ファミ通文庫主催 僕と君の15センチ 出品作

15センチメンタル

 新幡あらはた 光輝こうきは、走っていた。

 別に、走るのが好きで自主的に走っているのでは無い。

 学校の体育、その冬の特別科目『マラソン』に参加しているからだ。


 毎年毎年、小学生の頃から何故これを学校側は生徒に強いるのだろうか?

 と彼は思っていた。

 しかし、それは昨年までの話だ。

 今年は、違う。


 彼は、目的をもって、このマラソンに1年の時間を費やし、準備を整えた。



 新幡 光輝は肥満児であった。

 幼稚園の頃までは、胃の噴門の形成が未発達だったそうで、物を食べても、大方をすぐに嘔吐していた。

 酷い時は、病院で点滴を受けなければ、脱水症状や、貧血を起こした程だ。


 それが、どうなったのか、小学生に上がると異常な程、食欲を訴え、見る見るうちに彼は大きく肥えていった。

 両親が心配の気持ちを消し、喜びと安堵の気持ちを通り過ぎて、今度は戸惑ったのは、想像に容易い事だろう。

 小学2年生の時には、体重が既に成人と肩を並べる程。

 70キロに達していた。


 彼は、親しみやすい穏やかな性格をしていた。

 動物を愛し、気軽に誰とでも隔てなく愛想よく接していた。

 それも、関与して、彼はその体系をよく馬鹿にされ、所謂いわゆるからかいの標的に回される事が多かった。

 「豚は屠殺場へ行け」

 有名な少年漫画主人公の台詞らしい。

 彼は、それを知って、その漫画が一辺に大嫌いになった。


 新幡 光輝は不器用である。

 授業で折り紙を習った時、45分の授業で鶴が折れなかった。

 青色と赤色の絵の具で紫を作る様指示された時は、何故か臙脂えんじ色に精製された。

 繊細な作業も力任せにしてしまうので、よく物も壊してしまった。

 故意ではないが、行動が雑なのだ。

 これは、協調が必要な班行動で、多数の反感をかう事になった。

 先述の事もあって、彼はあまり誰かと行動をしている事が無かった。

 皆、彼と関りを持ちたがらなかった。

 「悪い子ではないんだけど」それが、いつしか皆が彼に対して言う第一声となっていった。


 だが、出会う人全てが、その結論に達する事は無い。


 それは、小学5年生の春だった。


 「だ~~れだ? 」

 普段通り、休憩時間に持って来ていた漫画を読んでいたその時。

 不意にとても柔らかい物で両目を塞がれた。


 「へ? へ? へぇ~⁈ 」情けない声を出し、彼は狼狽した。

 それもそのはずだ。

 5年生は、クラス替えがあり、それはつい最近行われたもの。

 クラスの人間の殆どが初対面に近い。

 そんな中「だ~れだ? 」をして来るクラスメイトなんて全く心当たりがない。

 たとえ、知っている顔の多い昨年でもしてきそうな人物の想像なんかつかない。

 いや、それよりも。

 声。そして手の柔らかさ。

 それが女子のそれだと、理解した時。彼は焼石の如く顔を蒸気させた。


 「……………ぶ~時間切れ~~」

 その言葉の後、ゆっくりと瞳の前に置かれていた小さな手が離れた。

 彼は、走る心筋を落ち着かせるよう深呼吸を一度、二度行い、振り向いた。


 「学校に、漫画持ってきちゃ駄目だよ~アラちゃん‼ 」

 そこで、笑っていたシロツメクサの様な小柄の美少女は。


 「あ…………青山あおやまさん………」

 青山と彼は、1年生の頃から同じクラスであった。

 しかし、何というか。小学生、特に低学年の頃は「男女の壁」というものが在り、その壁を越えて仲良くする子はそうそう居なかった為、彼も青山とまともに会話をするのは、これが初めて。と言っても良い程である。

 更に言えば、青山はクラスでも男子の皆が目を奪われる可愛らしい外見をしていた。彼女と仲良く話そうものなら、嫉妬した男子に「女子派」「女好き」と仲間外れにされた事だろう。

 

 「じゃあねっ‼ アラちゃんっ。また2年間よろしくネ‼ 」

 無垢な少女のそれを浮かべ、彼女は女子の塊の中に紛れていった。


 なんで、あんな事したんだろう?

