思考実験/試行、実験
宛がわれた自室に戻り、私は装備を脱ぎ捨てた。
文字通り、捨てた――52号との接触で何らかのウイルスが付着しているかもしれないからだ。
入り口のダストシュートに放り込む。騒音は反響しながら遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
衣服を纏う前に、私はシャワールームに進む。
私の入室を感知して、ノズルから純水が噴き出す。その雨に頭から飛び込むと、専用の洗浄剤で全身をくまなく洗う。
一通り洗い終えたところで水は止まり、天井から熱風が吹き付けてきた。
10秒で髪も乾いた。
シャワールームを出ると、新たな衣類が用意されていた。それを着る前に、私は鏡に顔を向ける。
2秒注目すると、表面にポップアップウィンドウが浮かび上がる。視線をそれに合わせて、拡大。
鏡一杯に広がったのは、私のバイタルサインだ。
脈拍、心拍数に異常はない。更に詳しくスキャンさせると、体内臓器に一切異常はないと返答が表示された。
不安は、消えない。
全身洗浄を終え、身に付けていた装備も脱いだ。52号と接触した痕跡は何一つとして残っていない、筈だ。
それなのに、この不安は何だ。
彼と同じ空気さえ、私は吸っていない。彼の声はヘルメットのマイクが拾い上げ、録音しながら再生したし、姿もアイカメラ越しでしか見ていない。
彼の声も、視線も、私には届いていない。
彼からの影響は、全て完璧にコントロールされていたし、そもそも私に及んでいない。洗浄さえ過度の対応なのである。
それなのに、この不安は何だ。
彼の笑い声が耳に染み付いている気がする。
彼の視線が肌を這い回っている気がする。
彼の何かが、私を脅かしている気がするのだ。
【
それは許されない。
感染した可能性が有る限り、私はごく一般的なクラウドにも接続することが許されないのだ。
「………」
心配は要らない。
私の脱ぎ捨てた装備は、私の洗浄した後の水や洗浄剤と共に研究所へと運ばれて、子細漏らさず分析されている………52号の手足と共に。
何か異常があれば解る。
報せが無いということは、異常が無いということ。
冷静にそう言い聞かせてみても、やはり、私の不安は消えてはくれなかった。
………………………………………
生成後10年が経過しているという情報には、少し驚いた。一般的なワーカーの耐久年数が5年であることを考慮すれば、驚嘆に値するだろう。
恐らく、外壁の洗浄作業員という役割のせいであるだろう。【
ワーカーは元来出力と耐久性に優れているが、その中でもトップクラスでなければ、【シティ】の外には出ていけない。かつての人類を殺し尽くした自然の猛威が、瞬く間に私たちを打ちのめす事だろう。
太陽光を直接浴びる事が害であることに気付くまでに、人類はどれ程光に殺されたのか。
【シティ】はその威力を、燃料に変えた。肌を焼くほどの太陽光は、私たちを生かす力に変わったのだ。
逆に言えば、外壁にはそれが無遠慮に降り注ぐということだ。そして、そこを洗浄する52号にも。
「………それが、原因?」
可能性としてはあり得る。
太陽光でなくとも、放射線や大気に含まれる微生物など、制御下では有り得ない環境が52号の思考回路に影響を与えたのではないか。
………降り注ぐ太陽光に晒される52号。
思考回路に影響、正常な判断が不可能となり、彼は自己保全用の小火器を装備。同様の作業を行っていたモデルアダムに照準し、その頭部を一撃で破壊する………。
想像し、私は首を振る。
「………考慮に値しない………」
理由は3つ。
1つ。もし52号にそうした異常が発生していた場合、原因は不明だとしても、異常自体は直ぐ発見できる筈である。
2つ。もし外壁洗浄作業が原因ならば、52号以外にも異常行動が見受けられる筈である。現在のところ、そうした報告は上がっていない。
そして、3つ目。私の思考の根柢にあるのは【
やはり、私に出来ることは1つだけだ。
52号との接見。そこから、未確認の情報を手に入れることだけだ。
その為に必要な鍵を、私は用意しなくてはならない。
私の名前。52号が納得するような名前を、考えなければ。
………………………………………
『――回答。申請却下。【
そもそもこんな外部端末を使用させられている時点で、【
私は端末を操作し、文章を打ち込む。接続出来さえすれば、この手間も不要なのに。
『被験者から情報を得るために必要な接続である。私の職務権限内でもある筈だ』
『否定。現在、
私の職務は、【シティ】の保安を維持すること。有事には【
しかし同時に、私は被験者に接触している。権限凍結は充分起こり得た事態であった。
『セーバーは【
正論であった。私ならそう答えるだろうというような、理想的な解答だ。
ならば、仕方がない。私は再び端末を操作した。
『では、私が申請する情報を【
『申請を討議。………終了。検索対象の申請を。内容により個別に判断する』
『了解』
私の指は今までに無いほど酷使された。これ程の文字数をタッチパネルで入力したのは、私が生成されてから初めての事だった。
その甲斐もあって、私の端末には直ぐ様、申請した情報内容が転送された。私は有機コードを取り出して端末に繋ぐと、もう一端をうなじに差し入れた。
『
脳裏に文字と、合成音声メッセージが響く。
【了承】に触れるイメージ。脳内で私の指がyesの文字に触れると、文字は弾け、新たな光が文を成す。
『了承されました。ファイルを共有します。………【
瞬間、私の脳内を文字が駆ける。
暗闇を埋め尽くす情報の羅列が瞬く間に脳を埋め、私の知識として刻み込まれる。
『展開完了。警告・要領不足。
「………」
通常であれば、【
端末が唸りを上げ、情報の最適化を行う。そちらに負荷を押し付けて漸く、私は落ち着いて情報を読むことが出来た。
思考内時間にして、5分。
現実では7秒後。私は、必要な答えを得た。明日、彼に突き付けるのは、私の名前でなくて済みそうである。
………………………………
【シティ】に夜が訪れる。
【
接続していれば、私も同時に眠りに就いていただろう。【
私には、それがない。
いつものようにベッドに横たわったが、自分で睡眠に落ちる方法を私は知らない。
せめて目を閉じる。52号がそうしていたように。
暗い目蓋の裏側に、チカチカと星が瞬いた。いわゆる視覚的残像である。
普段ならばする必要の無い思考が、とりとめなく浮かんでは消えていく。心臓の鼓動が耳障りだ。血管を流れる血の音が、ゴオオゴオオとやけに煩い。
これが、独りの夜。
【
無駄だ。接続していないのだから、私の思考は【
この、独りの夜。起きているのは私と【
【
私は、どちらだ。
………多分。
どちらも、私は向こうだと判断しているだろう。
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