第8話
自分がこんなにセンチメンタルだとは思わなかった。
「なぁ、卒業アルバムって、あるか?」
高校時代の自分達が見たくて、ミツルはユウタに尋ねた。
「ないよ。捨てちゃったもん。」
「捨てたぁ?」
「だって、いい思い出なんてないから。」
ケロッと言ったユウタの言葉が、ミツルにはグサリと突き刺さった。
「…そ、そうか…。」
「本田くんは、無いの?」
「あるけど…実家なんだよ…。」
やっぱり、ミツルは実家に帰れない何かがあるようだ。
「取りに行かない?」
ユウタは、思い切って言ってみた。
「はぁ?」
「行こうよ!」
「行かねぇよ。」
「行こうよ!僕も、卒業アルバム見たい!」
「え……。」
「僕、捨てちゃったから、見られないんだもん。見たいなぁ。ね?行こうよ!」
「う…。」
ユウタにそう言われたら、ミツルは断りづらい。
「わかったよ…。」
ミツルは、自分で招いてしまった結果に、ガックリと肩を落として、しぶしぶオーケーした。
もう夏も終わりだ。ミツルには、あっという間に夏が過ぎていったように感じる。夏だけじゃない。毎月、毎週、毎日が、駆け足で通り過ぎていくようだ。もっとゆっくりと時間よ流れろ、とミツルは願う。
駅のホームで電車を待つ。アスファルトの熱を連れた風に吹かれ、ミツルは顔をしかめた。ふと、ユウタを見ると、涼しげに微笑みを浮かべ、空を見上げている。ミツルもつられて空を見上げた。少し高くなったような気がする空は、突き抜ける青さで、ミツルの心のモヤモヤを吹き飛ばした。いつの間にか、ユウタの隣でミツルも笑顔になる。電車がやってきた。二人は黙って乗り込む。
二人で見上げたこの空も、後になってきっと思い出す。
ミツルは、電車の窓からまた空を見上げた。電車は滑るように発進し、後に蒸し暑い風が残された。
二人は、落ち着いた雰囲気の住宅街がある駅で下車した。遠くでミンミン蝉のなく声が聞こえる。吹く風は駅と違って、少し心地よい。大きな家の建ち並ぶ中をしばらく歩き、一際立派な豪邸の前でミツルは立ち止まった。
「…こ、ここ?」
ユウタは、恐る恐る尋ねた。ミツルは、仏頂面で頷いた。
「すごい家だね…。」
ユウタは、ため息をもらして豪邸を見上げた。ミツルが大学を中退してから、一度も帰ったことのない家だ。
「自分ちなのになぁ…キンチョーするぜ。」
ミツルは、唾を呑み込む。
「ぼ、僕も緊張してきた。」
二人は揃って、重厚な門を見上げた。
「よし!押すぞ!」
ミツルは、意を決して呼び鈴を押した。
「はい?」
インターホンから、落ち着いた女性の声がした。ミツルの母親だろうか。
「俺…ミツルだけど。」
一瞬の間があった。
「坊ちゃまでございますか?しょ、少々お待ちください!」
最初とはうって変わって、声のトーンが高くなった。お手伝いさんだったようだ。少し待っていると、門が自動で開き始めた。玄関までは、よく手入れされた植え込みが両脇にある打ち水された石畳を歩いた。玄関の前で、品のいい年配の女性が二人を待っていた。
「お久しぶりでございます。」
待ちかねた様子で、女性が深々と頭を下げる。
「米倉さん、元気そうだね。」
ミツルは、少し気まずそうに、それでも親しげに声をかけた。米倉が、嬉しそうに顔をあげる。
「お陰様で、まだお世話になっております。」
そして、ミツルの顔をまじまじと見た。
「お元気そうで…安心いたしました。」
米倉の瞳は、潤んでいた。ミツルは、咳払いをすると、
「ちょっと、荷物取りに来たんだけど、お俺の部屋…まだあるかな?」
