第3話



〈イーリャとチョコレート工場の謎編〉




【1】



 雨上がりのある昼下がり。オレは、シエラと二人で大きな食料雑貨店に来ていた。

 今日は便利屋の備品の買い出しだ。食料雑貨店は便利屋からソーラーバイクで5分ほどの近さなので、俺もシエラもちょくちょく利用するようになった。人間が使うお金の計算にも慣れて、ほとんど困ることがない。

「さて、これで全部かな」

 メモを片手に、買い漏れがないかをチェックする。シエラがオレの上着の裾を遠慮がちにくいっと引いた。

「チョコレート、買っていかなくちゃ」

 振り向くと、俺より頭一つ小さいシエラは自然と上目がちに見える。

 うん、知ってたけど、やっぱり可愛い。

「チョコレート?」

 チョコレートとは、街に来て知った、南方原産の菓子だ。便利屋でシエラがお茶に添えて客に供すこともあるが、確かメモになかったはずだ。オレが念のためメモを見直していると、

「イーリャがよく食べてるの」

とシエラは言った。

「イーリャが?」

 シエラの言葉になんとなく首を捻ってしまったのは、オレの中でイーリャとチョコレートのイメージが結びつかなかったからだ。

 俺も食べてみた経験はあるが、チョコレートは腹にちっともたまらない。味は甘くて苦く、美味いとは思う。

 チョコレートはここ二十年弱で街の女の子を虜にしたと言うほど人気があるそうだが、……そしてイーリャは街暮らしが長いわけだが、イーリャが食べてるところ、見たことがない。一度もない。

 しっくり来ないまま、お菓子売りへと向かうシエラについていく。

「チョコレートって言っても、色々あるものなんだな」

 焦げ茶色や金、黒、赤色のパッケージが色とりどりに並ぶチョコレート菓子の並ぶ一角でシエラは足を止めると、

「あら?」

と声を上げた。

 シエラの見つめる棚は商品がないため、一箇所だけさみしく窪んでいた。だいたい、他のチョコ菓子のパッケージが横に二つは並びそうなスペースだ。空いた棚には貼り紙がしてあった。

『大変申し訳ありません。品切れ中

しばらく入荷の予定はございません』



「なんだって……?」

 シエラからの報告を聞いたイーリャは、形の良い眉をひそめて、絞り出すような声を上げた。

「他の店も回ってみたけど、どこも同じだったぜ。ミントに連絡してみたけど、ミントのバイト先でもそういう状態なんだとさ」

 イーリャが愛好しているらしいチョコレートは、ルフォルという会社から出ている『ひとくちルフォル』。商品名に会社名が入っているということは、ルフォル社の看板商品であることは間違いない。

 シエラの話によると、『ひとくちルフォル』は食料品を扱う店舗ならまずどこでも置いているチョコ菓子だということだが、一緒に二、三軒回ってみても、どこも品切れだったのだ。

「なんでだ……! このところどこに行っても売り切れてて……!

二週間だぞ! もう二週間も我慢してるんだ!

どこのどいつが買い占めしているんだ!」

 いつも冷静なイーリャらしくなく、頭を抱えて地団駄を踏む。こんなイーリャは初めて見た。好物が切れるとここまでになるものなのか、女って。て言うか、好物だったんだな。ほんとに。

「店員さんのお話では、『ひとくちルフォル』の取り扱いをやめた、ということではないみたいなんだけど……」

 シエラがイーリャに遠慮がちに声をかける。

「……こうしちゃいられない」

 イーリャは携帯連絡板を取り出し、凄く早い指さばきで何処かへメッセージを送った。

 そしてイライラしたように事務所内を歩き回る。とても仕事しようとかいい出せる雰囲気じゃないな、これは……。多分、今のイーリャはメッセージの返信以外関心がもてそうにない気がする。イーリャが何をどうしたいのかはわからないけど。オレは買ってきた備品をあるべきところに収納しながら、横目でイーリャの様子を見ていた。

