第4話
ミツルは、寝つけなかった。二日目もソファで寝る事が苦痛で、という訳じゃない。ユウタのあの告白のせいでだ。若年性の胃ガンで手術ができない状態。両親も死んで兄弟もいないから、一人で最後を迎える準備をしてある。自分では気持ちの整理もついているので、このまま暮らせるところまで暮らしていくつもりだ。という事を淡々と話していた。
「なんだよ…。」
暗い部屋でミツルは呟き、廊下へのドアを見つめた。あのドアの向こうの部屋でユウタは眠っている。衝撃を受け何も言えないでいるミツルとは対照的に、ユウタはずっと穏やかな顔で自分の病気の事を話していた。ミツルは、あの頃のユウタを思い出していた。いつも自分の席で一人静かに本を読んでいた高校生のユウタを。やっぱり色白で細身だった。毎日仲間とイジメていたのに、言葉を交わした事はなかった。目を合わせた事もなかったかもしれない。ユウタは、仲間がからかっても静かにそれを聞いていた。ちょっと小突いたくらいじゃびくともしなかった。それは、精神的に、という意味で。大抵は泣いたり媚びるなりするだろうに、ミツルにはユウタが凛としているようにみえた。
「はぁ…。」
大きなため息が、部屋に響いた。ソファの下で寝ていたムーが、ハッと顔をあげた。
「はぁ…。」
もう一度ため息をつき、寝返りをうつとムーの頭を撫でた。暗闇をボンヤリと見つめる。
「せっかくよぉ…。」
せっかく…ユウタを町で見かけて、ここまで来る事ができたのに…。
「くそッ!」
ミツルは、目を硬く閉じて毛布を頭まで引っ張りあげた。ムーは、暫くそんなミツルを見上げていたが、やがてソファに飛び乗るとミツルの足元でクルンと丸くなり、小さな寝息をたて始めた。
「本田くん、今日も泊まる?」
昨夜、あんな爆弾発言をしておきながら、何事もなかったかのようにパンにバターを塗りながら、ユウタが尋ねてきた。
「泊まるなら、布団ださないと。」
ミツルは、目覚めてからずっとユウタの顔が見られずにいた。見る気もないのに時計を見上げ、
「んー?やっぱ…出てくよ。」
と、答えてパンを飲み込んだ。「ゴクリ」と、やけに大きな音をたてて、パンはミツルの胃袋の中へ落ちた。
「そっか。」
ユウタは微笑み、ミツルのあぐらの中にいるムーを見た。
「ムーとも、お別れだね。」
お別れ、という言葉に咳払いをし、ミツルは、
「…おう。」
と答えた。そして、パンを口に押し込み、牛乳で流し込むと、せかせかと立ち上がった。
「じゃあ、俺、行くわ。」
ムーを抱き上げ、バッグを肩にかける。
「うん。」
ユウタも立ち上がり、ミツルの後に続いて玄関へ向かう。靴を履き、ミツルはユウタと向かい合った。
「その…世話になった、な。」
やっと、ユウタの顔を見ることができた。
「元気…でな。」
「ありがとう。本田くんも、元気でね。」
ムーは、ミツルの腕の中でキョトンとユウタを見ている。ユウタは、そっとムーの頭を撫でた。
「ちゃんと、本田くんの言うこと聞くんだよ。」
ミツルは、軽く咳払いをし、
「じゃあな。」
と、後ずさった。ユウタに背を向け、ドアを開ける。体をドアの外に出すと、一瞬迷ったが振り向かず、後ろ手でドアノブを離した。ゆっくりとドアが閉まり、重い音をたてた。その場に立ったまま、ミツルはフウッと息を吐き出した。ムーが不思議そうに見上げている。これで本当にサヨナラだ。もう、二度と会うことはない。残りわずかな人生を、俺なんかと過ごすなんて最悪だろ。あいつは、一人で最後を迎えると言っていた。だから、いいんだ。ミツルは小刻みに頷き、ムーをギュッと抱きしめるとユウタの家を後にした。
夕飯の買い物客で賑わう商店街。仕事帰りのユウタは、肉屋の前で立ち止まった。揚げたてのコロッケの匂いが、ユウタの足を止めたのだ。ショーケースに並ぶコロッケを見て、
「おいしそう…。」
と、呟いていた。最近、揚げ物にはいまいち興味が湧かないユウタだったが、今日は違っていた。ミツルのせいだ。ほんの数回、一緒に食事をしただけだったのに、何でも美味しそうに大きな口に放り込むミツルの幸せそうな姿が、ユウタの脳裏に焼き付いていた。大きな声で、おいしい!と叫んでいたっけ。そして、ミツルのおこぼれを狙うムー。思わずユウタの頬がゆるむ。が、すぐにその笑みは消えた。彼らは今朝、出ていったのだ。もう二度と一緒に食事をすることはない。今度は、自分の病気の事を話した時のミツルの顔が浮かぶ。僕なんかの家に来なければ、余計な事を知らずにすんだのに。ユウタは、うっすら苦笑いを浮かべた。