「もちろんでございます。毎日、お掃除させていただいておりますよ。」
米倉は、胸を張って答えた。
「え、そうなの?悪いね、俺いないのに。」
「とんでもございません!綺麗にしておいたかいがありました。」
ミツルは、家の中を探るように覗きこみ、
「で、いるの?あの人たち。」
と、顎を撫でた。
「はい。旦那様も奥様も、おいでになられなすよ。さ、どうぞ。」
米倉に促され、ミツルが三和土に足を踏み入れる。その後ろから現れたユウタに、米倉は初めて目を向けた。
「初めまして、こんにちは。僕、本田くんの友人で鈴木ユウタといいます。」
ユウタは、深々と頭を下げた。米倉は、顔を輝かせた。
「ようこそいらっしゃいました。まあ、そうですか。坊ちゃまのご友人でいらっしゃいますか。」
米倉は、満面の笑みをユウタに向けた。
「はい。本田くんにはお世話になってます。」
「何言ってんだよ、世話になってんのはこっちだろ。」
「そんなことないよ、僕は…。」
「はいはい、わかったよ。ほら、上がれよ。」
二人のやり取りを、米倉は嬉しそうに眺めていた。だだっ広い玄関ホールに上がると、ミツルは、ホールの奥にある扉を見つめた。少し何か考えているようだったが、グッと口を結ぶと、その戸を開けた。中は、落ち着きのある広い洋間で、ロマンスグレーで貫禄のある男性がソファで本を読んでいる。ミツルの父親だ。
「えっと…ただいま…。」
ミツルは、声を絞り出した。父親は、本から視線を上げないまま、
「何しに来た。」
と、静かな重い声で言った。途端にミツルの態度が変わった。
「荷物取りに来ただけだよ。すぐ帰る。」
荒々しく言い放ち、乱暴に扉を閉めた。
「行くぞ。」
ユウタを押しのけて、ホールの横にある大きな階段に向かった。そして、振り向きもせず、
「ユウタ、来い!」
と言いながら、わざと大きな音を立てて階段を登っていく。ユウタは、米倉に会釈をすると、慌てて後を追った。
二階のミツルの部屋も、当然のことながら広かった。大きな窓から明るい光が差し込んでいる。洗練された造りの勉強机に本棚、ソファセット。大画面のテレビ。二間続きのようになっていて、奥が寝室のようだ。
「ほぼ、ホテルだね…。」
ユウタは、口を開けて部屋を見渡した。ミツルも懐かしそうに部屋を眺めていたが、ふいに本棚に近づいた。昔のファッション雑誌や音楽雑誌がぎっしり並んでいる。
「とっといてくれたんだ…。」
ミツルは、並んだ雑誌の背を愛しそうに撫でた。それから、机に向かい、引き出しを開けた。
「あったぞ。」
ミツルは、卒業アルバムをかかげた。二人はソファに座り、アルバムを広げた。その時、ノックの音がした。ミツルが応えると、米倉が入ってきた。テーブルに紅茶のセットと菓子を乗せ、カップに紅茶を注ぐと、
「どうぞ。」
と、ユウタに差し出した。
「ありがとうございます。」
ユウタは、紅茶を受け取った。ものすごく香りのいい紅茶だ。ユウタは、早速口をつけた。
「うん!おいしい!」
当然、高級品なのだろう。ユウタが今まで飲んだことのない香りと味がする。
「すっごいおいしいよ!本田くん!」
「そうか。」
ミツルは、嬉しそうに笑った。米倉も、フフッと笑って、
「素敵なご友人でございますね、坊ちゃま。」
と、ミツルにカップを渡した。
「ああ。コイツ、すげえいい奴でさ。俺、今コイツの家に居候してんだ。」
「まあ!」
米倉が、目を丸くした。
「居候って…どういう事でございますか?」
「女に追い出されてさ。行くトコ無くてコイツんちに転がり込んだんだ。」
それまでニコニコと笑っていた米倉が、険しい顔で声を張り上げた。