 机に戻ったシエラも事務仕事をしながら、心配そうにイーリャを見つめている。

 やがてイーリャの携帯連絡板の着信音が鳴った。返信を確認したらしいイーリャの顔がどんどん引きつっていく。イーリャは殆ど乱暴とも言える早さでメッセージを打って、誰かに送信したようだ。

「ヨーク、ちょっと一緒に来い」

 ずり、と突然視界がずれて、俺は目を見開いた。

「はい?」

 イーリャはオレの返事も待たず、オレの首根っこを掴んで、事務所から引きずり出す。

「イーリャ、おい、どこ行くんだよ」

 慌てるオレに向かって、イーリャは厳しい表情で答えた。

「ルフォル社のチョコレート工場に行く」



【2】



 何がオレの雇い主様を突き動かしているのか。

 甘いお菓子はあまり食べないオレにはさっぱりわからなかった。食い物のウラミは怖いってこういうことだろうか……。


 ルフォル社のチョコレート工場は、街を西側に抜けて、数時間走ったところにあった。ビルも消え民家も消え、だだっ広いだけの土地。ついた頃にはもう日が暮れていた。

 工場と同じ敷地に社員寮があるが、ひっそりとしていて、明かりのついている窓は数えるほどしかない。


「どうしてこうなったのかわたくしにもさっぱりですわ」

 ルフォル社の営業部長、シャンテと名乗るおじさん(人間)がそう言って額の汗をハンカチで拭いた。

事務所を出る前にイーリャが連絡していたのは、このシャンテさんだったのだ。


 オレたちは、社員寮のロビーに通された。照明器具はたくさんあるのに、何故かシャンテさんはランタンを灯してテーブルに置いた。

「すいませんね、イーリャさん。ちょっと前から機械の不具合が続いてましてね、だましだまし使ってたんですがついに先日大元のソーラーバッテリーが故障しまして。予備のバッテリーに交換したらこれもまた故障。業者に見てもらったんですが原因不明、交換してもらってもまた壊れる。それに悪いことは重なるもんで、従業員の中にも体調を崩すものが続出しまして、それで……まあこういった状態に」

「どういうことなんだろうな」

 イーリャは腕を組み、イライラとつま先を鳴らした。それを見ながら、ややしょんぼりとしたシャンテさんは、もごもごと言いにくそうに言葉を絞り出した。

「その……従業員の間では、アレの仕業だって言うやつがおりましてですね……わたくしも、半信半疑ではあるんですが」

「アレ、とは?」

 シャンテさんはイーリャの視線を受けて、更に言いにくそうにした。手を口元に持ってきて、ヒソヒソ声で、

「魔物、ですわ」

と、言った。



 むかしむかし、人間が太陽の力を得るよりもずっと昔。

 力を持たぬ獣や人間達は、魔王と配下の魔物に怯えて暮らしていた。

人間の街は半ば遊びのように壊され、エルフは森を焼き払われた。

 やがて、魔王は世界の四方を護る白魔法使いたちによって封印される。

 魔王は死んだわけではない。その復活を目論む配下の魔物たちは今もどこかに潜んでいるという。彼らは太陽の光を嫌うため、太陽の力を手に入れ、蓄え、夜でも周囲を明るく照らす技術を身につけた人間たちの街からは姿を消した……はずだ。



「ここらの土地は大昔に魔王の侵攻があったところだそうでね、まあその、土地が安く手に入ったらしいんですわ。工場設置の際に白魔女リカ様に一度来て頂きまして、その時点で異常も魔物の瘴気もなかったそうですが、工場と社員寮設置には白魔女様も良いお顔はされなかったと。一応、土地への祝福は受けたと記録にはありますがね」

