第10話
「雪だ…。」
近所のドッグランで特訓をしていたユウタとミツルは、空を見上げた。白い空から白い雪がフッフッと現れ、落ちてくる。
「冷た…。」
おでこに雪の粒が落ち、ユウタは反射的に目を閉じた。ミツルは、そんなユウタに、
「帰ろうぜ。」
と声をかけ、帰り支度を始めた。
「始まったばっかりなのに。」
不満そうに口を尖らせ、ムーの頭を撫でる。曇りのち雨と予報されたこの日、ドッグランにはユウタ達だけだった。
「せっかく、貸切状態だったのにね。」
ムーにリードをつけ、ユウタはドッグランを残念そうに見渡した。
「今日はもう休めってことだよ。腹減ったな。メシ食って帰ろうぜ。」
ミツルはドッグランの出入口の戸を開けて、ユウタを待った。ユウタは、ため息をつき、ムーと歩き出す。
「もう少しやれば、よくなるのに。」
「そりゃそうだけど、お前の体の事を考えねぇと。お前、この頃、夜も遅いだろ?」
「ちょっと、小説書き直してるから。」
「へぇ。」
ユウタが、これだけは書きあげたいと言っている小説。その事を言われると、やっぱり弱い。絶対に書きあげてもらいたい。でも、無理は…。ミツルの心に様々な思いが駆け巡る。
「寒くなっちゃったね。」
ユウタは、出入口までくると肩をすくめ、コートの襟を合わせて空を見上げた。空を眺める横顔が、そのまま真っ白な空に溶け込んで消えてしまいそうだ。
「ほら、行くぞ。」
ミツルは、ほんの少しだけ乱暴にユウタの腕を引っ張った。
ドッグランに併設されたドッグカフェで、二人は遅い昼食をとった。ランチには遅く、お茶には早い中途半端な時間に、カフェの客はユウタとミツルだけだった。二人は、大きなガラス窓の側のテーブルに座った。ミツルが、メニューをテーブルに広げる。二人でメニューを覗き混む。
「俺は、ペペロンチーノだな。あとは…ピザ、少し食うか?」
「うん。」
「じゃあ、マルゲリータでいいか?」
「うん。」
「お前は?」
「僕は…どうしようかな。」
「シチュー、あるぞ。」
「うん。それがいいな。」
「あとは…ホットミルクか?」
「うん。」
「俺は、アイスコーヒーだ。よし、決まり!」
オーダーをすませ、店員が去ると、ユウタがフフッと笑った。
「どした?」
ミツルが、キョトンとして尋ねる。
「僕が食べるもの、全部本田くんが決めちゃったね。」
「あ、違うもんがよかったか?」
慌ててメニューを取ろうとするミツルをユウタが止めた。
「ううん。本田くん、僕の事、ちゃんとわかってくれてるんだなぁって。」
「は…。」
ミツルの頬が、少し赤らんだ。
「そ、そりゃあ、これだけ一緒にいりゃあ、食い物の好みなんて嫌でもわかるようになんだろうよ。」
「そうかな?」
嬉しそうにユウタが身を乗り出す。
「そうだよ。」
ユウタに押され気味に、ミツルが椅子に背をつける。そして、口角を上げて窓の外を眺めた。一緒にいるということは、長さじゃなく、密度なんだ。どれだけ相手の事を想って暮らすか。そんな事など考えたこともなかったミツルは、今はっきりわかった。それがどんなに嬉しいことなのか。窓の外の雪はやんでいた。ミツルは、目を細めて白い空を見上げた。
「あーッ、食うとあったまるな!」
ペペロンチーノをいつもの調子で一気に平らげ、ミツルはアイスコーヒーをゴクゴクと飲んだ。
「それ飲んだら、また冷えちゃうんじゃない?」
あきれ顔でユウタが笑った。
「店の中、アチいからよ。」
ミツルは、シャツの襟を人さし指で引っ張った。ユウタは、フフッと笑いながら、窓の外を見た。
「雪、やんでる…。」
「でも、もう今日は帰るぞ。」
ピシャリとミツルが釘をさす。
「わかってるよぉ。」
口を尖らせ、椅子に寄りかかるユウタ。足元で寝ていたムーが、ピクッと目を開けたが、また目を閉じた。
「そういやあ、小説書き直してんのか?」
さっきのユウタの言葉を思い出し、ミツルが尋ねた。
「うん。まあね。」
「へえ。大変だな。」
「ううん。楽しいよ。書きたくて書きたくて、途中でやめられなくなっちゃって。」
「それが悪いんだよ。夜は、ちゃんと決まった時間で寝るようにしろ。」
心配でもはっきり言えなかった気持ちを、ここぞとばかりに伝える。ユウタもミツルの気持ちを察したのか、
「うん。ごめんね。」
と、素直に謝った。
「い、いや、あやまることはねぇんだ。」
あまりに素直に謝られると、こっちが恐縮してしまう。結局のところ、ミツルはユウタに弱いのだ。
