第2話
ユウタは部屋の窓を開けた。少し身を乗り出して外の景色を見渡す。ユウタのほっそりとした白い横顔が暗闇にぼんやり浮かび上がる。アパートの二階から眺める昔ながらの住宅街は、灯りがポツポツと点在しているが、それもひとつ消えふたつ消え、やがて眠りにつこうとしている。もう春も終わったというのに冷え込む夜が度々ある。アパートのすぐ前にある公園のブランコが、暗闇の中、風に吹かれて「キィ」といった。
「さむ…。」
カーディガンの前をあわせて細い体を包み、首をすくめて窓を閉める。窓ガラスに映った自分の顔をユウタはじっと見つめた。白くて無表情ないつもの顔が黒い空に浮かんでいた。昨日と変わらない顔だ。毎日は静かに過ぎていく。小さなため息をついて、ユウタはノロノロとキッチンへ向かった。キッチンは白で統一され、綺麗に片付いている。対面式のシンクの上には、最近育て始めたハーブの小さなポットが三つ並んでいる。「植物を育てる」というのは、今までのユウタの暮らしには無縁の事だった。が、少し前の仕事帰りに、半額に値下げされた観葉植物をなんとなく買ってしまった。そして、なんとなく世話をしていたら、萎んで丸まりかけた葉がイキイキとし始めた。おかげで、植物は以外と育てやすく、部屋にあると気持ちが和むという事に気づいた。そこで、白いキッチンにも緑を置こうと思いつき、ハーブを置く事にしたのだ。ユウタはハーブに顔を近づけ、三つのハーブを順番に眺めて満足気に微笑んだ。そして、冷蔵庫から牛乳を取り出し、マグカップに半分くらい注いだ。ホットミルクを作るため、マグカップを電子レンジに入れボタンを押す。オレンジ色の光がパッと点く。ブーンという音がキッチンに響き出す。ユウタは身動きせずにレンジを見つめていた。マグカップから湯気がたち始めた時だった。急に玄関のチャイムが鳴った。予期せぬ音にビクッと背すじが伸びるユウタ。キッチンから玄関は見えないのに、玄関の方に目をこらす。
「誰だろ…。」
こんな時間に訪ねてくる人物はユウタには心当たりがなかった。レンジを止め、不安そうに口に手をやり、そろそろと玄関に向かう。そっと玄関に立つと再びチャイムが鳴り、ユウタは再びビクッとなる。
「えー…誰?」
か細い声で呟くと玄関へ向かい、音をたてないようにドアスコープを覗く。スッ、というユウタが息を吸い込む音。体を固まらせたまま、ドアスコープから後ずさる。
「なんで…?」
驚きのあまりさっきより大きな声で呟いてしまい、慌てて口を押さえる。またチャイムが鳴った。顔を歪め、ユウタはドアに背を向ける。
「なんでだよぉ…?」
背中を丸め、唇を指でギュッとつまんだまま、固まっていると、ついに相手はドアをノックし始めた。結構な力だ。夜も更けたアパートにノックの音が響く。慌てたユウタは、とっさにドアを開けてしまった。
「よぉ、元気かぁ?」
一人の男が立っていた。知っている顔だ。でも、もう何年も見ていない顔だ。
「久しぶりだなぁ、おい。」
長身でガッシリとしつつスタイルがいい男。陽気にユウタの肩に手を置いてきた。この時点で、すでに玄関に侵入される。
「今日、街でお前の事見かけてよ。」
耳辺りまである緩いウェーブの灰色がかった金髪をモシャッとかき、
「懐かしー!と思ってよ。」
と、人懐っこい笑顔を見せる。ユウタは、黙ったまま少し怯えた目で男を見ていた。
「なんだよぉ、どしたぁ?」
男は笑顔でユウタの肩を揺さぶった。その衝撃はユウタの体に高校生だった頃の記憶を呼び起こした。
