第3話 それは人智を超えた巨大な怪物
この街に、静寂が増していく。
先程までの喧騒が嘘だったかのように、今はこの渋谷にほとんどの人が存在しない。人々が賑わっていただろう歩行者天国は寂れた世界になり、建物の中にも言わずもがな。まるでそこだけが、時間から引き剝がされたような世界となっていた。
そんな静まり返った世界の中だが、ビルの陰にへたり込む数十人の人々がいる。この渋谷へと赴いた黒木一馬達。皆、疲労ゆえにうつむき、そして沈黙をしている。
彼らは巨大な化け物による蹂躙に、その身を引き裂かれる寸前となっていたのだ。あの場に立ち止まってしまえば、死がすぐに迫ってくるような蹂躙に。
今でも一馬は、あの化け物の事が頭の中で泳いでいる。この世の存在と思えない存在が、人も、建物も、何かも破壊尽くすあの瞬間。
生まれて初めて味わった。貴重で、おぞましくて、混乱に極まった出来事だった。
出来る事ならもう二度と味わいたくない。そう彼は思う。
「……どうしてこんな事になったの……」
一馬がそう思っている最中、灯がうつむきながら呟いてきた。
その儚い問いに誰も答える事はなかった。灯と同様に顔をうつむかせる者もいれば、ただ黙る者がいる。一馬もまた答える事はせず、ただ顔を上げて生徒達を見回す。
あの災害の犠牲になったのか、離れ離れになってしまったのか。六十人以上いた生徒と教師がたったの十人程。灯と政宏という友達がいたからよかったものの、もし彼女達と離れる事になったら……。
いや、もしかしたら一人になっていた可能性だってある。そう考えてしまうと……そんな状況でもないのに、心が潰れそうになってしまう。
「あっ! まだ避難されてなかったですか!!」
その時に男性の声がしてきた。一馬達の視線が、声がした一点に集中する。
彼らへと向かって来る一人の中年男性。服装からして警察官と思われ、帽子を被った額から大量の汗が流れている。余程走ってきたのか、それとも焦っているのかのどちらかか。
「大丈夫ですか!? この先で避難誘導を行っています!! すぐに合流を!!」
その言葉からして、どうやら化け物からの避難が始まっているようだ。
対し先に立ち上がったのが、未だ息の整っていない辻森。その彼女に続くように一馬達や他の生徒達も立ち上がり、警察と共に歩いていく。
人がいなくなった街の中を静かに歩き出し、やがて彼らはその避難誘導へとたどり着いた。そこには数えきれない程の住民が荷物を持って、警察の指示によって歩いている。
まるでビルという迷路の中を彷徨う、アリの群れのよう。一馬達はその中に入るも、なだれ込む人の波に思わず戸惑ってしまう。
それでも立ち止まる訳にはいかず、強引に慣れるしかない。
「落ち着いて避難して下さい!!」
「巨大生物は遠くの方にいます!! 焦らず落ち着いて避難を!!」
列を誘導する警察の声。さらに別の声が頭上から聞こえ、見上げていく一馬達。
あるビルに飾られている大型ビジョンがあった。どうやら緊急速報が放送されているようであり、その映像に映っている女性アナウンサーが報告をしている。
『東京都渋谷区に、突如として巨大な生物が出現。生物の身長は約三十メートル。カブトムシなどの昆虫に酷似した姿をしており、汽笛のような鳴き声を発したという情報があります。防衛省は仮に『未確認巨大生物』と呼称し……』
アナウンサーの隣に小さい映像がある。どうやら例の駅を撮っているようだが、逃げる途中だからかブレが激しい。
それでも駅を蹂躙する化け物が確認出来た。咆哮を上げ、巨大な脚で、巨大な身体で、建造物を破壊している。
おぞましい姿を見て一馬は思う。人間よりもはるかに超える巨大さ、この世の存在と思えない異形さ、建物すら破壊する力。あれはまさしく……。
「まるで……『怪獣』だったな……」
「……ああ……」
脳裏に答えが出る前に、政宏が口に出した。
怪獣。それは人智を超えた巨大な怪物。先程の異形を当てはめれるのに相応しい名称であり、そうとしか表現しようがない。
そんな存在が、一馬達の目の前で姿を現したのだ。他者が聞いたら真実とは思わないだろう……むしろ一馬自身も真実と思いきれていない。
しかしあの咆哮に破壊力……あれが本物である証拠という事に他ならない。
「アレが怪獣……? まさかテレビの中じゃあるまいし……」
「でも実際に現れたんだ。受け入れるしかないよ」
「そんなぁ……。私、そんな馬鹿げたのに殺されたそうになったの……? 勘弁してよぉ……」
「…………」
確かに馬鹿げている。そして馬鹿げた存在に殺されそうになった。
灯がそう愚痴るのも無理はない。そして一馬だってそう思いたくなるのだ。
「ちょちょちょ、今の話からして、お宅らモノホンの怪獣を見たのか?」
「!」
急に、隣にいた人物が声を掛けて来た。
金髪とサングラスをした、チャラくも若い男性。その手にメモ帳とペンが握られているのが見える。
だが驚くべきなのは、その男性がニヤついているのだ。まるで今の状況を理解していない、あるいは楽しんでいるかのように。