 いや、それよりも。

 自分の胸の拍動が、治まらない、そんな初めての体験に彼は困惑していた。





 「んぐぅ…………」

 中間点付近の、緩やかだが、長い坂道に差し掛かると、思わず呼吸が乱れ、一気に体の節々が酸素の供給を望んでくる。

 「すっす。はっは。すっす。はっは。」

 鼻鼻、口口。

 吸気吸気、吐気吐気。

 ここは、ペースを少し落として、呼吸のリズムを意識して挽回を図る。

 肝臓が怒り、脇腹に痛みを抱く前に、呼吸を戻しておくのがベストだと判断した。





 5年生に挙がると、新幡 光輝に特技が見つかった。

 そもそも、肥満児であるが、彼は運動が苦手では無かった。

 持久力を有するものは、周囲に一歩出遅れるが、瞬発力が大きな要因となる鉄棒、マット体操、サッカー以外の球技で、小学生の男子では中々お目見え出来ない技を繰り出していたのだ。

 その複雑な系譜は。手先で、頭を介しては何故か出来ないのに。

 身体を動かすならば、理解出来た。


 そうしていると、やがてクラスメイトも彼への態度を改めた。

 特に、彼に好意的に接してくれたのは神花かんばという男子だった。

 二人は、ほぼ毎日学校が終ると、替わり替わり互いの家に遊びに行った。

 新幡 光輝は、初めて学校が楽しくて仕方が無い場所だという事を知った。


 そうこうしていると、あっという間に最上級生である6年生になった。

 その頃には、もう新幡 光輝を「豚」と罵る者もそう居なかった。少なくとも、クラスメイトは、彼の長所を認め。そして、また彼もクラスメイトを信頼していた。

 それが形となり6年生の2学期には、学級委員に推薦された。

 その時の事は、密かに彼自身の誇りだ。


 ちなみに学級委員は、男女で一人ずつ選ばれる。

 その時選ばれた女子は青山と仲の良い細谷ほそやという子だった。


 この時期というのは、丁度女子の方が早く第二次成長期がやってくるので珍しい事ではないが、彼女は新幡 光輝より頭一つ大きかった。


 「ねぇ、新幡は好きな女子居るん? 」


 細谷が突然にそんな事を言いだしたのは、衣替えを直前に控えた放課後の教室だった。


 「なんで、そんな話なん? 」

 今日は、小学生最大のイベント「修学旅行」の為に、二人は残って資料を作成していた。

 陽が終るのが早くなった為か、まだ下校時刻の6時には少しある、だが若干空気が見えにくい靄を掛け始めていた。


 「知らんの? 最近クラスの子ら、修学旅行に向けて告りまくって、カップルになりまくりょうるんよ。」


 さも、当たり前の様に細谷がそう言うから、彼はたまげた。

 「俺ら、まだ小学生で⁉ 」


 「何よ。付き合っとる子なんて、なんぼでも居るんよ?

