第1話 物語は納豆入りシューズから始まる①


 納豆だ。


 私、清村椿(きよむらつばき)は学校の下駄箱を開けてまず思ったのはそんな馬鹿みたいな一言だった。

 白い上履きの中に、茶色い、独特の香りを放った納豆が入っている。

 これはとても新しい。滅多に見られない光景だ。


 眉間に皺を寄せて、上履きを下駄箱から取り出すと私は


「食べ物で遊んでんじゃねぇぞこのあんぽんたん!!!」


 と、叫びながら思わず上履きをぶん投げた。

 何しろ怒りの矛先をどこにぶつけていいかわからなかったのだ。


 しかしその直後にビタン、と嫌な音がした。そして共に「ぶっ」という短い声も聞こえた。


「………」


 ずるーっと糸を引いた納豆と上履きが声を上げた相手の顔からゆっくり落ちる。

 おお、さすが納豆粘り強い。地面までは落ちてない。


 ってちがぁぁぁぁぁう!!


「か、影井さん、大丈夫!?」


 私は納豆入り上履きをぶつけられた相手、同じクラスの男子である影井(かげい)さんに詰め寄った。

 ああ、何でこんなゼロ距離にいるのよ影井さんっ!!って心の中で叫んだ。

 けど、当たり前だった。影井さんと私、影井と清村で出席番号すぐ隣だもん。

 登校のタイミング被ったら隣にくるわよね!!


 あまりのことに頭の中で一人問答している間に、件の相手は納豆入り上履きを手に取って唖然としていた。


「流石に朝から納豆と上履きが同時にゼロ距離で飛んでくるとは思わなかったな……」


 そういい影井さんは私のほうをじっと見た。


「清村さんが好き好んで納豆を自分の上履きに詰めたとは思いがたい状況だけど?」


 いや、うん、そうなんだけど。

 髪の毛に納豆つけながらキリリとした顔で言われてもどう反応していいかわからないわよ。

 ああもう、トレードマークのサラサラおかっぱ頭が台無しに!!


「いや、そんなのいいから。影井さん、髪洗ってきなよ……私、タオル持ってるし」


 私はカバンの中からタオルを取り出した。

 もう、使う必要が今ではないのに部活してた頃の名残でつい持ってきてたものだ。


「………」


 タオルを受け取った影井さんは、ジッと私のほうを見る。

 いやー切れ長の目に整ったご尊顔で見つめられるとか福眼だわ。

 正直髪型も手伝ってか、もうほぼ美女だよねぇ、男だけど。


「えーと……?」


 そのまま時間が止まってしまったような気がして、私は困り顔で首を傾げる。


「清村さんも、上履き洗わなきゃだろ?」

「あ、うんうん、もちろん!」

「なら一緒に行こう。外の水道使ったほうが目立たないだろうし」


 そういい影井さんは私の上履きを持ってさっさと歩き出す。


「あ、あの上履き!!」

「納豆で汚れてるから俺が持つよ。俺はもう既に納豆で汚れてるし」


 うう、非常に申し訳ない。

 項垂れる私なんて気にも留めずに彼はすたすたと歩いていく。

 そして外の水道につくと自分の髪を洗う前に、私の上履きを水でじゃばじゃば洗い出した。


「ちょ、ちょっと影井さん! 自分でやるよ!」

「いいから。まだ水冷たいし、汚れるから」

「大丈夫だって……汚れたら石鹸で洗うし……」


 そういう私の言葉なんか無視して、納豆髪に付けたまま影井さんは私の上履きを綺麗に洗ってくれた。


「はいどうぞ。と、いっても乾いてないから履けないか……」

「体育館用あるし大丈夫だよ! むしろ洗ってもらっちゃって……っていうかまだちゃんと謝ってなかった」


 私は上履きを受け取ってから、深々と影井さんに頭を下げた。


「上履きと納豆ぶつけてごめんなさい」

「気にしなくていいよ。普通上履きに納豆入れられてるのに怒らないほうがおかしいし」


 影井さんはそういって軽く笑うと水道の蛇口の下に頭を持ってきて、上履き同様にじゃばじゃばと髪を洗った。

 見た目に反してワイルドな洗い方するなぁ。


「ふぅ……」


 私から受け取ったタオルで水気を拭いた影井さんは、ぐっと髪をかき上げて私に笑いかける。


「ありがとう、これで乾けばもう大丈夫」


 わー……水も滴るいい男ってのはこういうことを言うのか。

 やっぱこの人格好いいよなぁ。

 地味にモテるし。


「ううん、お礼言われることじゃないよ。元々は私が悪いんだし」

「悪いのは、納豆入れた奴ら……じゃないの?」


 その瞬間、ゾクリと背中に冷たいものが走った気がした。

 影井さんの切れ長の目が、更に鋭くなった気がしたからだ。

 まるで背後に獰猛な獣でもいるみたいな。

 とにかく、一瞬、ほんの一瞬そんな物騒な気配を感じた。


「あはは……こんなのたいしたことないって」

「でも、これっていじめだよね?」


 いじめ。

 ああ、世間一般からみたらこれはいじめなのか。


 いじめって言葉、好きじゃないなぁ。

 だっていじめって弱い者に強い者、及び集団になって強くなった気でいる者が行う行為だもん。


「影井さん、それって私が弱いって言いたいの?」


 向けられた鋭い気配に、私は応戦するように返す。

 向こうが獰猛な獣なら、私はその獣を切り伏せる刀を向けるが如く。


「……そんな風に聞こえた?」

「いじめっていうのは強者が弱者に行うものだよ?」

「その定義で行けば、確かにそういう意味になるね」


 その言葉に、私は笑ってしまった。

 私が弱い?

 あはは、冗談じゃない。


「残念でした。私はいじめられてなんかいないよ。こんなのはただの嫌がらせ」


 私の言葉に影井さんは眉間に皺を寄せる。

 いじめと嫌がらせの違いがわかってない、そんな感じ。


「反撃しようと思えば出来るんだよ、簡単に」


 笑顔で水道の手すりに手をかけると私は更に続ける。

 そう、なんてことない。

 こんな嫌がらせは子猫がライオンにじゃれ付いてるレベルだ。


「強者の責任として私は相手に手を出さないだけ」


 それだけ言うと私は影井さんに背を向け歩き出した。


「清村さん」


 呼び止められたから、一応足は止める。


「強者でも、耐えるってことはストレスだと思うよ。俺でよければ、いつでも頼って」


 その言葉に私は苦笑いを浮かべて振り返った。

 ああ、そっか。

 影井さんは”外の人”だもんなぁ。


 この町の人間なら今、この現状の私には積極的には関わらない。

 相手が悪いと、距離を逆に取るくらいだろう。


 心遣いは嬉しいけれど、私の事情に巻き込まれて嫌な思いはして欲しくない。

 こんなに優しい人だもん、私なんかに関わって痛い目みるのは可哀想だ。


「ありがとう。でも、大丈夫だから。っていうかこれ以上私には関わらないほうがいいよ」


 それだけ言い残して、私は教室へ戻った。


「椿……」


 そんな私の姿を、校舎の二階の窓から見ている人物がいるなんて気づきもしなかった。

 その人物は窓枠をぎゅっと握ってギリッと強く歯軋りをすると、そのまま雑踏の中に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る