「魔物に白魔女? 昔話じゃあるまいし」

 イーリャが呟き、シャンテさんが、ですよねぇ、と汗を拭った。

 白魔女リカ様のことは、聞いたことがある。オレが生まれ育ったエルフの隠れ里の結界をしいてくださった方だと、長老からよく聞かされていた。

「白魔女様が反対なさったんなら、やめといたほうが良かったんじゃねーかな」

 オレの呟きに、イーリャがすごい勢いで振り返った。

「お前まで何をジジくさいこと言ってんだ。こんなの、競合会社の妨害かなんかに決まってるだろ」

「決まってるって、イーリャ」

 先入観とか、よくないんじゃないかな……。と、もごもごするオレの胸ぐらを掴むとイーリャは険しい目でオレを睨みつけ、舌打ちした。そして乱暴に手を離すと、シャンテさんに向き直った。

「今日からしばらくの間、この工場と社員寮の周辺を見回らせてください」



【3】



 朝陽が昇ってあたりを白々と照らして行く中、オレはため息をついた。

「私は情報屋をあたる。お前はここを見張ってろ。怪しい奴がいたら捕まえとけよ」

 イーリャはそう言って、オレだけをこの場に残して事務所へ帰ってしまった。


 夜通し工場とその周囲を見回ったけれど、怪しいものが出入りする現場どころか、人っ子ひとり、ネズミ一匹の姿も確認できなかったのだ。

 そろそろ眠気も限界に達しようかという頃になって、見慣れたソーラーバイクが工場敷地内に入ってきた。イーリャだった。

「お疲れさん、ヨーク。どうだった昨夜は」

 ヘルメットを外し、イーリャは背負ったリュックの中から紙袋を取り出してオレに差し出してきた。

「どうもこうもねーよ。なんにも起きなかったし怪しい奴なんて見かけもしなかった」

 紙袋を開けると、サンドウィッチが綺麗に並んでいた。美味しそうな香りが鼻をくすぐる。イーリャはさらに水筒を出してオレに手渡した。

「シエラの弁当とコーヒーだ。食えよ。

 私も、情報屋からの収穫はゼロだった。まぁ、もう少し他のところも当たってはみるが」

「だとしたら、やっぱり魔物の……」

「まだそんなジジくさいこと言ってんのか。あるわけないだろ」

 イーリャは半目でオレを睨んだ。

「さっき街のルフォル本社に寄って、シャンテさんと話してきた。寮の空き部屋を借りれることになったから、そこにしばらく寝泊まりさせてもらえ。夜になったら交代だ。ほら、カギ」

 イーリャはオレの目の前に、小さな丸いプレートのついたカギを差し出した。プレートには、『110』と書いてあった。

「携帯連絡板用充電器と電池、それからランタンも買ってきてやったぞ。ありがたく思えよ」


 

 寮内は静かだった。体調を崩したケースを別に数えても、実家に引き上げた従業員が少なくはないらしい。太陽の力はろくに使えないわけだし、工場が止まっている間、従業員は休暇を奨励されているらしいので無理もない。

 ちらほらと洗面所や休憩室にぼんやり佇んでいる人たちはいたが、きっと故郷が遠すぎるなどの理由で帰れないのだろう。不憫だ。

「オレもそうとう不憫だけどな……」


 110号室の扉を開けて、オレは中へ入った。簡素なベッドとテーブルセットがひと組、クロゼットがひとつ。オレのワンルームのアパートより一回りは小さい。まあ、数日の辛抱だ。オレは椅子に座って、シエラの手作りサンドウィッチとコーヒーをご馳走になった。空きっ腹にシエラの真心と優しさが染み渡るようだった。