 青山ちゃんだって、こないだ………」


 彼は、興味の欠片も無かった会話から、ポンッと出て来たその固有名詞に思わず動揺した。


 「えっ⁉ 」

 そして、それが声になって出てしまう。

 その様子に、一瞬は驚いた様に目を開いていた細谷は、厭らしそうに眼を細めて笑った。

 こういう時の女の勘は、ほぼ百で的中するのは、人間の不思議十点に挙げてもいいと思う。

 「ふふ~ん………バスの席表…………あんたに作らせてあげよーか? 」

 思わず、その言葉に度肝が抜かれた。


 「な、なななななななななな。なんでぇ? 」


 「ん? 青山ちゃんの隣になりたくないん? 」


 「………………」


 「べ、別に‼ 」

 もう遅い。

 本当にそうならば、その言葉の前文の沈黙は必要ない。


 細谷は、鼻を鳴らすと、立ち上がった。

 「じゃっ、そういう事でバスの席表は、ヨロシク‼ 」

 そして、教室から出て行ってしまった。


 「……………」

 見下ろした先には、B4用紙に、クラスメンバーの分だけ囲いが書かれたバスの席表。





 「はぁ~…………はぁ~」

 坂が、角度を増してゆく。

 整えた呼吸が、再び大きく乱れ。

 そして、脇腹が悲鳴を挙げた。


 「くっ‼ 」

 それに伴い、奥歯の付け根にもじわじわと鈍痛が走って行く。

 ここが、今回の死への到達点デッドポイントだと、彼は理解した。

 マラソンにしても、なんにしても。

 競技というのは、人生の縮図の様なものだと彼は思っていた。

 どれほど順調に事を成し遂げようとしても、必ず困難や苦痛が途中でやってくる。

 だからこそ本当に、重要なのは。

 その時に、どう立ち向かうか。という事なのだ。


 彼は、手入れをしていない思春期の眉を「キッ」と引き締めると、今一度、鼻呼吸を意識して、力強く一歩を踏み出した。





 「…………ねぇ………」

 細谷が、ボソッと彼にだけ聞こえる様に呟く。


 「なんで、うちの隣があんたなわけ? あんたでかいけぇ、狭いんじゃけど………」

 バスの席順は、公平にくじを作り決めた。

 ただし。学級委員は右寄り最前列に二人。と決定してだ。


 「UNOッ‼ 」

 「マジか~強ええ‼ 」

 後部座席の方で、楽しそうな声が聞こえる。


 「いいの~? 折角のチャンスを~……」

 相変わらずからかう様に、こちらにそう言ってくる細谷に、彼は口を真一文字に結んで抗議した。

運命の時はその少し後に訪れた。


 「せんせ~い。青山さんが酔ったみたいなので、前の人と席代えてあげて下さ~い。」

 バスの至る所で雑談が在る中、彼はその言葉を一語一句聞き逃さなかった。

 「‼ 」


 そして、隣の細谷の顔が目に入る。

 まるで、全てを司った神の様な眼差しで微笑むと。

 「は~い。せんせ~、うちが代わりま~す。」

 と言って、有無を言わさず立ち上がる。

 知らぬ間に、新幡 光輝は彼女の裾を掴んでいたが、一瞬で払い落とされた。


 おまけに去り際「頑張んな」と余計な囁きを残して。


 「ご…………ごめんねぇ…………アラちゃん………」

 顔色が豆腐の様に白くなっている青山を見て、新幡は先の胸の高鳴りを後悔した。こんなに彼女が苦しそうなのに、自分は何を期待していたのかと。


 「……? 」

 俯いていた彼女が、不思議そうにこちらを見たので、彼も何事かと周囲を見る。

 「あっ⁈ 」

 全く自然で気付かなかった。己の左手が彼女の背へ向かい、何度も何度もその小さな背を撫でていたのだ。

 「ごめっ‼ 」慌てて手をどけると、彼女は白い顔で笑ってみせた。

 「ううん………ありがとね。アラちゃんは優しいね。」


 彼は。

 彼は、生まれての間の幸福が。

 この僅かな時間。その全てに集約されているのかもしれないと思った。

 左の掌を通して伝わる、彼女の熱が。呼吸の度上下する、その小さな背中が。


 願うならば、この時よ、ずっと続け。

 でも、彼女のバス酔いは早く治してあげて。

 何度も何度も、心の中で呟いた。

 そして認めた。

 彼女が愛おしい。

 自分は彼女に捧げている。心の真ん中を捧げている。





 苦しみは坂を抜けても続く。

 周囲を見渡すと、それは自分だけでない、皆走るペースを落としている。

 人は、不思議なもので、周りが何か行動を起こすと、それに倣う様に行動をする。集団効果と言うやつだ。

 だからこそ。

 誰かを抜きんでるのならば、この時に動かなければならない。

 皆が同じく苦しみ、もがいている今。この時こそが。

 更なる苦しみを受け入れ、先へと進む。その入り口。

 「ふぅっ‼ 」

 新幡 光輝は意を決すると、両の脚を懸命に漕ぎだす。

 一人、また一人と抜いていくと、背後に恨めしそうな息の音が残った。





 バレンタインデー。

 新幡 光輝が物心ついた頃には、この文化は既に社会に浸透していた。

 彼は、チョコは歯にくっつく事もあり、どちらかと言うと好きではなかった。だから毎年この日は祖母に貰うチョコを一ヵ月程かけて食べるというだけのイベントと考えていた。


 でもでも⁉

 この年は違うのではないか?