この男、本田ミツルは、ユウタの高校時代の同級生だ。大病院の院長の息子でお洒落でイケメン、成績はパッとしなかったが、そんな事はお構い無し。陽気なお調子者でクラスの中心人物だった。一方のユウタは小説家志望の文学少年で、いつも本を読んでいる目立たない生徒だった。ミツルはなぜかそんなユウタに目をつけ、グループのメンバーにユウタをイジメるようにけしかけた。しかし、二年生になりクラスが別々になると、イジメはパッタリと無くなった。新しいクラスに別の標的を見つけたのか、単に飽きたのか。その後のユウタには、平穏な高校生活が訪れたのだった。けれど、ユウタにとってあの一年間は本当に記憶から消したいと思うほどの日々だった。
「おー、キレイにしてんなぁ。」
ちょっとの間、ユウタが過去の痛みを思い出している隙に、ミツルはぬけぬけと家に上がり込んでしまっていた。
「え?ちょっと!」
慌てて追いかけるユウタ。ミツルはお構いなしに部屋に入っていく。
「結構、広いな。」
嬉しそうに部屋を見渡し、
「しっかし、キレイにしてんなぁ。」
と、ユウタに意味ありげな笑顔を向ける。
「彼女に掃除してもらってんのかぁ?」
ミツルは、ニヤニヤと自分の顎を撫でる。
「ちッ、違うよ!」
思わずキッチリ否定してしまうユウタ。
「なんだ、彼女いねぇの?」
その言い方にユウタは、
「いいでしょ!関係ないじゃん!」
と、珍しく大きな声を出した。そして、すぐにそんな自分に驚いた。もう何年もたっているとはいえ、ミツルにこんな風に接する事ができるなんて。そして、なぜかこんな事を考えた。あの頃、学校でもなく、グループの仲間もいない所で二人きりになったとしたら、自分はミツルに対してどんな風に接したんだろう?いや…やっぱり同じか…なんでこんな事考えたんだろう?戸惑い顔で考え込むユウタを、ミツルが黙って見つめていた。ユウタはハッと我に返り、
「な、何?」
と、恐る恐る聞いた。
「なんか…変わんねぇな、お前。」
ミツルは嬉しそうに言った。更に、
「うん、変わってねぇよ。あの頃のまんまだ!」
と、ユウタを指差して笑った。ユウタは、ムッとして、
「本田くんだって変わってないよ。」
と、言い返す。本当にそのふてぶてしさは昔のままだ。ユウタは、ブスッとした顔でミツルを見据えた。ミツルは、まだ笑っている。その時、ミツルの肩にかけた大きなバッグがモゴモゴと動いた。
「おっと、忘れてた。」
ミツルは、床へバッグを置いた。バッグのファスナーを開ける。全部開け終わらないうちに、白い毛玉がポン!と飛び出した。
「うわあッ!」
飛び退くユウタ。飛び出したのは、真っ白でフワフワの子犬だった。ブルブルッと体を震わせ、グーンと伸びをすると、黒く輝く真ん丸な瞳でユウタを見上げた。
「い、犬?」
子犬から一歩遠ざかり、ユウタは身構えた。子犬は、フスン!と鼻を鳴らし、床の匂いをクンクン嗅ぎながら歩き始めた。
「え…ちょっとぉ…。」
子犬の動きを目で追いながら頼りない声を出すユウタに、ミツルがニヤリとたずねた。
「犬、キライなのかよ?」
「いや、嫌いじゃないけど…。」
チョロチョロ動き回る小さな生き物には慣れていない。
「こいつ、カノジョと飼ってたんだけどよ。」
ミツルは、クシャッと頭をかいた。
「今朝、別れちまってよ。で、お前は俺の方が好きだから一緒に来たんだよなぁー。」
似合わない甘い声を出して子犬に話しかけると、子犬が振り向いた。首をかしげ、丸い瞳でミツルを見つめる。まるでぬいぐるみだ。文句なしに可愛い。ユウタの戸惑いが少し和らいだ。と、急に子犬が腰を低くした。そして、オシッコをし始めた。
「わあッ!ちょっと待って!」
ユウタはあたふたとティッシュの箱を手に取ると、子犬の元へ走り寄った。驚いた子犬がキャン!と鳴いた。