 携帯連絡板をポケットから取り出し、シエラにメッセージを送る。

『シエラおはよう。弁当食った。すげー美味かったよ、ありがとな』

 数分も経たずに、返信を知らせる音が鳴る。

『おはよう、ヨーク。お疲れ様。

連絡が取れてよかった。街は植物に声を伝えてもらう代わりに、太陽の力で伝えることができると思っていたけれど、今みたいに太陽の力が使えないってことがあるのね。

工場の近くまでバスが出ているって聞いたから、必要なものがあったら届けに行くわ』

 くっ、思いやりが嬉しい。オレはすぐさま返信を打った。

『ありがとう。なんかあったら連絡する。早く帰りたい』

 オレとも離れてるし、エルフは森のような植物に囲まれていない場所では魔法を使いにくいしで、シエラも不安かもしれないな。

 携帯連絡板の充電があとわずかになった。さっきイーリャにもらった充電器に電池をセットして、携帯連絡板に差し込む。シエラから返信が来た。

『無事を祈ってるわ。無茶はしないでね』

 そのメッセージを表示したまま、オレは携帯連絡板を枕元に置いて、ベッドに倒れこんだ。



【4】



 目を覚ますと夕方だった。

 昨夜はイーリャに引っ張り廻されて、ろくに眠れなかったからな。

 夜になればイーリャと交代の予定。その前に一度くらいは見回らないとどやされるかもしれない。

 

