので、僕は動揺した。

「留置所での自殺未遂のとき、なぜ手首だったのかということです。普通は手首ではなく、喉元近くの大動脈を突き刺さなければ効果が薄すぎる……彼女の小脳に抑止が働かない限界、つまり刃物ですこし切りつける程度であれば、小脳は過去の事例と同一と判定してくるとみての犯行だった……」

 すると、ただ呆然としていた群雨の顔がこちらに向けられ、微笑む。

「やっと会えましたね、先生……」

 僕はその平静な声色に対して返す。

「……君が自殺……というよりは殺人の犯人ということで間違いないね」

 群雨は、八宮は頷く。僕は続ける。

「君の群雨さん殺害の最大の目的は、彼女を救うためだね」

 琴永は目を見開く。

「そんな……なぜ殺すことが救いに……」

「脳の変質は、不可逆なものだ。壊れた脳は本来直せない。群雨さんのような奇跡を除いては。しかし、群雨さんの奇跡もまた、完璧なものであるはずがない。人間は脳が常に壊され、再生されることで生きながらえた時代など、一度も迎えたことがないから。故にして、小脳に発生した暴力の人格は、ただ群雨さんを痛めつけ続けるものとして確立した。かつての虐待によって……」

 琴永は呆然としていた。

「つまり、虐待による変質が、修復不可能な人格を形成し、それゆえに群雨さんは苦しみ続けていたと……」

 八宮の人格はうなずく。

「すべて試しました。しかし、彼女は救われることはありませんでした。そして、この社会は、彼女を生かすことを望み続けました。そうなれば、彼女は永遠に傷つけられる……その姿が……あまりに悲しくて……」

「おそらくですが、群雨さんは、最後の突き落としのせいで、すでに八宮さんのことは覚えていなかったのではないでしょうか……」

「はい、呼春はもう、私のことは何一つ覚えていませんでした。けれど、それでも、彼女は幸せそうだったんです……」

 八宮は語った。三年前のときのことを。

 群雨さんはすでに、すべての記憶を失っていた。幸せそうだった彼女だが、自分の見る夢や幻覚に怯えていた。

 その内容から、八宮は暴力的な人格が出現してしまったことを予測。僕の研究所を離れ、彼女のいる研究所で被験をしてもらうことにした。そこで暴力的な人格が夜にだけ現れることが確定した。

「私は、先生との研究を使って、まず彼女に限定的に新たな人格を組み込むことにしました。目標は人格統合の手助けとなることでした」

 しかし、その人格形成は、やはり夜には適応されることがなく、そもそも人格との接触すらままならなかった。

「やがて、小脳で形成された代理人格だったことに気づいたんですが、何も手出しができませんでした。小脳は運動器官のほとんどを司っていますから、どこかマスクするだけで運動機能、生体活動に障害が発生し、死ぬより悲惨な状態になるしかない状態だったんです……」

 考え抜いた先で彼女は、ついに自殺をさせることを決意しようとしたそのとき、自らの選定の連絡が来た。彼女は短い時間の間で、別の作戦に出ることにした。彼女の身体で自死することだった。

「時間はありませんでした。それでも、せめて彼女が解放されてほしかった……でも、なんでかいつも、止められてしまった。あえて自殺を志せるようにいろんなことをしましたが、それもだめでした……」

 そのとき、琴永がふと口を開く。

「どの人格においても、群雨さんは死だけは望まなかったからではないでしょうか」

 八宮は琴永に振り向く。

「彼女は暴力に苦しんでいましたが、自殺を自ら図ったことは一度もありませんから」

 僕はそのとき、琴永と群雨へと脳を接続し、そこに人格を呼び出していく。そこに現れたのは、耕作と、そして群雨と、小学生くらいの少女だった。耕作は少女に話しかける。

「君が止めてくれていたのか……」

 少女はうなずく。

「……死ぬのはいやだった。慧理ちゃんといっしょにいたかったから」

 そうか、と耕作は少女の頭を優しく撫で、僕へ振り向く。

「おそらく小脳には彼女以外の人格がいくらでもいる。時間はかかるが、それらと向き合い、長く暮らし続けるしかないのだろう。ひとつになるのではなく、いまの私たちの最善を目指すしか無いようだ」

