融青池

@kazumi12

第1話 はじまり

 県道の最終地点。鬱蒼とした緑に囲まれた林道の入口。

 山肌を滴るのは冷たい湧水。

 谷間を流れるのは水量豊富な渓流。

 井戸の底には温度の変わらない地下水。

 三種の水を利用した養魚場が山奥にひっそりと佇んでいた。

 

 望月春樹は青いホースの先を潰して、熱気漂う県道のアスファルトに水を叩きつけた。塵を巻き込みつつ流れる水は透明感を失い、遠くを見れば粘り気を含んだような重みで湯気を立ち昇らせている。

「おかしいだろ。何でこんなに熱いんだ」

 鬱積の思いを晴樹は口にした。

 涼しくなる気配は一向にない。熱くなる兆候ばかりが溢れかえっている。太陽光は延々と降り注ぎ、ねっとりとした空気が山の谷間に満たされていた。稜線の向こうに覗く入道雲は微動だにせず、こちらに向かう素振りを微塵も見せやしない。このままでは雨どころか風さえ期待できないだろう。

 それだけではない。山中へ向かう林道を眺めて晴樹は溜息をついた。林道と比べると県道側はより高温になる。アスファルトで舗装されているかいないかの違いが、体感温度をがらりと変えて不快度指数を跳ね上げていた。

「真夏に長袖ってのも、おかしいだろ……」

 蜂対策のために麻のシャツを羽織り、水辺で作業するからと胴付長靴を履く。部活のようにTシャツ短パン姿になれないことが、これほどまで熱を籠らせるとは知らなかった。衣服の下はサウナのような蒸気で満たされている。頭上から始まる汗の流れは頬を伝い、顎から喉元へと落ち、更には鳩尾まで生温く滑っていく。逃げ場のない身体からの放射熱が襟元から顔面へと立ち昇っていた。

 右手にホースを持ち、左手の軍手で汗を拭う。ぺたりと肌に貼りつくシャツはひたすらに気持ちが悪い。一度でも、二度でも、せめて足元だけでも涼しくなればいいと晴樹は水を撒いた。


「ハルちゃん。何やっとんね」

 突然、林道から晴樹を大きく呼ぶ声がした。驚いて顔を上げれば道路脇の茂みが揺れていた。

 青々とした蔓草を掻き分けて祖母が姿を現した。晴樹と似たような恰好で麦わら帽子を被り、その下には手拭いが巻かれていた。背負った籠を地面に置き、右手に持つ鍬を腰にしまう。そのまま、県道を下ってホースの刺さった山肌の蛇口に手を伸ばした。

「婆ちゃん!」と透かさず晴樹は叫んだ。

 祖母が何をしようとしているか容易に予想できたのだ。

 おそらく、あの手は水道の元栓を締めるに違いないだろう。締められれば、ようやく掴みつつある涼しさが逃げてしまう。元栓に触れる手を引っ込めて欲しいと願いながら、晴樹は再び大きく息を吸い込んだ。

「婆ちゃん、水撒いてるんだって」

 再度叫んだ。けれども、祖母は晴樹の声など意に反さないまま蛇口を締めた。

 陽炎昇るアスファルトの向こうから、聞こえないはずのキュッキュと元栓を回す音が晴樹の耳まで届く気がした。束の間の幸せは蝉時雨に笑われて終焉を迎えた。

「……なんで締めるんだよ」

 どうして元栓を締めたのか。どうして懇願を無視をしたのか。それが分からず晴樹は地団駄を踏んだ。手元からの水飛沫は勢いを失い、申し訳なさそうに右手を濡らしていく。

 少しでも涼しくなればいいと思ったのだ。水撒きをすれば涼しい風が吹く。祖母も母親も暑い日には撒いていたはずだ。なぜ自分の時だけ許されないのだろうか。晴樹は異議を唱えようと口を開けて、けれども適当な言葉を見つけられずに頭を垂らした。ホースに引っ張られて祖母の元に行けば、祖母は苛立ちながらホースを引っこ抜いてみせた。