 寝ている間フルに充電された携帯連絡板の着信を確認する。工場の電源に頼らなければ充電はできるんだなと安心した。

 シエラからの新しいメッセージはない。太陽の力が使いにくいって状況で、遠慮させてしまってる気がする。

 イーリャからのメッセージもなし、と。

 オレは携帯連絡板をポケットに入れて、目をこすりこすり、寮の外に出た。

 買い物袋を持った男の人が、とほとぼとこちらに歩いてくる。寮に向かってきているということは、ここの従業員だろうか。すれ違ったとき、なんとなく会釈をする。

「あ、ねぇ、君」

「はい?」

 呼び止められて振り向くと、その人はおどおどとしながらオレの顔を見つめた。

「君、シャンテさんが雇ったっていう便利屋だろ? なんとかなりそう?」

「いやぁ……まだなんとも言えないっすね、すみません」

 オレの言葉を聞いて、男の人はふうっとため息をついた。

「そっか……オレここ辞めさせられるとと困るんだよね。田舎は年寄りと子供ばっかりでさ。まだまだ下の兄弟にも金がかかるし」

 男の人の声音に、責める風はない。

「あ……はい」

「今残ってる奴らはみんな似たりよったりだよ。仕事止まると給料も厳しい」

 男の人が、ぼんやりと工場の方を仰ぐ。それにつられて俺もなんとなく同じ方を向く。明かりの点されていない工場は、夕暮れに聳え立つ影のように見えた。

「頼むよ。……あ、これ、良かったら」

 男の人は買い物袋の中から何かを取り出してオレに手渡して、遠慮がちに微笑む。

「ささやかで悪いけど、差し入れ。じゃあ、よろしくお願いします」

 男の人は、手を振りながら寮の入り口へ向かっていった。

 彼がくれたのは、紙に包まれた揚げ物だった。まだあたたかい。街で出来立てのを買ってきたのかもしれない。

 工場はいつ動くのかわからない。あの人は、ここに残った事情があるのだろうか。田舎が遠いとか、家に帰る金も惜しいとか。

 オレは、朝方シエラに送ったメッセージの事を思い出した。「早く帰りたい」。もしそうなら、あの人の方がよほどそう思っているに違いない。

 オレはいままでどこか腐っていたと思う。イーリャの勝手に付き合わされていると思っていた。オレがルフォルの社員さんの救けになるなら、真剣に取り組まないと。


 今回の見回りで、特に変わったことはない。そろそろイーリャに連絡を入れるか、と携帯連絡板を取り出したところ、タイミングよく向こうから着信があった。

『起きているか、ヨーク。これからシャンテさんが来るそうだ。私は一旦駐車場に向かう。至急来い。移動する時はまた連絡する』



 駐車場に向かう途中イーリャと落ち合った。陽の残滓を地平線に朱く残して、紺青の空に、雲が薄黒く渦巻いている。やがて宵闇が訪れる前触れだ。

「昼間、業者がバッテリーを交換したよ。今のところ、バッテリーに異常はみられないそうだ。私が見たところ、業者が怪しいとは思わなかったな」

「そうか……、で、シャンテさんは何しに」

「今から本稼働の動作確認をとるから、様子を見にくるんだと」

 ほどなくして、シャンテさんのソーラーカーが工場敷地内に入ってきた。オレたちの目の前で一旦停車すると、窓からシャンテさんが顔を出す。

「やあやあどうも、便利屋さん。お疲れ様です。これから最終チェックだそうですので、どうぞこちらへ」

 オレとイーリャは目を合わせて無言で頷きあうと、ソーラーカーの向かった方へ走る。


 シャンテさんは、動力室があるという建物のドアの鍵を開けた。既に中には工場長と業者の技術者がいるそうだが、外からは改めて鍵をあける必要があるらしい。

 建物の中は暗く、すぐ、目の前にまたドアがある。ドアの両脇は窓になっており、中の部屋の様子がぼんやりと見れた。窓を通して部屋側から、ランタンのオレンジ色が漏れている。

「すいませんが、こちらか外の方で待機を」

 シャンテさんは、オレとイーリャに軽く詫びると内ドアの前で認証用のカードをかざす。

 外かこちらか。気になるしなあ……。オレとイーリャは建物の中に残った。

 窓の向こうに、オレが四人くらいいないとかかえられそうにないソーラーバッテリーが鎮座しているのが見える。

 ソーラーバッテリーを前に、シャンテさんと中の人が言葉を交わしている。

「本当に今度こそは頼みますよ」

「はい。機器自体にもバッテリーにも異常はありませんでしたので……では稼働させていただきます。それっ」

 ドア越しに声が聞こえる。その数秒くらいだろうか。


 ブイイイイン……と腹に響く音が聞こえたかと思うと、パッと工場敷地内の照明が点いた。動力室の機械にも赤や緑の光が点灯する。シャンテさんもオレもイーリャも、中の人たちも、おお、と声を上げた。ところが。


 バチン!


 そんな音とともに、再び電灯は消え。


 ボン!


 ソーラーバッテリーが頭から煙を吐いた。



【5】



「ちょっとちょっと勘弁してくださいよ、異常はないって言ってたじゃありませんか!」

 シャンテさんが技術者に詰め寄った。技術者ははあ、とかおかしいな、とかごにょごにょ言っている。

「すみません、すみません、本当にどこも、異常はなかったんですが……なんでかなぁ」

 ランタンの明かりで、首に掛けたタオルで、技術者がしきりに顔の汗を拭っている様子が映し出される。

「困りましたねぇ本当に」

 工場長もお手上げといった風に、がりがりと頭を掻いた。


「なあ。なんか煙でてっけど、あれって換気が必要じゃないのか?」

「さあな、とにかく通路は開けたほうがいいだろう」

 イーリャの言葉を合図にオレたちもシャンテさんたちも動力室のある建物から出た。シャンテさんはまだ技術者にぎゃんぎゃん文句を言っている。また故障か。さっき差し入れくれた社員さん、残念がるだろうな。そんなことを考えた。


「ヨーク」

 聞き慣れた声に顔を上げると、シエラが不安そうな面持ちで立っていた。手にはバスケット。弁当でも持ってきてくれたのだろうか。

「シエラ! 来てくれたのか」

「ごめんなさい、お仕事中に。どうしても胸騒ぎがして」

「胸騒ぎ?」

 シエラはオレの上着の裾を引いた。

「ヨークもイーリャもなにも感じない? なにか、嫌な感じ。どこかになにか……」

「うわああ!」

 シエラの言葉をかき消すように、シャンテさんたちの叫び声がした。振り向くと、眼前に何か黒いものが向かってきていた。

「危ねっ……」

 オレは咄嗟に、その黒いものを右腕ではねのけた。腕と肩にびりりと痺れが走る。


 黒いものは、夕闇に紛れてはっきり形がわからなかった。目をこらすと、それは闇を切り取ったかのように黒く、四つ脚で、長い尻尾があった。体長はオレと同じくらいのように見える。頭の高さはオレの腰くらいか。爛々と光る赤いふたつの目が、まるでろうそくの火のように燃えている。そして、身体じゅうから、黒い煙のようなものを上げていた。

「なんだ、なんだこいつは!!」

「ひいいい!」

 シャンテさんたちの悲鳴。

「ヨーク……あれは……」

 背中に、シエラが震える手でしがみつく。オレは両腕を広げて、シエラとイーリャの前に立ち、黒いヤツと対峙する格好になった。シエラとイーリャを背中で押して、じりじりと後ずさる。


 一体、この黒いヤツはなんだ?