「一体、何をなさっているんですか!」
ミツルの背筋が伸びる。つられてユウタも正座になる。
「女に追い出されたって…情けない!」
「いや…その…俺の方から出ていったっていうか…。」
「それで、鈴木様にご迷惑をおかけして!」
「いえ、僕は迷惑だなんて…。」
「いいえ!」
助け船を出したユウタをピシャリと遮り、キッとミツルを見据えた。
「社会人たるもの、責任ある行動をとっていただかないと!」
「は、はい…。」
ミツルは、大きな体を小さく縮めた。ユウタは、
「米倉さん…すごいですね…。」
と、目を丸くした。
「そうなんだよ…たまに、すげー怖いんだよ。」
か細い声でミツルが言う。米倉は、コホンと咳払いをして、
「それは、坊ちゃまがいけないことをなさるからです。」
と、胸を張った。ミツルは米倉に向けて優しく微笑んだ。
「わかってるよ。これでも、感謝してるんだぜ。」
「坊ちゃま…。」
米倉の顔が、最初に会った時の優しい顔に戻った。
「米倉さんだけだもんな、俺の事、気にかけてくれたの。」
「坊ちゃま、そんなこと…。」
米倉が、口ごもる。
「ホントの事だろ。」
ミツルがぶっきらぼうに言って、フルーツケーキを頬張る。米倉は、しょんぼりと盆を持ち、立ち上がった。
「ごゆっくりなさってくださいね。」
ユウタに頬笑むと、静かに部屋を出ていった。ユウタが、ため息をつく。
「もう…米倉さん、困ってたよ?」
「あいつらが親らしい事してねぇって、米倉さんもわかってるから、何も言えなくなっちまうんだよ。」
ミツルは、紅茶をすすりながら、アルバムをめくる。ユウタも、フルーツケーキを一口食べる。
「フルーツケーキもおいしいね。この紅茶によく合うよ。」
ミツルは、アルバムから視線を上げた。ユウタの顔を見て、ブッと吹き出す。
「すげえ嬉しそうだな。そんなにうまいか?」
「うん。すごくおいしい。」
「そりゃ、よかったな。」
ミツルの機嫌も元に戻り、二人でアルバムを眺めた。卒業生の集合写真は、センターを女の子に囲まれたミツルが陣取り、ずっと後ろにかろうじてユウタが確認できた。
用事をすませた二人が一階へ降りると、米倉がやってきた。
「坊ちゃま、こちらをお持ちください。」
ミツルに、紙の袋を渡す。
「奥様からです。」
ミツルの眉が上がった。そして、口を開けかけた時、洋間からミツルの母親が出てきた。若作りしているにしても、ミツルの父親よりかなり若い。ブランド物のスーツを上品に着こなしている。ミツルは、何も言わずに上り框へ向かった。その背中に母親が声をかけた。
「あなた、ちゃんとした友達も作れるのね。」
到底、我が子に話しかける口調ではなかった。
「あ?」
上り框に立ったミツルが、ゆっくりと振り向く。相変わらずの口調で母親が言う。
「それなのに、ろくでもない友達としか付き合わなくて。」
ミツルは、うっとうしそうに三和土の方を向くと、靴を履きだした。ユウタも急いで靴に足を突っ込む。
「私への当てつけみたいに悪いことばっかりしてたわよね。」
母親は、腰に手をあてて言葉を飛ばす。
「後妻の私が気に入らなかったんでしょ?高校生にもなって、やることがガキだったわよねぇ。」
「ああ?」
ミツルが、振り向いた。その顔は怒りに満ちている。土足のまま、ホールに足をかける。
「あ、あの!僕、ガンなんです!」
ユウタの声が、ホールに響き渡った。ミツルの怒りがサッと消え、ユウタを振り返る。母親も面食らったように、ユウタを見つめた。
