第36話

 咄嗟に伏せるが、さほどの意味はなかっただろう。余韻が雨音で消される中、その代わりとばかりに、木や石の砕片が雨粒に混ざって降り注いだ。水の張られた地面に身体をべったりとくっ付けた千聡も、その不快感より先に、頭に小石の当たった痛みを覚える。

 見上げれば、通り過ぎようとしていた民家の屋根が、またしても粉々に砕かれていた。

「コケグマなんかよりずっと強そうね……」

 今回は屋根が盾となってくれたようだが、あんなものが人間に直撃したらどうなるか、考えるまでもない。戦車の大砲が当たったらどうなると思う? と聞くようなものだ。

 ――それでも兵士たちがすぐに追走を再開したのは、彼らの愛国心の賜物か、あるいは戦わなければどうせ死ぬという、ある種の命惜しさか。

 いずれにせよスライムはさらに逃げながら、また何度か水の大砲を撃ち込んできた。

 狭い道の両端を建物が埋め尽くしているため、どれも地面まで届かず、建物の屋根を破壊するだけに留まったのは幸いだろう。

 いや――

(本当に?)

 千聡は兵士たちに遅れて走りながら、胸中で首を傾げた。

(矢も効かない身体で、あんな絶対的な攻撃力まであって、逃げ回る必要があるの? 達真じゃないんだから、真っ向から戦えばいいはずよ)

 呟いてから、「あ、でも達真は人間なんだから、あれでいいと思うけど」と誰に対してでもなく付け加えるが、さておき。

(何か真っ向から戦えない、致命的な弱点でもあるの? それとも……別の目的がある?)

 千聡がその考えに確信を持ったのは、兵士までもが屋根の上に現れた時のことだった。

 魔物を追って先回りした別働隊だろう。

 彼らは進攻方向を読み、その前に顔を出したのだ。

 物言わぬ軟体生物は、それでも感情はあるのか喫驚したように動きを止めた。

 そしてその隙に――屋根に上った兵士たちが機敏な動作で、何かを投げつける。

 鉈のような刃物だったのだろう。それは雨を蹴散らしながら回転し、放たれた二本のうち一本が、スライムの腕を切り飛ばした。

 ばぢゅっと水を叩いたような音が響き、裂かれた腕が千聡たちの立つ石畳の上に落ちる。

 「おお!」と歓声じみた声を上げたのは地上の隊長や兵士たちである。魔物に確かなダメージを与え、光明を得たという様子だった。

 しかし――

「…………」

 スライムはやはり無言のまま、ただ腕を失った肩を僅かに持ち上げた。

 すると次の瞬間、降りしきる雨の一部が急速にスライムの方へと吸い寄せられると、千切られた腕と同じ形に固まってその身体にくっ付いた。

「な……馬鹿な!」

 隊長が声を上げる。見てみれば、地面に落ちた腕は湛えられた雨粒の中に溶け、消えていくところだった。

 そして新たな腕を得たスライムは、そのまま反撃に転じる――かと思いきや。

 くるりと踵を返すと、屋根を破壊した家の中に飛び降りた。今度はその家の壁を粉砕して、通りへと逃げていく。

「くっ……しかし奴は地上に降りた! 今こそ好機だ!」

 無理矢理に鼓舞しながら、再び追いかけっこが始まろうとする。

 その光景をどこか遠くに見つめながら、

(なるほど――あのスライムは最初から屋根を壊していたのね)

 千聡はようやく、魔物の思惑に感付いた。

(そうじゃないといけなかった。スライムが、”自分の世界”を広げるために)

 思わず、ニヤリとする。千聡は急ぎ、少し遅れて隊長の後を追った。

 ばちゃばちゃと濡れた地面を踏みつけながら、焦燥と苦悩の気配を発する、中年の兵に追いつく。

 そして横に並んだ時、千聡は不敵に声をかけた。

「隊長。あれを倒すために用意するものは、二つです」

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