「ま、ま、魔物だぁっ」

 誰かが叫ぶ声がした。

 魔物? こいつが?


『よこせ』


 混乱するオレの頭の中に、そんなおどろおどろしい声が響いた。


『地を這う卑しい虫ケラどもめ。お前らに用はない。そのエルフの娘をよこせ』


 黒いヤツは、頭の裂け目、おそらく口と思われる場所から、しゅうううっと黒い煙を吐いた。

 今のはこいつの声か?

 エルフの娘? シエラ? それともイーリャか?

 一瞬どちらが狙いかと思いあぐねはしたものの、何故か頭の隅にはシエラだという確信があった。

 こいつ、シエラを狙ってるのか?


 シエラは護る!


 オレがそう強く念じると、腹の底から何か熱いものがゴオッと燃える感覚があった。


「シエラ、イーリャ、逃げろ!」

「ヨーク」

「シエラ、あっちへ」

 イーリャはシエラをオレの背中から剥がして、上着のポケットからナイフを二本取り出した。それを黒いヤツめがけて投げる。ドスドス、と立て続けに黒いヤツの脳天に刺さる重い音がした。が。



 黒いヤツが高く前脚を上げる。イーリャが投げたナイフは乾いた音を立てて地面に落ちた。

 ナイフの攻撃が、効いていない?


 その昔、人間の街は半ば遊びのように壊され、エルフは森を焼き払われた。そんな伝承の言葉が不意に蘇り、ぞくりとする。

 こいつが本当に魔物だと言うならば、人間やエルフになんとかできる相手ではないのか……?


 ヤツは再びこちらへ向かってきた。立ち塞がるオレに構わず、後ろのシエラとイーリャに向かおうとしている。オレの右横を通り過ぎようとした瞬間を狙って、蹴りを入れる。

右足に衝撃と痺れが走った。


『ギャウ』


 頭に響く声とともに、黒いヤツはオレの目の前に押し戻された。オレはすかさず、ヤツの頭をガッと両手で捕まえた。ジュッと音がして、両掌が焼けるような熱さと痺れを感じる。


『ウギ……ギャオオオオオオ』


 頭の中に、おどろおどろしくもけたたましい声が響いた。

 黒いヤツの頭とオレの両掌の間から、ジュウジュウと何かが焦げるような音がして、ヤツの頭から煙が上がった。


『何故……何故だぁぁ……虫ケラが……! グギャオオオオオオ……』


 そんな叫びをオレの頭の中に残して。

 黒いヤツは、崩れた。

 他に表現のしようがない。

 四つ脚のケモノみたいだった黒い影のような身体が、ぐずぐずに崩れて、風に吹かれて消えていったのだ。沈んで消えた太陽と共に、闇に紛れるかのように。



「……消えた」

「ひい……ひい……」

「なんだったんだ……」

 呆然とする技術者さん、言葉を失った工場長、駆け寄ってきて黒いヤツのいたあたりを見回すシャンテさん。

 その中で、オレは呆然としていた。今の黒いヤツは、なんだったんだ? あの頭に響く声は。


「ヨーク」

 シエラの声に振り向く。夕闇でよく顔が見えなかったが、声は涙混じりで、オレを現実に引き戻した。

 シエラを護れた。良かった。

 オレはさっき黒いヤツを捕まえた両手を見ながら、情けなくもその場にへたり込んだ。シエラがオレの肩にしがみつく。

「ヨーク大丈夫? ケガは?」

 言われるまま、両手をこすり合わせたり右腕を撫で回してみたが、特に痛いところも、傷ついているところもなさそうだった。ただ、上着の袖、ズボンの右ひざ下、ヤツに触れた場所のボタンやジッパーがぐずぐずに焦げたようになっていて、もう使い物にならなさそうなのだった。一体この現象は何だろう……。

