第6話

 ミツルは、公園のブランコに座っていた。走り回る子供達や散歩をする人々がいた場所は、しんと静まり返り、昼間の暑さを含んだ風がじっとりとミツルの前髪を撫でて暗闇に消えていく。ミツルは、鬱陶しいとばかりに前髪をかきあげた。目の前に落ちている忘れられたおもちゃのスコップを、ぼんやりと見つめる。会食は終わり、契約は成立した。最高潮に緊張した会食は、和やかなままお開きとなった。相手の社長は、純粋にモデルとしてのミツルを評価してくれていた。

「ホンット、よかったぁ…。」

今、国内外で注目を浴びつつあるファッションブランドだ。ミツルにとっては、またとないチャンスだ。契約を結ぶためならどんな手を使っても…と覚悟を決めていたミツルだったが、それは必要なかったようだ。

「ホント、よかった…。」

再び呟くミツル。あまりの安堵に涙が出そうになる。こんな思いをしてまで仕事を得ようとする自分がいるなんて、思いもしなかった。ミツルは、ゆっくりと公園を見渡した。あの日…ユウタの部屋に行く勇気が無くて、ずっと留まっていた公園だ。彼女に追い出され、ムーを抱いて町をさまよっていた時にユウタを見かけた。驚きと戸惑いですぐに声をかける事ができずに、後をつけた。住んでいる場所がわかっても、訪ねていく勇気が出ずにこのブランコに座って迷っていた。泊めてもらうのに丁度いいと思った訳じゃない。ただ、謝りたかった。ミツルは、目を閉じる。秋の日の午後、教室の窓際の席で一人本を読むユウタ。ミツル達のせいで、ユウタはいつも一人だった。柔らかな黄色がかった光の中に、ユウタのうつむき加減の横顔が薄い影をつくり静かに存在している。教室の喧騒がそこだけ消され、美術館に置かれた一枚の絵のようだった。教室の中の誰も気に止めていないであろう景色を、ミツルはそっと見つめていた。自分がユウタにしたことを、ミツルは卒業してからもずっと後悔してきた。でも、その後悔を胸の奥にしまい込み、ごまかしながら生きてきた。ユウタに出会った今、やっと謝る事ができる。ずっと抱えていた思いを、ユウタに話すことができる。それなのに勇気が出ない。ユウタが、怖かった。ずっといじめていた相手が、怖かった。自分の顔を見て、ユウタがどんな反応をするのか。当然、最悪な展開しか頭に浮かばなかった。門前払いも覚悟していたのに、ユウタは突然現れた自分を泊めてくれた。「病気で心が弱っているから」とユウタは言った。自分の事を憎くてたまらないはずなのに、そんな相手でもいいからいてほしいと思うほど、孤独で不安なのか。初めは、そう思っていた。けれど、一緒に暮らしてみると、ユウタは嘆き悲しんだりなげやりになるでもなく、毎日をしっかり生きているとわかった。そんなユウタと一緒にいる自分は、できる限りユウタの力になれるように努力しようと思った。少しでもユウタの助けになれれば。そうすれば、自分の中の罪悪感も消せるだろう。

「罪悪感、か…。」

ミツルは卑屈に唇を曲げて笑った。罪悪感が消せるから、ユウタと暮らす。それも、多分…ある。だけど、今はそれだけじゃない事にミツルは気づいていた。目の前のアパートを見上げる。ユウタの部屋の閉じたカーテンの隙間から、灯りが洩れている。優しくて暖かい光だ。あの光の中にユウタとムーが待っている。ミツルの瞳に映る光が微かに潤む。瞳に光を湛えたまま、ミツルはゆっくりと立ち上がった。

「帰ろう。」

空になったブランコが、夜の風に吹かれて「キィ」となった。


 初夏の昼下がり。陽射しが強く少し蒸し暑い日だった。ミツルとユウタ、そしてムーは近場のドッグランにいた。アジリティの設備がある場所で練習しようとやって来たのだ。

「よし!行け!」

ユウタの合図で、ムーが走り出す。柔らかい体をバネのように弾ませ、軽快に走る。トンネルも怖がる事なく通り抜け、山もなんなく登っていった。けれど、ポールをすり抜けるのがうまくいかない。