「水がもったいないじゃないか、まったく」

「だって婆ちゃん。水撒けば涼しくなるだろ」

 晴樹はどうにか喉の奥から声を絞り出した。

 とにかく熱かったのだ。ただ涼しくなりたいがために水撒きをしたのだ。水を止めた理由よりも、身に降りかかる熱さを祖母に理解して欲しいと晴樹は声を大きくした。

 顎から滴る汗を袖で受け止めて歯を食いしばる。ひたすらに体の芯が熱い。蝉の声が大きくなる程、数が重なる程、心拍数が上がって熱中症へ近づく気がした。

「いいか。日中撒いたらダメなんだ。男の子なんだからちっとは我慢しな」

 ホースを肩に乗せて、祖母は巻き始める。ずるずると地面を這いつくばって祖母の肩に収まっていった。

 追い打ちをかけるように、これだから都会育ちはと祖母は毒づいた。声量は小さくも、その言葉ははっきりと聞こえた。困ったもんだねと手拭いで額を拭き、二言三言呟いて石柵を跨いで母屋の向こうへと歩いて行く。じりじりと照りつく熱さに取り残され、晴樹は立ち尽くした。


「なんだそれ、ふざけんな」

 ささやかな涼しさを奪っておいて。一方的に棘のある言葉を放り投げておいて。育ちが悪いと自己完結をして祖母は立ち去ってしまった。反論する機会さえ無かった。吐き出してはならない感情が口から零れ出る。軍手を脱いで濡れた地面に叩きつけた。

「俺だって、こんな山奥に好きで来たわけじゃない」

 帰れるものなら今すぐ帰りたいと、軍手を踏みつける。

 何もかもが思うようにいかない。祖母に言いつけられた仕事もしたくなければ、炎天下の熱さに耐えたくもない。蝉を黙らせるほどの大声でふざけるなと叫べればどんなに楽だろうか。祖母が驚くほどの声で怒鳴れればどれだけすっきりするだろうか。やり場のない苛立ちが腹の底から登って喉を熱くさせる。

 追い打ちをかけるように胸ポケットに入れた携帯が震えた。応答を催促するように震えては止み、留守録通知が来ては再び震えた。五月蠅いのは祖母だけではないのだ。携帯に手を伸ばして視線も向けず適当なボタンを押す。電話だろうとメールだろうと、応えなくとも内容は判っている。

 どうして突然に引っ越したのか。どこに引っ越したのか。いつ帰ってくるのか。かつての同級生が皆一様に同じ内容を尋ねて来ているのだろう。これまで延々と続いたやりとりだ。返しても返しても好奇心の波は収まるところを知らない。

 晴樹は返答したくないと唇を噛んだ。

 祖父が倒れたと急報が届いてから、気づけば二週間が経っている。

 高校生活、初めての夏休みは仕事の手伝いに追われる毎日となってしまった。

それでも、ここに来た当初は小さい頃を懐かしんで一時帰宅に胸を躍らせたりもしたのだ。手伝いは母親に任せたまま自由奔放に遊び回った。幼い頃に虫取りに夢中になった獣道を走ったり、きらきら光る川魚を捕まえては炭火の上に串刺しにした。せいぜい二週間もすれば東京に帰れると思っていたのだ。

 それがどうしてこうなったのか。祖父はぎっくり腰と診断され、もはや完璧には治らないと医者からは告げられた。骨粗鬆症と長年に渡る腰への負担から、今も入院している最中で退院の見込みさえ不透明らしいのだ。これからは家族で支えてあげて下さいと医者は付け加えた。


 場所は東京から遥か遠く。

 聞いても思い浮かばないような山の麓。

 母方の実家であり、祖父母営む養魚場への手伝いは、そのまま引っ越して仕事をせざる得ない状況へと発展した。思い出にある養魚場は琥珀色。けれど目の前にある養魚場は無機質で白黒だ。今は養魚場を続けさせるための義務感だけが晴樹の心を満たしている。



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昔に書いたものです。

たまたま養魚場関係の仕事をしていた知り合いがいたのですが、今は音信不通で、そのままこの話も止まってしまいました……。

というより今は三人称で書けなくなってるかも。

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