「お兄さん、何か取ろうか?」
肉屋のおかみさんが、ニコニコと声をかけてきた。
「野菜コロッケが、今揚がったとこだけど。」
ユウタは、おかみさんとコロッケを交互に見て微笑んだ。端正な横顔は、沈んでいく夕日に照らされ、橙色の薄い影に包まれた。
アパートのエレベーターを降り、自分の部屋へと歩き出したユウタは、ふと足を止めた。部屋の前に誰かいる。子犬を抱えて、ドアの前にしゃがみこんでいる。その子犬がユウタに気づき、ジタバタと暴れだした。
「ワン!」
嬉しそうな鳴き声には、聞き覚えがあった。ムーを抱いたミツルが、ユウタに気づいて立ちあがる。
「よぉ。」
「ど、どうしたの?」
ユウタは、早足で駆け寄った。
「いや…。」
ミツルは、口ごもり頭を掻いた。
「その…やっぱ、行くとこ無くてよ。また、泊めてくんねぇ?」
気まずそうな顔のミツルを、ユウタは見つめた。ミツルは、ばつが悪くて目を逸らす。ユウタは、微笑むと、
「うん。」
と答えた。ミツルは、ホッとしてユウタに顔を向けると、
「サンキュ。」
と笑った。
「泊めてくれる人、いなかったの?」
ユウタの問いに、ミツルは、
「…まぁ、な…。」
と、曖昧な返事をした。
ユウタの部屋を後にしたミツルは、駅に向かったものの、どうしても電車に乗る気になれなかった。駅前のベンチに座り、何本も電車を見送った。このままこの町を離れたら、もう二度とユウタに会えなくなる。ずっとそればかり考えていた。もし、ミツルが戻ったとしたら…多分、ユウタは仕方ないと思いつつも、また受け入れてくれるだろう。ミツルは、迷っていた。ユウタに迷惑がられても、戻るべきか。戻らなければ、ユウタは今まで通り一人で生きていくのだろう。あの余計なものは何も無い白い部屋で。でも、俺が戻ったところでどうなる?ユウタは、俺になんか会いたくなかったろうし、俺が部屋にいるなんて不快でしかないだろう。でも…。さっきからずっと、この考えの繰り返しだ。ミツルは、ため息をつくと目を閉じた。ムーを抱くユウタの顔が浮かんだ。その時、ムーが「ワン!」と鳴いた。ミツルは、ハッと目を開いた。足元でムーがミツルを見上げている。
「ムー…。」
ミツルは、ムーを抱き上げ勢いよく立ち上がった。そして、ムーに顔を近づけて言った。
「だよな。迷ってんなら、行っちまおう!」
…そして、ミツルは再びユウタの部屋を訪れたのだった。ミツルは、なんともいえない気恥ずかしさを払拭するため、
「あ、そうだ。これ。」
と、持っていた黄色いビニール袋をユウタの目の前にぶら下げた。
「コロッケだ。今夜の飯にと思ってよ。」
一体いくつ買ってきたのか、黄色いビニール袋はズッシリと重そうだ。ユウタに断られたら、どうするつもりだったのか。
「すごいね…。」
ユウタが、半笑いで言った。
「そうか?」
「うん。だって、ほら…。」
ユウタは、鞄から黄色いビニール袋を取り出した。ミツルは、目を見開いた。
「マジかよ。」
「うん、マジ。」
二人は、それぞれのビニール袋を見つめた。そして、お互いの顔を見た。
「ふッ…。」
ユウタが、吹き出した。
「ハハッ。」
ミツルも、笑い声をあげる。ユウタが、笑いながら言う。
「食べきれるかな?」
「余裕だよ。俺がいるんだから。」
「ワン!」
楽しそうな二人に、ムーも割り込んできた。
「あはッ、ムーもいるって。」
「マジか。百人力じゃん。」
二人の笑い声が、アパートの廊下に響く。また、今夜ここで二人と一匹で過ごすことができるのだ。
「ん!うまい!このコロッケ!」
大皿に山のように積み上げたコロッケを前に、ミツルは声をあげた。その声にムーが反応し、クンクンとミツルの手元の匂いを嗅ぐが、フン!と鼻を鳴らすとミツルのあぐらの中で丸まってしまった。
「これから、コロッケはこの肉屋のだな。」
ミツルは、コロッケを二口で平らげ、次のコロッケに手を伸ばす。伸ばしてから、ミツルは「これから」と言ったことに気づいて、ユウタを見た。ユウタは、四分の一に分けたコロッケを箸でつまみ、
「うん。」
と、頷いた。ミツルは、ホッとしてコロッケを口に運ぶ。これから…どれくらいここにいられるのか。きっと、ユウタは、ミツルが新しい住み家を見つけるまで置いてくれるだろう。俺は…ユウタに酷い事をした人間なのに…。ミツルは、箸を置いた。