「こっち!こっちだよ!」

ユウタは、一生懸命だ。ポールの間を何度も行ったり来たりする。けれど、ムーの集中力もそろそろ切れてきた。

「少し休もうぜ。」

ミツルがそう言った時だった。フッとユウタの体の力が抜け、ユウタはその場に崩れ落ちた。

「ユウタ!」

ミツルが駆け寄り、ユウタを抱きかかえる。ユウタの意識は無い。

「おい!ユウタ!」

ユウタの顔に生気が無い。ミツルは、息をのんだ。ムーが、そっとユウタの顔を舐める。ユウタの眉が、僅かに動いた。ミツルは、ハッとして顔を上げた。

「救急車呼んでくれ!早く!」

ミツルの悲鳴のような叫び声が、ドッグランに響いた。


 ユウタは、かかりつけの病院に運ばれた。担当医によれば、貧血とのことだった。

「あんまり無理しちゃダメだ、って言われた。」

ベッドに身を起こしたユウタは、肩をすくめた。ミツルは、大きなため息をつく。

「無茶し過ぎなんだよ。仕事だってしてんのに、遅くまで小説書いてるし。」

「うん…でも、やっておかないと。」

ユウタの言葉に、ミツルはドキッとする。ユウタは、いつもこういう事をさらっと言う。

「大丈夫だって。焦んなよ。ちゃんとできるって。」

その度に、ミツルはうろたえている事を悟られない様、力強く励ます。

「うん…できるかな?」

「できるって!そーゆー風にちゃんとなってんだからよ!」

「ちゃんとなってるって…。」

ユウタは、笑って、

「うん。だよね。」

と、嬉しそうに頷いた。そして、

「でも、無理しないように頑張らないとね。」

そう言って、こめかみを人差し指で掻いた。

「頼むぜ。ムーのしつけは、お前が頼りだからな。」

「え?本田くんも教えてよ。」

「俺の言う事、聞かねぇし、アイツ。」

「真剣さが足りないんじゃない?」

「俺、いつも真剣だぜ?」

「うそぉー。」

ユウタが、声をあげて笑った。もうすっかり元気そうだ。

「明日か明後日には、退院できると思うんだ。」

「おう。ムーの事は、心配すんな。」

「うん。」

ユウタは、窓の方を向いた。

「すっかり遅くなっちゃったね。」

「ん?まあな。」

「ごめんね。」

「何言ってんだよ。余計な気ぃつかうなよ。」

「うん…。」

「じゃ、また明日来るからよ。」

ミツルは、ユウタの膝をポンと叩いて立ち上がった。

「いいよ。明後日には退院するんだから。」

「いーから、いーから。また明日な。ゆっくり休めよ。」

ミツルは、陽気に手を降って病室を後にした。

 廊下を歩き出すと、膝が少しガクガクしているのを感じた。病気のユウタと暮らしているなら、こんなことは覚悟しておかなければならないことだ。しかし、ミツルは動揺していた。倒れたユウタは、予想以上に細くて軽かった。いくら読んでも目を開けなかった青白いユウタの顔…。

「ふ…。」

ミツルは立ち止まり、ユウタを抱き起こした両手を見つめた。その両手は震えていた。見つめていると、震えが徐々に大きくなっていく。

「くそッ…。」

ミツルは、右手で左手を押えつけた。それでも、震えは止まらない。

「く…。」

ミツルは、両腕で抱え込んだ体を折り曲げた。震えは少しおさまった。誰もいない病院の廊下の壁に、ぶつかる様に寄りかかり、そのまま尻もちをつくようにストンと座り込んだ。

「はあ…。」

自分の体を抱きしめたまま、不安の詰まったため息を吐き出す。泣きそうな顔で廊下の傷を見つめ、荒い呼吸を繰り返す。薄暗い廊下に、ミツルの呼吸する音だけが漂っていた。そうやってどれくらいいたのだろう。

「しっかりしろよ…情けねぇな。」

ふいに、ミツルは歯をギリッと食い縛り、覆い被さる闇を突き破るように立ち上がった。瞳を閉じ、天を仰ぎ、もう一度深く息を吐く。

「よし。」

力強く頷くと、ムーの待つ病院の警備室へと向かった。その足は、もう震えてはいなかった。

 「すいませーん。犬、預かってもらっちゃって。」

ミツルが警備室に顔を出すと、ムーが飛び付いてきた。寂しかったのだろう。ピョンピョン跳ねて、抱っこをせがむ。

「よしよし。待たせたな。」

ムーを抱き上げ、優しく頭を撫でるミツル。

「ユウタ、元気になったぞ。すぐに帰ってくるから、心配すんなよ。」

ムーは、ミツルの顔をペロッと舐め、「ワン!」と可愛く鳴いた。


 ユウタは、ミツルが去ったドアを見つめていた。ムーの特訓なんてやらなければ、こんなことにはならなかっただろう。つまり、ミツルがやって来なければ、何事もない静かな毎日を過ごしていたということだ。ガンの告知を受けた時、自分でも驚くほど冷静だった。「結局、本は出せなかったな。」とぼんやり考えたくらいで、後はこれから起こる体の変化が気になるくらいだった。病気の事を話しておかなければならないのは、勤め先の上司だけだったし、自分が死ぬ事で影響を与える人もいない。つまりは、この世に未練は無いということだ。だから、一人静かに暮らしている事ができた。

「ふふッ。」

ユウタは、さっきのミツルとのやりとりを思い出していた。思い出し笑いなんて、もうずっとしていなかった。ミツルとのやりとりはくだらない事なのに、後から思い出すとものすごく楽しい出来事だったと感じる。ユウタは、窓へ目を向けた。外は暗い。ミツルとムーは、もう家に着いただろうか。

「明日、帰りたいな…。」

ユウタは、掠れた声で呟いた。

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