 僕はその言葉にうなずく。

「誤解されがちだが、解離はただ統合すればいいわけではない。統合された途端に自殺した事例もあったほどだ。だから、耕作さんの言うとおり、最善を目指すしかない」

 群雨は共有されているその身体を優しく撫でる。

「ありがとね、慧理。でもね、わたしはそれでも、生きていたかったんだよ。あなたたちといっしょに。これからもう一度やり直そう、今はここに、私たちのお師匠がいるんだから」

 八宮はその言葉に、借り物の身体で、ただただ泣き続けた。


   7


 一ヶ月後、群雨は車椅子に乗って僕のもとへ現れた。彼女の身体のほとんどは人工筋肉によって固められ、車椅子は思考して動かす代物となっていた。彼女の周囲には、八宮、耕作、少女が霊体となって群雨に寄り添っている。

「まさか、ここまで良くなるとは思っていませんでした」

「本当は人格ごとに話し方を規定するのはいけないことなんです。でも群雨さんの場合はそのほうが効果があったようだ。それで、その身体はいかがです」

 群雨は笑い、

「むしろ快適なくらいですよ、この介護クラウドを使った身体の制御。本来の身体で動くのは億劫になりましたけど、わたしたちは肉体に縛られずに遊べますから……」

「暴力的な人格を探すのを一度やめて、あえて小脳の機能を外部出力しないようにしてみたのは正解だったようですね」

 小脳からの出力抑止とはすなわち自らの身体のほとんどの運動機能を失わせることを意味する。なのでほとんどの機能を代替えするようなシステムである、半自動の介護クラウドを実装するしかなくなった。これにより、小脳から暴力的な人格が現れても、身体の傷をつけることはできなくなった。

「それで、最近は怖い人格が現れたりしますか」

「します。でも、回数はずっと減ってきています。みんながいますから、怖くありません」

 その言葉に、僕は少し感傷に浸るしかなかった。僕は八宮を見つめる。八宮は笑って応じるが、彼女はもう、言葉を発することもない。代わりに、耕作が応じる。

「慧理のことは気にするな。彼女の思いは、わたしに引き継がれている」

 僕が群雨へ向くと彼女も笑い、

「慧理はわたしといっぱいお話してくれましたから。わたしには未練はありません。まだ小さい頃のわたしは必要としているようですがね……」

 少女はぴったりと八宮にひっついている。八宮もそれだけに対して反応し、頭をなでている。

「……あまり喋らなくはなりましたね」

「きっとそういうものなんですよ、先生と一緒です」

 僕は苦笑いする。

「僕の場合はむしろ困るんですけどね。ただ、ひとつのヒントができたのは事実でしょう。ね、耕作さん」

「ああ、わたしがまだ呼春とともにいられるのは、呼春と先生の両方の脳にあり続けているおかげだからな……」

 クラウドに保存されていた耕作は、僕の脳に取り込まれるとすぐに沈静化したが、こうして群雨さんと会うごとに活性化し、ひとつの強靭な人格となっていた。これが八宮の残した、ひとつの成果でもあった。同じ人間のなかで人格を分けようとも、知識のように一つに固められる。その回避手法としての人格のクラウド化は、人間の差分によって統合されることに抵抗できるようになっている。

 群雨は人工筋肉をつかっておじぎをし、

「では今日はこれで帰りますね」

「ええ、お疲れ様でした」

 群雨はそうして車椅子がひとりでに動き、僕は扉を開けて彼女たちを見送る。

「彼女たちも、いつか彼女と呼ぶ日が来そうですね」

 琴永のことばに僕は頷く。

「統合されるか否かは我々が決められることではないけど、彼女たちにとって幸せになってもらえればそれでいい」

 それにしても、と琴永は口を尖らす。

「なんであなたの人格の人たちはこう……みんな優しそうなんでしょうかね」

 僕の後ろにいる人々をみる。みんな絶えず優しく微笑んでいる。

「僕が根っからの善人だからでは……」

「それはとても否定したいです」

「どうして……」

 琴永はむすっとして応えるつもりはないようだ。そのとき、琴永が通話に出たのか、どこかに話しはじめる。

「わかりました、すぐ向かいます」

 そうして琴永は僕へと向いてくる。

「またあなたに依頼です。いきましょう」

 わかりました、僕はそういって、進んでいく琴永のあとをついてゆく。

 研究室にいた幽霊たちは、静かに消えていった。

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