「で?どんな話書いてんだ?」
ミツルが、身を乗り出して聞いた。ユウタは、肩をすぼめ、
「えへへ。」
と、楽しそうに笑った。そして、
「ないしょ。」
と、舌を出した。
「なんだよー。できたら見せてくれるんだろーなぁ。」
ミツルが、駄々っ子のように身をよじる。ユウタは、怪訝そうに、
「本田くん、小説、読むの?」
と、聞いた。ミツルは、ゴホンと咳払いをし、答えた。
「読まねぇ。けど、お前のだったら読む。」
ユウタの顔にゆっくりと笑みが広がっていった。
「じゃあ、読んでね。完成して…。」
ユウタは、言葉を切った。
「ん?」
ミツルは、ユウタの次の言葉を待った。
天気予報は、外れた。雲が途切れ、陽が差してきた。溶けかけた雪に陽が当たり、キラキラ輝き出す。その光がカフェの窓ガラスに届き、ユウタの言葉の続きを聞くミツルの横顔を、優しく照らしていた。
年が明けてから、ユウタは体調を崩し、短期間入院をした。退院してからも、ソファで横になっている事が多くなっていた。ミツルは、リビングでも楽な姿勢でいられるように、リクライニングの椅子を購入した。
「これ、いいよ。」
ユウタは、ご機嫌で言った。
「すごく楽だよ。小説も書けるし、みんなといられるし。」
「よかったな。」
ミツルは、少し複雑な気持ちで微笑んだ。
「で、今日は夕メシ、何がいい?買い物行ってくるぜ。」
「うん。ありがとう。どうしようか?」
「やっぱ、鍋か?」
「最近、鍋多いね。」
「じゃあ、何にする?」
「いいよ、鍋で。」
「って、いいのかよ。」
「うん。」
「何入れる?」
「うーん…。」
「この前のきりたんぽ、うまかったよな。」
「おいしかったね。」
「あと、朝の残りの玉子焼き。」
「あれは意外だったね。」
「エコだしな。」
「あれ、エコっていうの?」
「いうだろ。ゴミ削減だろ。」
「あ、そっか。」
「そうだよ。…で!何入れんだよ!」
「えーとね…。」
こんなどうでもいい会話が、大切になってきた。ミツルは、相変わらず長くかかる仕事は避けるようにしていた。社長は「もったいない」と、苦い顔をしていたが…。
再開した時、すでにカウントダウンは始まっていた。最近は、そのカウントダウンが、ミツルの耳元で聞こえるようになっていた。ミツルにとって、一日が、一分一秒が、貴重に感じるようになっていた。当のユウタは…変わらぬ様子で、毎日を楽しそうに暮らしてくれている。
「じゃ、行ってくる。」
「行ってらっしゃい。」
ミツルは、表に出た。
「鍋か…。」
そう言えば、初めてユウタと一緒に食べた夕食も鍋だったっけ。考えてみると、二人で食べた食事は、圧倒的に鍋が多い気がする。やっぱり、さっきみたいに何を入れるかで話が盛り上がり…。
「ふふッ。」
ミツルは、歩きながら含み笑いをした。そして、歩くペースを少し早め、商店街へ向かった。
ユウタは、窓を開けた。冬の晴れの日は、空気が清々しい。道路へ目をやると、商店街へと向かうミツルが見えた。大きな背中をスッと伸ばし、コートの裾を翻して歩いていく。
「かっこいいなぁ…。」
ミツルに連れていってもらった初めてのファッションショーを思い出す。とにかくキラキラしていて、そんな中でもミツルが一番輝いて見えた。ミツルがやってこなければ、体験することなんてできなかっただろう。毎日変わらぬ静かな日々を過ごしていたのだろう。本と小説の日々。特別変わったことも起こらないけれど、好きな物と暮らす日々。それはそれで、よかったと思う。けれど、ミツルとムーがやって来て、毎日がお祭り騒ぎになった。今までの日々を思い起こして、ユウタは自然と笑顔になる。ムーがやって来て、ベランダに身を乗り出し、外の空気の匂いをクンクン嗅いだ。
「よいしょ。」
ユウタは、ムーを抱き上げた。
「重くなったね。それとも、僕の力が弱くなったのかな…。」
ムーは、ユウタの顔を見つめ、首をかしげた。ユウタは、フフッと笑い、ムーに外を見せた。
「ほら、君のパートナーだよ。君のパートナーは、かっこよくてパワーがあって、すごいね。」
ユウタは、ムーの顔にそっと頬をつけた。
「彼が辛い時…君は、彼の側にいてあげて。君は…君は、死んじゃダメだよ…。」
そう言って、ムーの首元に顔をうずめた。冬の陽差しが、窓辺に優しく降り注いでいた。
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