第5話

 「どんな仕事でもちゃんとやりますから!俺に仕事させてください!」

ミツルは、自分が所属するモデル事務所の社長の机に手をついた。

「お願いします!」

「どしたの?ミッちゃん。急にやる気になっちゃって。」

社長が、目を丸くして尋ねる。

「あたし、知ってるぅ。エレナと別れて追い出されちゃったのよねぇ、ミツル。」

ソファに腰掛け髪をといていたモデル仲間が、ニヤニヤ笑いながら口をはさんできた。

「うっせえな。」

モデルの女は、髪をかきあげ、

「お金無いなら、ウチおいでよぉ。あたし、面倒見てあげるからぁ。」

ソファから身を乗り出して誘ってくる。今までのミツルなら、すぐにホイホイついていってしまった。けれど、

「もう、同居人がいるんだよ。」

ミツルは、キッパリと拒否した。モデルは、フフンと笑うと、

「ワンコでしょ。ポメじゃないから、いらなーいってやつぅ。」

と再びソファに腰をおろした。ミツルは、モデルを睨みつけた。社長が、人差指でトントンと机を叩いた。

「あれ、まだ有効だけど?この前、断ったお仕事。」

「え?」

「なんか、どうしてもミッちゃんがいいらしくて、またオファーされたのよ。まぁ、文句のつけようのないお仕事よねぇ。断る方の気がしれないって感じ。でも…ねぇ…。」

思案顔の社長に、モデルが食いついた。

「何?何の仕事?」

「うっせえって。」

ミツルは、またモデルを睨みつける。それから、社長の方を向くと言った。

「考えさせてください。」

社長は、再び目を丸くした。

「本当にやる気になったの?だったら、安い仕事でよければあるから、そっちにしたら?」

「いや…。」

「お金が無いなら、貸しといてあげるわよ?」

「大丈夫です。」

ミツルは、口を真一文字に結んだ。十代のミツルをモデルとしてスカウトし、ずっと面倒を見てきた社長が初めて見る、ミツルの本気の顔だった。社長は、頬に手をあててため息をついた。