「あ、ごめんね。ビックリしたね。」
ユウタはご丁寧にも子犬に謝る。ミツルがプッと吹き出した。
「よかったな、畳じゃなくてよ。畳だと大変なんだよー。」
「笑い事じゃないよ!しつけなよ!」
拭き終わったティッシュをごみ箱に捨て、手を洗いにキッチンへ向かいながらユウタはプリプリと怒っている。それでもミツルは、
「悪い、悪い。」
と、どこ吹く風だ。
「んもー!」
ユウタは、大きなため息をついて、濡れた手をタオルで拭いた。
「なぁ、ここって犬オッケーか?」
戻ってきたユウタに、ミツルが尋ねた。ユウタの足が止まる。
「大丈夫、だけど…。」
どういうつもりだろう。犬を預かれとでも言うのか?ユウタの顔が曇る。
「へえー。」
ミツルは、部屋を見渡してから子犬に目を向けた。ユウタは、思い切って聞いてみた。
「まさか、その犬、預かれとか言うんじゃないよね?」
少しドキドキしながら、ユウタはミツルの返事を待った。ミツルは、気まずそうにコホンと咳払いした。
「あのよぉ…。」
と、同時にミツルの腹が鳴った。ミツルは自分の腹を押え、
「あー…ハラ減ったな…。」
と、思い出したように言った。それから、子犬に、優しく話しかけた。
「お前も、ハラ減ったろ?」
「え?夕ご飯まだなの?」
ユウタが、驚いて尋ねた。ミツルは肩をすくめた。
「今日は、なんも食ってねぇや。」
「えー?なんで?」
「だから、今朝カノジョと別れたって言ったろ。」
「あ、うん。」
ミツルは、頭をかいた。
「追ん出されたんだよ。カノジョのマンションから。」
「あー…。」
「んで、泊まるトコさがしてたんだけどよ…。」
ユウタは、目を丸くした。
「あ、朝から?」
ミツルは、頷いて舌打ちした。
「あの女、俺の行きそうなトコ全部に手ェ回して、俺が泊まれないようにしやがってさ。」
「へ、へぇ…。」
ユウタは、それ以上何も言えずにミツルを見つめていた。ゴトン!とユウタの後ろで音がして、ユウタはハッと振り向いた。子犬が観葉植物の鉢を倒している。そして、葉っぱを食いちぎり始めた。
「うわあッ!」
慌てて駆け寄り、鉢を取りあげる。子犬が不満爆発でキャンキャンとユウタを見上げて吠える。
「ダメだよ!これはダメ!」
頭上に鉢を掲げながら、必死で子犬に言い聞かせる。ふと見れば、飼い主のミツルは楽しそうに眺めている。
「ちゃんと掴まえててよ!」
ユウタは、声を荒らげた。
「お、悪い悪い。」
たいして悪いとも思っていない様子で、ミツルは子犬を抱き上げた。
「やったな、こいつぅ。」
笑顔で子犬の鼻をチョンチョンする。
「んもー!そういう時は、怒らないと!」
ユウタは、膨れっ面で鉢を抱えて部屋をウロウロし、この部屋は危険だと判断して廊下に鉢を出した。フゥと安堵の息を吐いてドアにもたれかかる。ミツルはあぐらの中に子犬を置いて、
「ドッグフード、忘れて来ちまったなぁ。」
と、子犬の頭を撫でている。ユウタはもう一度息を吐き、言った。
「その犬、何食べるの?白いご飯ならあるんだけど。」
ミツルは、少し驚いた様子で顔をあげた。そして、
「白飯にカツオ節でいいんじゃねぇ?」
と、嬉しそうに答えた。
「それって、猫のご飯じゃないの?」
「犬だって食うだろ。」
「そうなの?」
「食うよ。」
「ふーん。」
ユウタは、キッチンへ向かった。炊飯器の蓋を開け、子犬のご飯を小さめの皿に盛る。炊飯器の中には、まだご飯が残っている。ユウタは、それをジッと見つめた。ふいに思い切ったように冷蔵庫へ向かうと、長ねぎ、卵、魚肉ソーセージを取り出し、切り始めた。それを手際よくフライパンで炒め、ご飯を入れて炒飯を作る。その様子をリビングで眺めるミツル。期待に満ちた顔で、あぐらの中の子犬を撫でている。あっという間に炒飯はできあがった。