「実はさぁ俺、ブログにそういった大きな事件をたまに投稿させているんだよ。ただ現れたって言う怪獣の姿が残念ながら見れなくて……よかったから話を聞かせてくれないか?」
「…………」
うざったらしい。それが一馬の本音だ。
彼を無視して、灯と政宏を連れて逃げようとした。しかし男性が後を付いて来る。
「ねぇ、聞いている? ちょっと位聞かせてくれよぉ。もしもーし、耳ある? ねぇって……」
しきりに問い掛けるも無視。政宏も灯も同じ心境か、無心に近い表情で男性を見ていない。
その事に気付いているのかいないのか、男性の声は止まない。
「おーい、聞こえてますかぁ? 怪獣の事を聞かせてくれるだけでもいいか……」
「やめて下さい!! 他を当たって下さいよ!!」
列の中に響き渡る、灯の怒鳴り声。この時、彼女は滅多に見せない怒りの形相をしている。付き合いの長い一馬ですら見た事のない表情だ。
周りの人々が何事かと振り向くも、灯は怒りを治めない。そして男性があろう事か、彼女へとゴミを見るような目でするのだった。
「チッ、怪獣の事を聞かせてくれってだけなのに、何で怒られなければならないんだよ。マジで教育どうなってんだし」
「…………」
一発殴りたい。一馬の握り拳が震える。
この男が自分を貶すのは別にいい。だが灯を侮蔑する言動は、一馬にとっては許し難い。
それに、あの怪獣の恐ろしさを知らないからこう言えるのだ。その目で確かめれば、その汚い口だって……。
「……?」
急に、その拳を緩めてしまった。
目の前に何かが落ちてくる。まるで雪のような微量な物質のようで、それでいて見た事がない。
赤いのだ。血のように真っ赤で、言葉にするならば『赤い粒子』だ。
それは一馬の目の前だけ落ちて来たのではない。灯の前にも、政宏……そして避難している人々の上にも振ってきている。
その量により、この区域が真紅に染まっていく。禍々しくも美しく、そして不可解な未知の粉雪だ。
「……何だこれ?」
「……雪とは違う……」
政宏が粒子に手に取ろうとするが、その前に消えてしまう。さらに辺りを見回す辻森。
一馬もまた、怪訝な表情で赤い粒子を見渡した。そしてこれを降らしているだろう、上空へと顔を上げていく。
「……あれは……?」
夜の闇に染まった曇り空。その中に赤い光が灯していた。
稲妻のような青白い光でも、太陽のような白い光でもない。粒子と同じく、鮮血を思わせる真紅の光。そしてこの世を終わりを告げるような、不吉な現象だ。
その光が一馬達の頭上を覆い、微かに明滅している。その見た事のない現象に、ただ一馬達が見守るしかない。
だがその時、一馬は気付いた。赤い光の中を、巨大な影が蠢いているのを。
疲れてそんな物を見ているのかと目をこすったりした。しかし雲の中に存在する影は、まるで一馬達を見下ろすように進んでいる。
輪郭をよく見ると、まるで獣のよう……。
――ゴアアアアアアアアア!!
瞬間、轟音が響き渡っていく。一馬達や他の人々が、声がした方向へと一斉に向く。
――目を疑った。視界全体に、巨大な物体が向かっていくのだ。
迫り来る物体に対して、咄嗟に動かなくなる人々。そうこうしている内に物体が列の中に落下していき、唸る破壊音。
道路が砕き散っていき、石の雨を降らす。そして物体によって人々が潰され、悲鳴を上げる間に消えてしまう。
その瞬間が一つ一つ、一馬の視界に捉えていった。そして理解した。
あの物体は例の昆虫型怪獣であり、怪獣が列の後ろを潰していったのを。
「キャアアアアア!!」
誰かの悲鳴が木霊する。怪獣が突如して降って来たのはもちろんの事、その下に消えていった人々へと向けた悲鳴であった。
目を背けたくなる光景が、人々を一斉に後ずらせた。それは今まで指示していた警察官も同様であり、顔が青ざめるのが分かる。
その中で思考停止をするも、怪獣の姿を見る一馬。よく見ると、黒光りする甲殻にヒビが入っており、六本の脚を痙攣させている。鳴き声もどこか弱弱しい。
まるで……誰かにやられたかのような……。
――ハアアアアアア……ア゛アアアアアアアアアア……。
「!?」
正面から何かが聞こえた。咄嗟に顔を上げると、遠くのビルから姿を現す巨大な影。
灰色で構成された、甲冑を思わせる頭部。そこから無機質な四つの赤い瞳が覗かせ、後頭部に尻尾を思わせる白い器官が伸びている。
身体も見えてきた。両肩が群青色をしており、複数の棘を生やしている。両腕は黒く砲台のように太い。さらに先端には刃のような三本爪。
腰からスカートのような有機的な突起部があり、尻尾も見える。無論両脚も見えるが、つま先立ちをしており……
武者を思わせる、大柄で人型をした異形。その赤い瞳が、何故か上空を見ている。
そして視線を変え、瀕死状態の昆虫型怪獣に。
「……嘘だろ……?」
そう言いたかった。どんな事があっても、その言葉を口にしたい気持ちだった。
一馬にとっては驚愕の思いである。駅を襲撃した怪獣だけではない、全く別の存在……もう一体の怪獣がいる事に。
しかもその怪獣が重力を逆らうように、宙を浮いている事に。
──ボオオオオオオオオオオオンンン!!