「よっぽど大事なのね、そのワンコ。」


 ミツルが部屋に帰ると、ユウタはパソコンデスクに向かっていた。

「お、今日は仕事休みだったな。」

「うん。本屋の方はね。あ、コーヒー飲む?」

「おう。」

ユウタは立ち上り、キッチンへ向かう。ユウタの足元で寝ていたムーが、面倒臭そうに起き上がり、ノソノソとミツルの元へやってきた。

「お前なぁ、ユウタが帰ってきた時とテンション違いすぎるだろ。」

ミツルは、苦笑いでムーを抱き上げる。

「本屋の方は、って、他に何かやってんのか?」

「ううん、そういう訳じゃないんだけど。ミルクと砂糖は?」

「いや、いらねぇ。」

ミツルはムーを抱いたまま、ソファに腰掛けた。二人分のコーヒーが入ったカップを持って、ユウタもソファに腰掛ける。

「はい。さっき淹れたばっかりだから。」

「おう。サンキュー。」

ミツルは、ムーを自分とユウタの間に座らせた。ムーはコーヒーには興味が無いらしく、すぐに丸くなって目を閉じてしまった。

「なぁ、他にも何かやってんのか?」

ミツルの追及に、ユウタは恥ずかしそうに頭を掻いた。

「うん…僕…小説書いてるんだ。」

「へえ!すげえじゃん!小説家かよ!」

ミツルは、目を見張った。ユウタは、慌てて首を横に振る。

「違うよ、そんなんじゃないんだよ。一回、賞をもらっただけで、まだ本も出したことないんだから。」

「只今執筆中、って訳か!」

興奮気味のミツルを前に、ユウタは気まずそうにうなじに手をあてた。

「本になる予定は、無いんだけど、ね。」

「そうなのか?」

「うん。でも、ひとつだけは書き上げたいと思ってるんだ。」

「ふーん…そうか。」

ミツルは静かに微笑みながらコーヒーカップに口をつけるユウタを見つめていたが、ふと思いついた事を口にした。

「…なぁ、コーヒーって、飲んで大丈夫なのか?」

「え?」

ユウタに聞き返され、まずいことを聞いたかな、と顔をひきつらせるミツル。

「いや、あんまりよくないんじゃないかって…。」

ユウタは、ニッコリ笑った。

「僕もしばらく飲んでなかったんだけど、久しぶりに淹れてみたんだ。なんか、飲みたくなって。」

「…そうか。」

「うん。これからは、自分の食べたい物を食べようと思って。」

「そうか。そりゃ、いいな。」

そう言ってミツルは、コーヒーをグイッと飲んだ。プハーッと息を吐き、

「うめぇ。」

と、カップを見つめる。ユウタもひと口コーヒーをすすり、

「うん。おいしい。」

と、ミツルに微笑みかけた。ミツルは明るい声で言った。

「よかったな。」

ユウタは、静かに頷いた。少し開けた窓から公園で遊ぶ子供達の声が聞こえてくる。風が優しく流れ込む窓辺に、ムーがトコトコと移動してくるんと丸くなった。

「ムーもすっかりオシッコ上手になったよね。」

「信じらんねぇよ。お前の教え方がいいんだな。」

「本田くん、すぐ諦めちゃうんだもん。」

「あー…ムーの教育は、お前に任せたからよ。」

「えー。何それー。」

「いや、世話はするよ。メシとか散歩とかはよ。でも、俺は何かを教えるとか向いてねぇのよ。」

「なんか…開き直ってるね…。」

「諦めてる。」

「んもー。」

ユウタは、ソファによりかかった。ミツルは、へへッと笑ってコーヒーを飲み干し、立ち上がった。

「あ、本田くん。」

ユウタが、ミツルを呼び止めた。

「ん?」

再びソファに腰をおろすミツル。ユウタは、コホンと咳払いし、遠慮がちに切り出した。

「あのさ…気を悪くしないでほしいんだけどさ…。」

言葉を切り、ミツルを上目使いで見てから、また続けた。

「その…お金はどうなのかな…と思って。もし無い時は言ってくれれば、僕が…。」

「悪いな。」

ミツルは、優しくユウタの言葉を遮った。

「メシ代とか家賃とか、ちゃんと払うからよ。」

「あ、ううん!そういう意味で言ったんじゃなくて…。」

慌てて否定するユウタに、

「わかってるよ。」

と、笑いかけるミツル。

「まぁ、金はそんなに持ってねぇのは事実だけど、今度仕事が入るから。その後も仕事とってもらって、ガンガン働くからよ。心配すんなよ、な。」

「心配はしてない、けど…。」

「ちゃんと仕事してるから。大丈夫だからな。」

「うん。でも、ホント、モデルなんてすごいよね。カッコいいなぁ。」

「…そうでもねぇよ。」

ミツルは、立ち上がり、キッチンへ向かった。その顔は、決意に満ち、不安に満ちた表情をしていた。


 「じゃ、いいのね?オーケーの返事しちゃって。」

社長は、思案顔で言った。

「前にも言ったけど、あの社長、モデルの子に手を出す事があるって…。」

「はい。」

キッパリと答えるミツルに、社長はため息をつく。

「まぁ、単純にブランドのコンセプトにミッちゃんが合うから使いたい、って事だと思うのよ?ミッちゃん、ああいう人のタイプじゃないと思うし…。」

頬に手をあてて、心配そうに自分の顔を見つめる社長に、

「大丈夫ですから。」

と、ミツルは言った。社長が、身を乗り出して念を押す。

「いいの?」

「はい。お願いします。」

社長は椅子の背に頭をつけ、諦めた様子で言った。

「わかった。連絡しとく。」

「ありがとうございます。」

ミツルは頭を下げた。十代の頃からミツルの事を何かと気にかけてくれた人だ。ミツルのモデルとしての素質を見抜き、色々と世話をしてくれた。なのに、ミツルはそれに応えることもせず、ただ甘えていただけだった。気にいらない仕事は断るし、現場に行っても嫌な事があると帰ってしまった。二日酔いで適当に仕事をした事もある。それでも、社長はミツルを事務所から追い出さなかった。ある時、ミツルは社長に尋ねた事があった。

「なんで、俺の事追い出さねぇんだよ。」

社長は、笑いながら答えた。

「ミッちゃん、才能あるから。それに、かわいいし。」

ミツルは、そう言ってくれた社長に「気持ちわりぃな。」と、暴言を吐いた記憶がある。ミツルは、やっと事務所にいられる事、仕事がある事のありがたみに気がついた。社長への感謝の気持ちがようやくわいてきた。思えば、仕事もろくにせず金も無いミツルが生活して来られたのも、今まで付き合ってきた女の子達のおかげと言っても過言ではない。ミツルが優しい顔をすれば、モデルの女の子や仕事関係の女の子が部屋にあげてくれた。仕事をしないで遊んでいても、小遣いをせびっても、何でも言うことを聞いてくれた。それは、こっちも優しくしてやっているんだからお互い様だ、と思っていた。でも、お互い様なんかじゃなかった。女の子達には、愛情があった。付き合っている間、その間だけでも彼女たちはミツルに愛情をもって接してくれていたのだ。しかし、ミツルの方に愛情があった事はほとんど無かった。優しいふりをしていただけだ。なのに、みんなミツルに優しかった。そんな事にも気付かず、適当に生きてきた自分が情けなくなる。ミツルは拳を握りしめた。そして、再び頭を下げた。

「よろしくお願いします。」

社長は少し驚いたようで、微かに眉をあげた。また、ミツルの方に身を乗り出し、

「いざとなったら、逃げちゃうのよ。責任は私がとるから。」

と、いたずらっ子のように舌を出してウインクした。


 「本田君、見てよ!」

テレビを見ていたユウタが、声をあげた。

「んー?」

キッチンで洗い物をしていたミツルは、テレビへ視線を向けた。犬のアジリティ競技の映像だった。並んだポールを左右に通り抜け、トンネルをくぐり、坂を一気に駆け登る犬。あっという間にゴールして、飼い主に抱きかかえられ、得意そうに舌を出している。