「あの黒いの、シエラを狙っていたな」

 後ろから、やけに沈鬱なイーリャの声がした。オレとシエラは振り返る。イーリャは続けた。

「……魔物は、魔力の高いエルフを狩って……食らって……その魔力を得る……」

 シエラはオレの肩に置いた手にぎゅっと力を込めた。

 イーリャの言葉は続いている。

「いや、でも……ヤツらは太陽の力を恐れて……」

「イーリャ」

 オレは立ち上がって、シエラとともにイーリャの元へ駆け寄った。イーリャの肩を掴み、軽く揺する。

「イーリャどうしたんだよ、ヤツはもういない、消えた。大丈夫だ」

「大丈夫よ、イーリャ。さっきまで感じていた嫌な気配がなくなったわ。ヨークが助けてくれたのよ」

 イーリャは顔を上げなかった。無言でうつむいて何事か考えている。

「便利屋さんのナイフ、真っ黒ですよ」

 シャンテさんの声がして、オレはそちらへ向かった。シャンテさんの持つランタンに照らされたイーリャのナイフは、オレの服の袖のように

黒焦げになっていた。

「なんだったんでしょうね、アレ…やっぱり、魔物……」

「……わかりません」

 シャンテさんの言葉に、オレは首を横に振るしかなかった。



【6】



 事件は一応の解決をみた。

 けれど、あの夕闇での出来事は、あそこにいた全員にとっての謎だった。


 あの後、自警団にも協力してもらい、二、三日工場周辺を見回ったが、何も起こらなかった。黒いケモノも現れなかった。


 業者が予備で用意していたという新しいソーラーバッテリーを設置すると、工場にも社員寮にも太陽の力が戻った。

 そればかりか、あの日、煙を上げたソーラーバッテリーについてさえ試したところ、問題なく稼働したという。やはりあの黒いケモノが原因なのではないか、とあの夜居合わせた者全員の意見が一致した。


 シャンテさんは、白魔女リカ様に連絡をとり、再度工場周辺の土地を見ていただくことにすると言っていた。

 乗りかかった船だし、白魔女様への連絡はオレが行くことにした。その方がきっと話が早い。あの黒いケモノを消した(?)のは、オレの手だったのだから。


 白魔女リカ様のお住まいは、工場よりももっと西へ進んだ、人里離れた森の奥らしい。推定、片道五日といったところか。

「気をつけて行ってこいよ」

 弁当や水筒、電池、保存食にテントや地図などが入ったリュックを背負い、ソーラーバイクに跨るオレに向かって、イーリャが言った。あの夜の出来事以来、イーリャはなんだか元気がない。敢えて理由は聞いていない。イーリャが言おうとしないからだ。

 オレは、わざと軽い口調で答えた。

「なんだよ、ガラじゃないぜイーリャ。けど了解、気をつけて行ってくる」

「あのな」

「ん?」

 イーリャはオレの顔を真剣な眼差しで見つめ、口を開けたが、言葉は出てこなかった。イーリャはそのままくるりと背を向けて、なんでもない、行ってこい、と小さく言って、事務所に入っていった。入れ替わりにシエラが出てくる。

「本当に気をつけて、連絡もしてね。行ってらっしゃい、ヨーク」

「イーリャのこと頼むな、シエラ」

「ええ」

 オレはシエラに軽く手を振って、バイクを発進させた。





 便利屋事務所宛に大量の『ひとくちルフォル』が届き、イーリャが狂喜乱舞するのは、一ヶ月後の話だ。



 


【イーリャとチョコレート工場の謎編、終】







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