第35話
外へ出ると、雨が降っていた。
暗雲と、降り注ぐ水と、跳ね回る飛沫のせいで、数メートルも離れればぼやけてしまうほどの、大雨だ。
石畳の道は全体に薄く水が張られ、ずあああああっとテレビの砂嵐のような、耳障りな音が町を包み込んでいる。
それに抵抗するように、響くのは悲鳴と怒号だった。
住民が恐怖に金切り声を上げ、兵士が吼え猛っている。
何が起きているのか――千聡は騒乱の渦中へと近付いても、悪化した視界と聴界のせいで、すぐには把握できなかった。
ハッキリと理解したのは、店も人もない町の大通りで戦闘陣形を組んでいる、兵士たちの中に混じった時だ。
十数人ほどだろう。彼らがなぜか一様に上を向く中、その視線を追うと、通りに沿った一つの民家の上に、奇妙な影が見えた。
直感的に人間だと判断するが、違う――
輪郭だけは確か人間だが、それは腐蝕したような深い青緑色の体表をしていたのだ。
そもそも、体表かどうかもわからない。
表皮自体があるのかどうか。その生物には眼球がなく、空洞の眼窩だけが空いていた。口も鼻もなく、眼窩以外はのっぺりとした平面の顔だ。
「スライム……!?」
千聡はそう理解した。同時に、
「矢を放てー!」
号令が、激しい雨音の中で響き渡る。
同時に兵士たちが一切に弓を構え、屋根の上で挑発するスライムに向けて、矢を放った。
狙いは正確である。十を超える矢の、ほとんど全てが正しく標的に向かっていき――当のスライムは避ける間もなく、串刺しにされた。身体のどこに命中した矢も、全て身体を貫通する。
が……やはりというべきか。スライムは一瞬だけ穴を空けたものの、溶けた身体が流れ出て、すぐにその空洞を埋めた。
「くそ、やはりダメか!」
口惜しそうにしたのは先ほど号令を発したのと同じ、肩書きで言えば”隊長”だろう。くすんだ銀色の鎧を纏う兵士たちのうち、彼だけが背に赤いマントを羽織っていた。今は水に濡れて萎れている。
そんな彼の声に反応したわけではないだろうが。
次いで動いたのはスライムの方だった。
僅かに身を屈めて、腕を広げる。すると……風が吹き荒れたように思えた。
実際には無風である。しかし降りしきる雨粒が、急に向きを変えたのだ。地面から、スライムの元へと。
今までよりもさらに大量の雨を受けて、その身体が一回り膨れたように見える。瞬間、叫んだのは隊長の方だった。
「まずい、くるぞ! 退避ー!」
なんのことかと――訝る暇もなかった。
スライムは顔を上げると同時に、口から何かを吐き出した。
それが巨大な水の弾丸であることは、近くの民家の屋根に着弾し、強烈に弾け散った時に理解できた。大量の水を撒き散らしながら、まるで爆弾のように破裂し、そして実際、爆弾のように屋根を粉々に吹き飛ばしたのだ。
「な、何よ、あれは」
流石に脅威を覚え、呟く千聡。
兵士たちは、何度かそれを目撃していたのかもしれない。しかしそれでも、改めて恐怖したように息を呑んでいる。
「…………」
そうするうちに。スライムは全く無言のまま、不意にくるりと背を向けた。そして屋根から屋根へと飛び移り、大通りから離れるように遠ざかっていく。
「なっ……待て! 追え、追えー!」
隊長が慌てて剣を掲げて号令を発し、同時に自分もスライムを追いかけ始める。
「あ、待ってください!」
千聡は当然兵士ではないが、怖気を振り払ってそれに続いた。
細い脇道を窮屈に駆けていく兵士たちの背を見ながら、最後尾にいる隊長と並走する。
「あのっ、ちょっと、聞きたいことがあるんですけど」
「む? なんだ、貴殿は。民間人は速やかに避難するんだ!」
話しかけると、隊長は駆け続けるまま、首だけをこちらに向かせた。兜のせいで人相がわかりにくいが、中年の頃合だろう。厳つい顎が見て取れる。
ともかく千聡は、雨粒を追い払うようにぶんぶんと首を横に振った。
「私は、えぇと……勇者なんです! 異世界から妖怪、いえ妖精に連れられてこの世界へ来ました。国王との謁見中、魔物出現の報せを聞き、国王がショックで笑顔のまま気を失ったため、独断で駆けつけた次第です」
「おお! 貴殿が勇者殿であったか」
多少の嘘は方便だと、千聡は割り切って頷いた。隊長はあっさり信じてくれたらしい。「しかし意外だな。姿を見せぬ異世界の勇者というから、きっと奇行にまみれた不審な男だろうと思っていたのだが」などと言ってくるが、無視して話を続ける。
「やはり、出現した魔物というのはあのスライムなんですね?」
「ああ。あれは南部の川辺に巣食った魔物で、奴の周囲は常に雨が降り注ぐ。自分の力を最大限発揮するために、そうした魔法を使っているのだろう」
「魔法で雨を?」
見上げる。そうするのも辛いほどの土砂降りだが、全てを溶かす強酸の雨などではない。ただの水だ。
しかしその効力というのは、先ほど見せ付けられた。あの攻撃を行うために、大量の水が必要ということだろうか。
直後――ずがんっ! という爆音が頭上で鳴り響いた。
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