「すごいねぇ。犬も人も気持ちいいだろうなぁ。」

憧れの眼差しで画面を見つめるユウタ。まるで、ヒーローに憧れる子供だ。ミツルは、プッと吹き出した。

「ムーだって、できんじゃね?」

ユウタが瞳を輝かせて、ミツルを振り返る。

「できるかな?」

「おう。お前、教えんのうまいし。」

「えー…。」

口に手をあててムーを見つめるユウタ。ムーは、仰向けで足を広げ、とても女の子とは思えない格好で豪快に爆睡している。ミツルは、ニヤッと笑って言った。

「やってみっか?」

ユウタの顔がパアッと明るくなった。

「うん!やりたい!」

「よっしゃあ!」

ミツルが、ふきんを投げ上げてパシッとキャッチする。ユウタは、ムーを抱き上げ、

「がんばろうね。」

と、頬ずりした。当のムーは、訳が判らず眠そうな顔でユウタに抱かれ、これまた女の子らしからぬ大きな口を開けてアクビをした。


 そして、特訓が始まった。ムーを囲んで作戦会議を開く。

「ムーが、俺らをご主人様と思わねぇと、言うこと聞かねぇからな。」

「本田君の事なんて、食べ物くれる人としか思ってないんじゃない?」

「…それは…あるな。多分、俺よりお前の方が、ムーは上だと思ってんぞ。」

「僕も、そう思う。」

「くっそー。最初に飼ってたの、俺だぞ。」

「本田君、ムーに何か教えた事なんて無いでしょ?」

「はいはい…ありませんよ…。」

そんな二人に挟まれていたムーは、ついに飽きたらしく、ミツルの顔めがけて華麗なるジャンピングアタックを繰り出した。

「痛えーッ!」

「アハハッ!やっぱり、ご主人様とは思ってないよ!」

「くーッ!なんだよぉ、ムー。」

ムーは、遊びたくてミツルに飛びかかる。

「こら!遊んでる場合じゃねぇんだよ!」

押さえ込もうとするミツルの手をすり抜け、ピョンピョンとミツルに飛びかかり続けるムー。

「おいー!こらー!」

ユウタが、パンッ!と手を叩いた。ミツルとムーが、ハッ!とユウタの方を向く。ユウタは、キリッとした顔をムーに近づけた。

「はい、ムー。こっち向いて。」

そう言って、ムーを自分の方に向けてお座りさせた。

「待て。」

ムーの目の前に手のひらを広げる。ムーは、じっと座っている。ユウタは、ニッコリ笑って両手を広げた。

「よし!おいで!」

弾かれたようにムーがその中に飛び込む。

「よーし!いい子だね!」

ユウタは、ムーを抱きしめた。

「うそだろ…すげぇ…。」

ミツルは、驚きと感動で固まっている。そんなミツルに笑ってみせて、ユウタはムーにお座りをさせた。

「じゃ、もう一回ね。ムー、待て。」

ユウタは、ゆっくりムーから遠ざかる。ムーは、きちんとお座りをしてユウタを見つめている。

「待て…待てだよ…。」

壁ギリギリまでさがったところで、ユウタは、両手を広げた。

「よし!おいで!」

待ってましたとばかりに、ムーがユウタに向かってダッシュする。

「よし!いい子、いい子!」

「すげぇ!完璧じゃん!」

興奮して、ガッツポーズをするミツル。

「ムーは賢いよ。なんでもすぐ覚えちゃう。」

ユウタも、嬉しそうだ。その後、ムーはあっさりお手も覚えた。

「ムーは、本当にお利口だよね。」

特訓を終えて満足感に浸りながら、ユウタはコーヒーに口をつけた。隣でミツルもコーヒーをすする。

「お前の教え方も上手いんだよ。」

「えー、そうかなぁ。」

まんざらでもない顔で、ユウタが鼻の下をこする。ムーは、ご褒美のおやつを夢中でかじっている。ミツルは、ヘヘッと笑って立ち上がった。

「さーてと!行くかな。」

「大変だね、今から仕事なんて。」

ユウタも、立ち上がる。

「仕事っつーか、メシ食うだけだけどな。」

ミツルはぶっきらぼうに言い、玄関へ向かう。ユウタとムーも後に続く。

「そんな訳で、今夜のメシはいらねぇから。」

「うん。あー、どんなおいしいものあるのかなぁ?」

ユウタが、無邪気に言う。ミツルは、ブーツの紐を結びながら、

「さあな。俺も会食なんてしたことねぇし。」

と、答える。ユウタは、無邪気に続ける。

「でも、仕事先の偉い人とじゃ、緊張して味わからなそう。」

ハハッと笑って、ミツルは腰を上げた。その笑い声は、いつもより力が無かった。

「じゃあ、行ってくる。」

「うん。頑張ってね。」

「おう。」

ミツルは、ゆっくりとドアを開ける。

「行ってらっしゃい!」

ユウタの明るい声を背に受けて、ミツルはドアを閉める手に力を込めた。ドアが閉まると、ミツルは空を見上げて呟いた。

「仕方ねぇよな…。」

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