 彼がお腹を揺らし、期待で更に胸を膨らませたのは理由があった。

 あの、修学旅行の一件以来。新幡 光輝は、青山と毎日何らかの言葉を交わした。

 ただの挨拶だったり。

 ただTV番組の話だったり。

 その程度のものだが。

 それが、青山。という彼にとっての付加要素が加わるならば。

 最早、進展を期待するな。という方が無理な話である。


 「ねえ、新幡? 」

 「はいっ⁉ 」

 明らかに、普段と違う反応に、声を掛けた細谷も思わずのけぞる。

 「男子って、本当馬鹿ね~

 そんなに普段と違って、そわそわそわそわしてたら、こっちに何考えてるかバレバレだっつーの。

 女子に興味無さそうだったあんたまで、そんなだと、マジきもいわ~。」


 「…………わざわざ、それ言いに? 」

 「ほら。」

 そう言って、細谷がリボン付けされた小さなフィルム袋を渡す。

 「お返しは、三倍返しな。」

 思わず、目を皿にして、それを眺めた。

 予想にしていない相手から。初めて手渡された黒色の甘いお菓子。


 「…………い、いらない……」

 心中から沸く欲望を抑えて、彼はそう言った。

 「はぁ⁉ 」細谷が大声で威嚇する様にそう言った。

 「も、貰いたい人以外からは………貰わない………」

 そして、なお、そう続ける彼の言葉の真意を探る様に、彼女は差し出していたチョコを引く。

 「あんたね~…………まぁ……いいや。

 でも、あんまり好きな女子以外にそういう失礼な態度だと、好きな子にもいい風には思われんよ。」

 細谷は、そう言うと、何事も無かったようにその場を去った。


 結局、今年も彼は、チョコを貰わず帰宅した。

 彼女は、きっと学校の規則に従ってチョコなんて持ってこなかったんだ。彼はその勝手な予想を疑いもなく信用した。

 少し、細谷のチョコに未練が残っていたのは、言わずにおこう。





 競技を人生の縮図と、前述したが。

 彼の人生にとっての死への到達点デッドポイントは、この後にやってきた。


 季節が、一つ動き、陽の暖かみが自覚出来るようになった頃。

 彼は中学生となっていた。

 新しいクラスは、知らない他校の小学校から来た者で溢れ、見覚えのある顔は女子に数名居た位だ。

 その中に、青山の姿は無かった。

 よりにもよって、彼女のクラスとは最大級に離れてしまった。

 1組と5組。

 別の棟になる程の距離はまるで、天の川のそれよりも遠く感じる。


 だが、それを「よかった」と思うのは間もなくの事であった。


 入学して早々。

 彼はクラスの男子のからかいの標的となる。

 最大の原因は、当時で85キロとなっていた、その体型であった。

 「デブ」

 「汗くせーんだよ」

 「喋んな」

 その罵倒の多くは、個人が特定出来ない様な方法で伝えられる。

 彼には、何故太っているだけで、そこまで他者から虐げられなければいけないのか。悔しかった。自分の外見だけで、自分の価値が決まってしまう。2年前に克服出来た事が。何故、成長した今にもう一度起こるのか。理由が知りたかった。


