カクヨム企画『プロの作家に書評をもらおう』投稿作

永遠の小部屋

「なぁ、おい――おいってば」

 俺は、文庫本片手に横目であいつを呼ぶ。

 でも、あいつはなんの反応もない。大きなヘッドホンで溢れる程の音量が俺の声を遮っているのか。それとも、絵を描く事に全ての神経を集中させているのか。


「ちっ」と舌打ちを入れ、再度持っていた小説に目を移した。

「何よ」

 うざい。やっぱ気付いてたくせに――いっつも直ぐに反応しないってのは一体何の意味があるんだよ。

「お前ってさ。ここ来てから、いっつも音楽聴きながら絵ばっかり描いてるけどさ……でもそうだったんか? 」

 俺のその言葉に、ヘッドホンも外さずにあいつは「別にいいでしょ」とだけ答えた。……確かにな。別にいいけどさ。


 文庫本を傍らに置くと木目がくっきりと浮かぶ天井を見つめ、俺は思考を停止した。すると、視界の下の方で何やら動いている事に気付き、その身体を起こした。

 そこで、この部屋三人目の住人が、いそいそと動いているのが見えたので俺は慌てて声を掛ける。

「おいおい、一体どうしたんだよ」

 奴は、身体が少し大きくて最初見た時は少しおっかなかったが、話してみると穏やかなイイ奴だ。

 そいつは、俺に向きなおると急に頭を下げる。

「ああ。僕はここを出る事にしたよ。今まで付き合ってくれて、本当にありがとうね」と、続け様にそんな事を言う。

「なんで? 」俺は立ち上がり奴に尋ねていた。

 すれば、奴は出逢ってから一番の笑顔を見せた。

「今度こそ……幸せってやつを掴みたいんだ」

 立ち尽くす俺とあいつに、奴はもう一度深々と頭を下げると迷いなく部屋を出て行った。


「本当に行っちまった」

 暫らく呆気にとられた俺は、あいつの方を向く。

「口うるさい大人も居なけりゃ、漫画もラノベもゲームもある。

 最高の環境なのにな、信じられねぇよ」

 それは、あいつに向けた同意というよりは、自分自身に言い聞かせるみたいな言葉だったな――と言い終わってから気付く。


 俺は、そのままあいつの隣に座る。

 入る日差しが強い。そう言えば最後のあの日もすげぇ暑い夏だったな。

 忘れていた何かが、遠い向こうから俺の心に囁いてくる。


「お前は、絵描きになりたかったのか? 」スケッチブックを覗くと色んな服がそこに描かれている。

「デザイナーだよ」相変わらず無愛想な表情だな。と思う。

「俺はさ」

「知ってる。野球選手でしょ」

 驚いた。そんな俺にあいつは、ヘッドホンを外してこちらに向きなおる。

「……あんたが、行くんなら……私も行く……」

「そうか」俺は立ち上がるとその手を引いた。


「ねぇ、名前何ていうの? 」

「さぁ……忘れちまったよ。何で? 」

 あいつは俯いた。

「名前も知らなかったら、あっちで逢えるかわかんないよ……」

 だから、俺は笑ってドアを開けた。


「心配ねぇよ。なんに生まれ変わったって。絶対見つけ出してやるからよ」


 無人となったその小さな部屋に風が入り、本の頁がパタパタと始まりの福音を鳴らしていた。

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