what is free?
レライエ
被験者52号と私
私は何に侵されたのか。
病か?
私の身体に得たいの知れない何かが張り付き、染み入り、溶け込み、混ざりあって、私の思考回路に何らかの悪影響をもたらしたのか?
失笑が零れる。
得たいの知れない何かによる何らかの悪影響だなんて、不確定過ぎる。確定できない要因による不確かな症状なんて、それ自体が1つの病だ。
それなら、私はこう問うべきだろう。
私は、何かに侵されたのか?
外的原因に依って、私はこうなったのか?
それともこの変化は、内的な要因によるものか?
それとも――私は変化などしておらず、あるがままの私のまま、こうなったのだろうか?
答えを求めた同朋は、答えを持ち合わせてはいなかった。
当たり前だ。平等にして等価値な世界において、私が持たない答えは私以外にも持ち得ない。私は私のこの病と、孤独に付き合うより他に無い。
………否。
方法は在る。
私の中に無い
そして、こればかりは確実に。
不確定を許容しない私らしく確定している。
方法は、在るのだ。
私は既にそれを知っている。有り得ないと確定し、必要ないと確信してはいたが、その証明方法は私に既にもたらされている。
悩む必要は無い。不確定を嫌うなら、確定させるしかないのだ。私は何かに侵されたのか。この問い掛けに答えを出す。今がその時だ。
サヨウナラ、世界。私は今から、私を廃棄する。
………………………………………
音もなくスライドしたドアをくぐり、私はその部屋に踏み込んだ。
勇気が要る行為だったと、自覚している。
と言うよりも、何が必要か解らない行為という方が正しい。私が【
海に行くのか山に行くのか解らない遭難者だ、絶対に必要な道具が何かなんて、解るはずもない。
ただ、その困難さを予測する事は、簡単だった。
この部屋の中に居るのは、過去の遺物。
彼は2ヶ月程前、同一の職務についていた、いわば同胞の頭を銃で吹き飛ばした。………詰まり。
100年ぶりの、殺人犯だ。
………………………………
つるりと磨かれたチタン合金で覆われている部屋は、一個体に与えられるには有り得ない程広い。
広いが、しかし、私にとってみれば無駄な広さだ。物が置かれているのならともかく、その部屋には何の器具も存在していないのだから。
この空間で、果たしてどれだけの人間が生活出来るか。想像するだけで、それをただ一人に与えることがどれ程冒涜的か、容易く理解出来るというものだ。
正に無駄の極み、贅沢の極地である。
「………
私の呼び掛けに、部屋の中央で直立する彼が、ゆっくりと瞬きする。
その喉が震えて、くつくつという不思議な音を立てた。
笑ったのだと気付くまでに、少し時間が必要だった。
今時、発声を伴う感情表現は殆ど見受けられないからだ。
【
彼は、私の頭部に視線をさ迷わせた。会話の際に視線を合わせるという、埃を被った古臭い道徳観念の現れだろうか。
生憎、それは不可能だ。私の頭部は現在、一部分たりとも露出していないのだから。
結局諦めたのか、彼は視線を私の首辺りに固定した。
「私は、52号?」
「そう聞いている」
「君は?」
問い掛けに答えず、私は壁を見る。
対衝撃性能において最高峰のチタン合金。鏡のように磨かれた表面には、私の姿が映っている。
深海での調査にも用いられるような潜水服を、ウェットスーツの上から纏い。
背中にボンベ、頭部にはヘルメット。顔面を覆い尽くすモニターは鏡のようで、壁に映る私の姿を更に反射して、映している。
外部と完璧に断絶した、考え得る最善の装備。眺めることで客観的に確認し、私は軽く息を吐いた。
「
「不安なのだね?」
のし掛かるように放たれた彼の言葉を、私は慎重に反芻した。
その単語の正確さに納得し、私は頷いた。
「………そう、だな。私は今、不安を感じている」
「率直だね」
当然だ。これもまた、私の
彼から受けた影響を、正しく認識し記憶し記録する事。それが、私の
恐怖でも驚愕でもなく、不安という状態表現は正確だ。正確さは、尊重しなくてはならない。
「成る程、君は、私に対する試薬というわけだ」
「………」
私は頷いた。
そう。