 否。

 そこに、本当の意味で理由は無い。

 集団行動において、他者が、特定の相手の発言力や、権力を制圧しようと仲間内で行動する事は、生物の本能だ。

 その中で、最も弱所が解りやすい場所に見えていた彼に白羽の矢が立ったのだ。ただ。それだけの事だ。

 いじめとは、そんな理不尽なきっかけからも始まる。


 先の見えない暗闇は、唯々不安で恐ろしい。

 彼は、それから周囲の同級生と会話を全くしない様になった。






 「はっ‼ はっ‼ 」

 脳内のアドレナリンの分泌とか。そんなものを自覚出来る瞬間があればいいのに。

 新幡 光輝はそんな事を思いながら、その苦痛を真っ正面から受け入れる。

 「頑張れ~」その声の方を見る。

 走っている場所は、丁度住宅地に入っていた。

 そこの住人が玄関先に出て、走り行く生徒に声を掛けている。


 「頑張れ~」

 その言葉を聞くとズキリと、彼の心は痛む。

 だが。その痛みが。

 この日に賭けて来た、彼の全てを思い出させる。

 「はっ‼ はっ‼ 」

 もう一度、ペースを上げる。

 景色が重なる。

 1年前のあの日が。

 彼に走る気力を再度、甦らせる。





 中学2年になった時。彼に転機が訪れた。

 クラス替えで、小学生の頃仲の良かった神花君と同じクラスになったのだ。

 「よう。」

 「おはよう。」

 その位の会話しかなかったが、誰かと話す。という事は周囲に与える印象が違う。

 1年ぶりに、彼は人として扱われた事に、嬉しさが込み上げていた。


 冬。毎年恒例のマラソンが体育の授業で行われた。休めば単位が貰えない事もあり、皆渋々と参加する。

 そんな嫌な空気の中、加えて最悪な情報が伝えられた。

 2年生から、男子の走る距離が2キロから4キロに大幅増加されるというのだ。

 冗談では無かった。2キロでも気が遠くなりそうだったのに、倍増だのと。


 その思い通り、新幡 光輝は中盤から皆に置いてけぼりにされ、最下位を独走していた。

 必死で足を動かすが、僅かしか前に進まない。

 動けば股が擦れる度に痛みが走り、それが更に歩行を妨げる。


 「が~~‼ は~~~‼ が~~~‼ は~~~‼ 」

 土木作業機械の様な、荒々しい呼吸音が辺りに響く。

 その時だった。


 「頑張れ‼ アラちゃんっ‼ 」

 その声と同時にバシっと肩を誰かに叩かれた。

 そして、直後その人物が、軽い足音と共に、前方に姿を見せる。

 「あ……………」

 それは、彼がずっと想い続けていた少女。2年ぶりに見た彼女は、少し輪郭がシャープになり大人っぽさを匂わせていた。

 女子は、男子の20分後にスタートした筈だ。男子の半分の距離の為、お互いが道で重なる事を避ける為の配慮だが………

 新幡 光輝は、初めて己の怠惰によって蓄えた脂肪を恥じた。

 後悔した。

 彼女は、悪気など無い。むしろ、純粋に彼を応援するつもりで、その肩を叩いたのだろう。だが。それは。

 彼の一番柔らかく。

 一番奥にあった物を。

 大きく大きく抉り裂いた。


 帰宅後、家のベッドで枕を一頻り濡らした後。

 彼は、決意した。


 「自分を変えよう」


 嫌だった。

 追い抜かれるのが嫌だった。

 おいて行かれるのが嫌だった。

 彼女の前で、情けない姿を晒すのが嫌だった。

 好きな。

 好きな女に敗けるのが。

 男として、嫌だった。


 まだ、暗がりの、普段の表情とは違う家の周りを。次の日から彼は走った。

 意外にも苦しいのは最初の三日だけ。

 二週間も続ける頃には、逆に走る事を身体が急かすように感じた。

 その頃から、今日こんにちまで。

 両の脹脛の筋肉痛が治まる日が無かった。

 それは、彼が。

 新幡 光輝の決意が。

 本物である証明。

 彼の青山への想いが。

 真摯である…………覚悟。

 雨の日も。

 雪の日も。


 季節は巡る。

 周囲に色とりどりの花が目を奪おうとしても。

 業火の様な熱が肌を焼こうとも。

 そして、その暑さを越え、寂しさを伝える肌寒さと、虫の音色が響く頃。


 昨年まで、その身体に垂れ下がっていた贅肉は、流した汗と、大きくなった筋肉に引き延ばされ。

 彼の輪郭を変えていった。

 それは、肥満体をいじめの対象にされていた時にさえ。

 死への到達点デッドポイントと比喩したあの時でさえ。

 思っても、達成出来なかった。何年も付き合っていた。己の肉体との決別。



 新幡 光輝は、笑っていた。

 不思議なものだと思った。

 何故、そうなのだろう?