「ありあわせの物で作ったから、おいしいかどうかわからないよ。」
そう言って、できあがった炒飯をリビングのテーブルに置いた。
「おー、サンキュー。」
待ってましたとばかりに、ミツルはテーブルに近寄り炒飯の皿を引き寄せた。
「おーッ、うまそー!」
スプーン山盛りに炒飯をすくって、口の中に押し込む。
「うんめぇー!」
目を輝かせてミツルはユウタを見た。
「めっちゃ、うまいぞ!」
「そんな、おおげさに言わなくても…。」
思わず照れ臭くなるユウタ。子犬がミツルのあぐらの中から身を乗り出し、クンクン匂いを嗅いでいる。ユウタは子犬用の皿を持ち、
「あげていい?」
と、ミツルに聞いた。
「おう。」
そう答えて、ミツルは炒飯を大きな口に放り込み、天を仰ぐ。
「あーッ、うんめーッ!」
「ちょっ…静かに食べてよ。」
「お前、料理うまいな。」
ミツルは、ユウタに尊敬の目差しを向け、炒飯をかき込む。そんなミツルを見ながら、久しぶりに人に料理を褒められたな…なんて事をユウタは考えた。「キャン!」という子犬の催促に我に返り、
「あ、ごめんね。はい、どうぞ。」
と、子犬の前に皿を置いた。皿に顔を突っ込むように食いつく子犬。飼い主に負けないくらいの食べっぷりだ。
「おなか空いてたんだ…。」
ユウタは、子犬を見つめてつぶやいた。ふと見れば、ミツルは早くも皿の中の炒飯をスプーンでかき集め始めている。ユウタは、慌ててキッチンへ向かい、マグカップにわかめスープを作って、
「インスタントだけど。」
と、ミツルの前に置いた。
「お、サンキュー。」
口をモグモグさせながら、マグカップに手を伸ばす。
「ん!うまい!お前、ホントに料理うまいよ!」
「だから、それはインスタントだって。」
思わず、ユウタは笑ってしまった。ハッとして子犬の方を向くと、
「な、名前…名前、なんていうの?」
と、ごまかした。
「ムーってんだ。」
ミツルは、マグカップから口を離し、ワカメを口から垂らしながら答えた。
「ムーって、ポメラニアン?」
ムーの顔を覗き込みながら、ユウタは尋ねた。
「いや、日本スピッツ。」
そう言って、ミツルはスープを飲み干す。
「へえ、小さい時はポメラニアンぽいね。」
「だろ。カノジョもポメのつもりで買ってきたんだよ。」
「え?」
「で、ポメじゃないってわかったら、いらないとか言い出しやがってよ。」
「うそ…ちょっとひどいね。」
「とんでもねぇバカ女だろ。こんなにかわいいのになぁー。」
甘い声で子犬を抱き上げ、頬ずりするとまたあぐらの中に置き、大きな手で小さな頭を優しく撫でる。ムーは、気持ちよさそうに目を細めた。
「お互いに、お互いが好きなんだね。」
思わず、そんな言葉がユウタの口からもれた。
「へッ?」
ミツルが、ポカンとした顔をあげた。
「なんか、いいなぁ。」
ユウタは、思った通りの事を言った。ミツルの顔が、少し赤くなった。
「なーに言ってんだよ!なぁ。」
嬉しそうにムーの小さな頭をワシャワシャ撫でる。ムーは、ミツルに体を預け、すっかりリラックスしている。ユウタは、笑った。また笑ってしまった事に気がついていたが、もうごまかさなかった。そして、綺麗に空になった食器を持って立ち上がると、その笑顔のまま言った。
「本田くんとムーの寝る所、ソファーでいいかな?」
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