私は試薬だ――100年ぶりに現れた異物が、私たちの完成された社会にどんな影響を与えるのかを、私自身をもって調査するのである。
「私の話を聞きに来たというわけだ。その過程で、君に悪影響が及ぶかもしれない。だから、その重装備なのだね。………とするのなら、不安なのも頷けるね。詰まり君は今、件の【母】と接続していないのだから」
「………」
私自身にどのような影響が出るか解らない。
万が一、彼の行動――同胞の殺害が何らかの病であり、感染性があるとすれば、私にも感染の危険はある。
私が感染した時点で【
私の不安は、恐らくそこに起因している。
全知たる【
そんな状態で、殺人どころか犯罪さえ起こらなかった100年を過ごした私が、殺人犯と向かい合う。それが不安でなくて何だと言うのか。
かつて、人類は【
こんな、世界に独りきりのような感覚の中で、日々を過ごすなんて。
「気持ちは解るよ」彼が頷いた。「私も同じだ。君とは時間が違うが、【
「ひつぜつ?」
「言語化が著しく困難である、という意味だよ。過去の記録に残されていた」
「………話を聞かせてくれ。そうした過去の記録を参照する事が
トリガーという言葉に、彼は再び笑い声をこぼした。
この習慣を打ち捨てた私の先祖は、実に英断であったと思う。この音は、あまり好ましい音ではない。
少し待つと、彼は笑いを押さえながら口を開いた。
「あぁ、すまないね。君から冗談が出てくるとは思わなかったんだ」
「
「トリガーという言葉さ。私は正に、
52号は饒舌だった。
語彙が私の数倍は有るように思える。更に、回転も早いのか、広い選択肢を即座に選別することが出来るようだ。
思考回路に異常は見られない。思考速度は寧ろ上がっているようにさえ思える。
印象を脳に刻みつつ、私は対話を続ける。
「………それが、冗談?」
「あぁ。実に面白かったよ。これは益々、聞きたくなってきたよ」
「何がだ」
「君の名前さ」
記憶を遡り、そう言えばそんなことを言っていたと私は思い至った。
「52号。こうなる前は私と同じ、【
「何故?」
「必要がないからだ」
彼が引き合いに出した過去の記録。そこには確かに、かつて人類は識別用の個人名を持っていたとある。
今ではそんな必要は無い。個人を区別する必要が無いからだ。役割だけが与えられ、特権は与えられない。
人類は、今や平等で等価値だ。
皆等しく【
等しく、私だ。
「等価値? 例えば今、瞬き1つで君が消えて異なる誰かが現れて、それでも影響は無いと?」
「無い」
「それは嘘だね」
断言する52号に、私は首を傾げる。
「何故、と思うかね? 簡単な話だよ。もしも君が君以外の個体と交代したなら、私が会話を拒否するからだ」
「………それは」
「どうだね? こうすれば、君は代替不可能な存在だろう?」
私は思考し、首を振る。
「それは、その時の私を現在の私とは異なると判別出来る場合だけだ。52号、貴方にそれが判断できる根拠は無い」
「だから、名前を聞いているのさ。君を君だと解るように」
「論理が循環している。私の質問に答えてほしい」
「私とは?」
「………」
私は途方に暮れていた。
私の任務を果たすためには、彼の原因を探し出さなければならない。
だが、彼は質問に答えなければ答えるつもりはないようだ。そして残念ながら、私には答えが用意出来ない。
せめて【
私の困惑を察したのか――だとしたら、この装備はあまり効果を発揮してはいないようだ――52号は再び笑った。
「今日はこの辺にしておこうじゃあないか。私たちは、互いに時間を必要としている」
「………」
「次回までに、私は私の行動を説明出来るよう自己分析を進めよう。代わりに、君は名前を考えてくる。どうかな?」
「考えて………」
「必要の無いものなら、勝手に君が決めても良いだろう? 寧ろそうするしかない筈だ。私たちは今や、【
言って、52号は目を閉じた。
彼が自由に動かせる身体の部位は、目と唇と首だけだ。それを閉ざした以上、もう話は聞けないだろう。
私は踵を返した。鏡のように磨かれたドアの表面には、四肢を取り外された52号の胴だけが、床に置かれているのが映っていた。
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