 困難、苦難、苦境、悲壮。

 苦しみは幸福を表す状況の前に訪れるのだろうか。

 

 彼は、自己啓発の言葉が嫌いだ。

 まるで、見透かしたかのように、自分を知らない他者が、道を示すなどおごがましい。

 だが、一つ。

 一つだけ…………実体験を基に共感した事が有る。


 苦しい事が先に無ければ。

 人は、それから逃げてしまう。

 苦しい事の後に、それを乗り越えた者だけが得られるものが在るからこそ。

 人は、それに立ち向かえるのだ。と。


 彼は、笑っていた。

 本当に、似ている。そう、思い。笑っていた。

 人生と競技はそっくりだ。


 マラソンにも、それは先に訪れる。

 身体の臓器が悲鳴を挙げる死の到達点。これが、マラソンという競技の避けては通れない苦難。

 だが。

 存在するのだ。

 それを乗り越えた先に。

 そう。死を越えた先。

 死へ到達し、それでも前へ。前へ。

 進んだ者にしか開けられぬ

 窓。


 復活の窓セカンドウィンドウ


 身体が「無理をするな」と脳に送った命令に対し。

 「無理を通させてくれ」と、脳が、いや。

 心が。

 懇願した時。

 身体はその願いを聞き届ける。


 先程までの苦しみが消える。

 まるで、鎖に縛られたように重かった、己の身体が。

 跳ぶ様に軽い。

 「すっす。はっは。すっす。はっは。」

 ペースを上げ、次々と前の走者を追い抜いていく。


 見える。




 それは、彼の体系の変化が、はっきりと他者にも確認出来た頃。

 クラブに入っていなかった新幡 光輝は、図書室の片付けの手伝いをしていた。

 傍から見ていた頃には何とも思っていなかったその本の量は凄まじく。

 半分に満たない作業でも彼は、下着のシャツにべっとりとした湿気を感じた。

 変わったばかりの冬服は、まだ暑い。

 涼風を求めて、窓辺に立った時。

 それは見えた。



 それは、どれ程に離れた距離だったのだろう。

 遥かに離れているのに。

 とても、嬉しそうに笑う表情が、はっきりと見えた。

 手を伸ばせば、握れそうなその可憐な掌は。

 隣の男子生徒の右手に包まれていた。


 涼風は、秋と冬の予感を歌う。それは、物寂しそうに呟く独り言の様に。


 


 「すっす。はっは。すっす。はっは。」


 ――だ~~れだ?


 「すっす。はっは。すっす。はっは。」


 ――また、2年間。よろしくネ。


 「すっす。はっは。すっす。はっは。」


 ――ありがとね、アラちゃん


 「すっす。はっは。すっす。はっは。」



 この気持ちを。


 この想いを。


 伝えていれば?

 ナニカは変わったのだろうか?


 自分を変えるだけでも、何年もくすぶり。

 ようやっと1年も掛けて変えれた自分が。


 果たして、何か出来たのだろうか?


 彼女のあの顔を見れば。

 これで、よかったんだ。

 その結論しか浮かばない。


 だのに、そう思おうとも。

 胸が痛い。


 まるで、鳩尾に心臓が落ちた様に。

 体の中心が、泣く。


 理解わかっているからこそ。


 隣に居るのが。

 彼女にとって要るのが。


 自分ではないと。


 知っているからこそ。


 そして。


 もう、それは引き返せないと――苦しむからこそ。


 瞼を閉じれば、浮かび上がる。幼く、儚い一方的な感情で一喜一憂したあの日。

 毎日が、楽しかった。

 彼女と何気ない話の出来る、日々が。本当に充実していた。

 永遠に、自分と同じように。

 彼女が立ち止まっているだなんて。

 在り得ない事なのに。

 

 でも

 でも。

 ありがとう。


 新幡 光輝は恋をしていた。

 それは、誰しもに訪れる。

 少年から。子どもから、成長を果たす為の淡く、情熱的な生命力。


 初恋。




 新幡 光輝は、走っていた。

 目の前には穏やかな光が見える。

 ふと、後ろを振り返ると。

 あの日の自分が、寂しそうにも見える瞳でこちらを見つめていた。

 少しの間、その眼差しを交わす。

 だが、もう迷わない。

 彼は、前に向きなおると、それを振り切る様に、歩を進める。


 これを走り終えたら。

 また、今の自分は過去の自分となる。

 人は――自分は変われるのだろうか?