「お前…よく俺一人をこの部屋に置いていったな。」
「え?」
急に真面目な顔で急な事を言い出すミツルを、ユウタは少し驚いて見つめた。
「俺がこの部屋荒らしていなくなる、とか考えなかったのかよ。」
「えー、まさかぁ。」
冗談でしょ、と言わんばかりにユウタは笑う。ミツルは、真顔だ。
「まさかぁ、じゃねぇよ。」
「そんな事、頭に浮かびもしなかったよ。」
ユウタは、肩をすくめてキャベツに手を伸ばした。
「だって…俺だぞ?」
吐き捨てるようにミツルが言うと、ユウタは穏やかな笑みを浮かべ、それでもキッパリと言った。
「でも、思い浮かばなかったんだ。」
「…なんでだよ…何で俺なんか泊めてくれんだよ?」
あんなに図々しく上がり込んでおいて何を言ってるんだ?とばかりにユウタに見つめられ、ミツルは頭を掻いてうつむいた。ユウタは、そんなミツルのつむじをジッと見ていたが、小さく息を吐いて言った。
「本当は泊めたくなかったけど。」
ミツルは、頭を下げたままだ。ユウタは、うっすらと冷たい笑みを浮かべた。でも、それはミツルに対してではない。
「病気、だからかな。」
ミツルは、ハッと顔をあげた。ユウタは、ミツルに微笑んだ。もう、冷たい笑みではなかった。
「弱ってるのかな、心も。」
ミツルは、何も返事ができずに弱々しく咳払いをした。乱暴に箸を掴むと、コロッケに突き刺し、
「なるべく早く住むとこ見つけるからよ。」
と、明るく言った。ユウタもコロッケを取りながら、ミツルに訊ねた。
「僕の家にまで来るってことは、実家もダメなんだよね?」
「もう何年も連絡してねぇよ。」
ミツルは、ぶっきらぼうに答えた。
「そうなんだ…。」
あんなにお坊っちゃまだったのに家に帰らないなんて、家族と何かあったのだろうか。けれど、ユウタはそれ以上聞くのはやめておいた。
「あてにできるヤツなんて、俺にはいねぇんだよ。」
「…ふぅん…。」
「で、フラフラしてたらお前見かけてよ。後つけて…そこの公園で、ずっと迷ってた。」
「迷ってた?僕の家に来るのに?」
「まぁな。」
ミツルは、コロッケを口に押し込む。
「本田くん、僕の家に来るのに迷ってたんだ…。とてもそうは思えなかったけど…。」
ミツルは、ゴクッとコロッケを飲み込んだ。
「だよな…そう思うよな…。」
ミツルは、顔を強張らせて言った。
「ホント、俺ってヤツはさ…。あのさ、ユウタ。俺さ、その…。」
「いいよ、ずっといても。」
「…え?」
思いがけないユウタの言葉に、ミツルは耳を疑った。ユウタは、笑みを浮かべている。
「僕、本田くん泊めてよかったって思ってるんだ。」
「えッ?」
「だってさ、本田くんと食事すると、なんか食欲がわくんだよね。」
「え?そうなのか?」
「うん。つられて食べちゃう。元気になれそうだよ。」
「マジか?」
「うん、マジ。」
そう言って、ユウタがコロッケをパクリと食べた。ミツルが、顔を輝かせる。
「俺…ここにいていいのか?」
「うん。」
頷いたユウタは、尻を滑らせてムーの所へ移動した。
「それに、犬と暮らせるんでしょ?」
ムーは、ミツルのジーパンの縫い目を無心で噛んでいる。ユウタは、フフッと笑ってムーを撫でた。
「お手とか、できるかなぁ。」
「できんだろ、教えりゃあ。何でもできるようになるさ。」
「楽しみだなぁ。」
嬉しそうにムーに顔を近づけるユウタ。つられてミツルも笑顔になる。ユウタは、ムーの頭を優しく撫でていたが、ふいに口を開いた。
「でも、僕が死ぬ前には出ていった方がいいよ。」
ミツルの笑顔が、固まった。ユウタは、ムーに顔を向けたまま、続ける。
「面倒くさい事になっちゃうから。」
声の抑揚も変えずムーに笑顔を向けたまま、言ってのけるユウタ。ミツルは、固まったままだ。何も言い返せない。そんなミツルに、ユウタはようやく気づき、
「ごめん、変な事言っちゃって。」
と、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「でも、そういう事だから。僕の事は、あんまり気にしないでね。」
ユウタは、そう言って頬笑むと、ムーの小さな手を取り、嬉しそうに言った。
「これから、よろしくね。」
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