迸る、禍々しい咆哮。
昆虫型怪獣からだった。異形の身体を持ち上げると、踏み潰した人々の血液が垂れていく。無論そんな事を気にしない怪獣が、背中の隙間から何かを生やしたのだ。
それは四枚の羽根である。網目模様が特徴的な半透明であり、光に反射している。その羽根を忙しく羽ばたかせ、人型の怪獣へと飛ぶ。
咆哮を上げて向かう様は、まるで獲物を狙う猛獣のよう。あるいは敵意を露わにする獣か。
なお、人型怪獣も宙を浮かびながら怪獣へと向かっていく。途中に右腕を掲げ、花のように開く三本爪。
その間に、白い光が見えてきた。
「……まずい……逃げるぞ!!」
何かが起こる――灯の腕を掴み、政宏を連れて列から離れる一馬。
辻森達も彼に気付いて後を追ってきた時、それは放たれた。人型怪獣の三本爪から、白い火の塊が。
火球と呼ぶべき代物は二発放たれた。一発目が昆虫型怪獣に直撃し、道路へと転倒させる。
――二発目は、未だ呆けている人々へと。
火球が破裂し、白いエネルギーの波を作り出す。逃げようとした人も、スマートフォンで撮影しようとした先の男性のような愚か者も、思考停止して立ち止まった人も、避難を促そうとした警察官も、全てが波に飲まれていった。
それだけではない。火球の衝撃が一馬達にも襲いかかる。彼らの身体を吹っ飛ばせ、悲鳴を上げぬまま地面という冷たく痛い物に叩き付ける。
衝撃が止んだ後、痛みを発する頭で見上げる一馬。未だ視界が反転しており、すぐに頭を振って直そうした。
「……そんな……」
さっきまでいた列が、跡形もなくなっている。
残っているとするならば、黒焦げになった道路。吹き飛ばされたのだろうか、宙から落下するフレームだけの自動車。
見るに堪えない、人々の遺体の山。
「……うっ……」
詳しく見たくなかった。見たらどうなってしまうのか分からない恐怖に、思わず目を背けてしまう。
しかし急に起きた轟音が、再び彼の視線を戻す。そこに繰り広げられているのは、熾烈な怪獣達の戦い。
昆虫型怪獣が四本脚を駆使し、人型怪獣へと殴打。怯む怪獣だが、腕の爪で一本の腕を掴んでいく。
腕をねじ伏せ、引きちぎる。その痛みの影響か、昆虫型怪獣から湧き上がる甲高い悲鳴。そして腕の断面から溢れ出す血……ではなく、何故か青白い稲妻。
その隙に、引きちぎった腕で叩き付けていく人型。昆虫型がそれを喰らって倒れた所を、馬乗りになって首を掴む。
暴力的で激しい獣同士の争い。一馬に、ここにいたら危ないという危機感を抱かせる。
すぐに灯達へと振り向いた。ここから逃げる為に。生きる為に。
「政宏、家城!! 大丈夫か!!」
「俺は大丈夫だ!! でも家城が!!」
政宏は無事である。しかし灯の方は、頭部から赤い血を流して倒れ込んでいる。
打ち所が悪かったのか、気絶しており目も開いていない。
「なら僕が担ぐ!! 先生は大丈夫でしょうか!!」
「あっ、はい!! 早く行きましょう!!」
「どこに行くんだよ先生!!」
「とにかく安全な場所にです!!」
ある生徒の叫びを、辻森もまた叫びで返す。
急いで灯を背負う一馬。少し重いと思ってしまうが、それでも彼女を見捨てる訳にいかない。
辻森の後を追い、怪獣の戦いから離れようとする。とにかく遠くの方に、怪獣達の余波から離れようと。
一心不乱の思いだった。灯の重さに気付く余裕もなく、ただただ走っていく。例え転んで膝を擦りむいても、必死に立ち上がる。
何としてでもここで、死ぬわけにはいかないのだ。
「デパートが見える!!」
どれ程走っただろうか。怪獣の雄叫びも、戦いの轟音も聞こえなくなってきた。
その先に、ある生徒の言う通りデパートが存在する。あの時の地震の被害はなかったのか健在であり、亀裂も入っていない。
「あそこに避難しましょう!! 急いで!!」
辻森が生徒達を、デパートへと先導させる。
同じように、デパートの中へと吸い込まれる一馬。そして出入り口の中に入った時、膝の感覚がなくって
右膝から血を垂れ流しても、お構いなしに。
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