 いや。

 変わるのだろう。

 願わくば。

 これを走り終えた時。

 この想いよ。

 二度と、溢れ出ぬ様。

 心の中へ。

 そして、醜き嫉妬心よ。

 祝福の感情へと。


 変われ‼



 新幡 光輝は思い返していた。


 薄暗くなった一人の教室。

 机に置かれたB4用紙に書き込まれた、28個の空白。

 指で描くは。

 隣接するその二つに。

 己と彼女の………苗字を……


 伝える方法を知らなかった。

 伝える恐怖に打ち勝つ勇気を持っていなかった。


 全力の努力が、全て報われない。

 それが、人生の残酷さであり、理不尽さだ。

 それを知れた時。

 きっと。人は。



 新幡 光輝は走っていた。

 爽やかな汗と、その時にしか心に滞在しない感情のうねりの中を。

 新幡 光輝は走っていた。


 子どもと大人の中間点。

 肉体と精神が追い付かぬ。パズルの様な複雑な時軸。

 15歳。

 新幡 光輝は駆けていた。

 青春を駆けていた。



 ――ズキンッ

 1年間、我儘に付き合ってくれた脹脛が限界を……脈打つような痛みで伝えてくる。


 ――もう少しだから

 彼は、一瞬苦痛に顔を歪めたが、最後の角を曲がり、校門が見えると、自分の四肢を目一杯回転させた。



 「が…………頑張れ‼ 新幡‼ 」


 校門に立っていた数人の教師の中から、一人がそう彼に叫んだ。


 教師にとってその姿は、感動と尊敬でしかなかった。

 たった、1年前。

 何分も後に走り始めた半分の距離の女子、その大半にも追い抜かされて戻ってきた少年が。

 あの、情けなさそうに、俯き。泣きそうな瞳でこの門を潜った少年が。


 堂々と走るその姿へ――‼


 校門を抜けると、グラウンドまで、2つの学び舎を越えていく。

 そこを越えた時、場にざわめきが起きた。


 男子の先頭数名がゴールしたら、女子がスタートするようになっており、彼女達は気怠そうにグラウンドをブラブラとしていたから。


 だのに、あまりに予想よりも早く男子の一人が戻ってきたから。

 しかも、その人物が。

 誰もが思いもつかない者だったから。


 「アラちゃん? 」


 ――新幡 光輝は気付かなかった。

 一瞬交わった視線。

 何よりも、嬉しかったその眼差し。


 それよりも、今は。

 ゴールしか、彼の眼には写らなかった。


 1番になる事が、目的ではない。

 それは、ついてくる結果にしか過ぎない。

 だけど、その結果が与えられても、彼は驚く事は無いだろう。

 自分の想いの大きさが。その結果をもたらすと。

 信じていた。


 さぁ――

 新幡 光輝はゴールを。汗で引っ付く前髪の先に遂に捉えた。

 ゴールを迎える事で、この凝縮された苦しみを帯びた競技は終わる。

 だけど。

 彼にとって、これは新たな始まりの通過点でしかない。

 これから、こんなものではない苦しみも。

 そして、幸福も沢山迎え入れる事だろう。


 あぁ………‼ ――

 人は、生きているだけでは成長出来ない。

 身体は大きくなるかもしれないが、それは本当の意味の成長では決してない。

 何度も。

 何度も何度も。

 行動を起こして。

 少しずつ進んでいくんだ。


 彼は、とうとう、そこまで来た。

 新幡 光輝は、走りきろうとしている。

 奇しくも、その距離は。

 あと一歩で届くその距離は。


 あの日、教室で埋めたバスの座席表。

 彼が恨めしそうに見下ろした。記された二人の名の距離。



 それと


 同じであった。





 残り。

 15センチメートル。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る