「僕、家族がいないので、最期は一人で迎えるつもりだったんです。でも、本田くんが、僕と暮らしてくれるって言ってくれて。僕、本田くんにとても感謝しているんです!」
ユウタは、力強く話した。
「あら…そうなの…。」
母親は、ミツルを見た。ミツルと目が合ったが、ミツルはすぐに目を逸らすと、
「いくぞ、ユウタ。」
と、玄関の戸に手をかけた。同時に、洋間の扉が開いた。そして、現れた父親が、低い声で言った。
「困った事があったら、連絡しなさい。」
ミツルは、振り向きもせず、一気に戸を開け、出ていこうとした。
「本田くん!」
とっさにユウタがミツルのシャツを引っ張った。ミツルは、そのまま仁王立ちになった。
「お前の友達のためだ。」
父親の言葉に、ミツルの体が微かに揺れた。フウッと息を吐き出すと、
「わかったよ。」
とだけ言い、玄関を飛び出した。
「お、お邪魔しました!」
ユウタは、深々と頭を下げて、慌ててミツルの後を追った。
ミツルは、竜巻のように石畳を通り抜け、門を出ると、大股でツカツカと歩き出し、生まれた家を後にする。
「待ってよ!」
ユウタが、ミツルを追いかける。ユウタの声に、ミツルは反射的に足を止め、振り返った。
「歩くの速いよ。待ってよ。」
ユウタは、やっとミツルに追いついた。
「あ…悪かったな。」
我に返ったようなミツルの顔。
「…大丈夫か?」
「うん。」
ユウタは、息を整えて歩き出した。その隣にミツルが並ぶ。ミツルは、口をひん曲げて笑った。
「ひでえ家族だろ?」
「そんなことないよ。」
「気ぃ使うなよ。あいつら、昔っからああなんだ。自分の事しか考えてねぇんだよ。」
「…お父さん、僕の事、友達って言ってくれたよ?心配してくれた。」
ミツルは、奥歯を噛み締める。
「まあ…そうだな。」
ユウタは、ミツルを横目で見て、小さくため息をついた。
「あ、お母さん、何くれたの?」
「チッ…もってきちまった。」
ミツルは、ぶら下げている紙バッグを見て、舌打ちをした。
「置いてくりゃよかったな、こんなもん。」
「まーた、そんな事言ってー。」
ユウタは、バッグを奪い取った。中を覗いてみる。
「あ、おいしそう。」
ユウタが、バッグから中身を取り出す。高級そうなサンドイッチだった。
「あ…。」
ミツルの足が止まる。
「どうしたの?」
ユウタの問いに、ミツルは、こめかみを掻きながらボソッと言った。
「俺の…好きだった店のサンドイッチ…。」
ユウタの顔が、一気に明るくなった。
「ほらあ!やっぱり、お母さんだって本田くんの事!」
「ちげえよ、米倉さんが気ぃきかせてくれたんだよ。あいつがこんな事する訳ねぇよ。」
「みんな、うれしかったんだよ。本田くんが帰ってきて。」
「んな訳ねぇよ。」
「そうだよ!」
「違うって。」
「これからは、たまに帰った方がいいよ。」
「やだね。」
「帰りなよ。」
「やだ。」
「ね?」
「…。」
どこかの家から、煮物の匂いが漂ってくる。さっきよりも風が涼しくなっていた。ミツルが、クンクンと鼻を動かして言った。
「夕飯、どうする?」
「これ。サンドイッチ。」
「ふざけんな。」
「じゃあ、僕がもらっちゃおう。」
「どーぞ、どーぞ。」
「んもー!意地っ張り!」
「俺は、何食おうかなーっと。」
「サンドイッチも食べなきゃダメだからね!」
「牛丼、食いてえなぁ。」
「サンドイッチ!」
ひぐらしの声が、どこかで聞こえる。二人は、ゆったりとした歩調で夕食の相談をしながら、暮れかけた住宅街を駅へと向かって行った。
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