第30話

「んむおああぁ!?」

 触れ合った唇を引き剥がし、慌てて飛び退いたのは達真の方だった。

 いつの間にか、突風は嘘のように収まっている。

 そのことに気付いたのは離れた後だったが。

 しかしふたりの間に全く別の、奇妙な大気の流動めいたものが生まれたのを、達真は感じ取った――達真が「うげえ」と唾を吐こうとする中、楓の方は口元を押さえ、頬を赤らめながら目を逸らしていたのだ。

 それは嫌悪というより……恥じらいだった。

「え、お前……」

 混乱する事態の中に、さらなる大きな混乱が、達真の上に圧し掛かった。

 先ほどの異常な突風などより深い恐怖の想像を抱き、さあっと血の気が引いていく。冷や汗が滲むのを感じ、指差す手が震えた。

 自分の唇同士を触れさせるのも嫌で、口を半開きにさせたまま、恐る恐る声を絞り出す。

「お前……まさか、そういう趣味があるのか?」

 聞くこともまた恐怖だった。そしてそれは、楓がちらりと向けてきた潤む視線によって、なおさら拍車をかけられた。

 彼は恥じらいのままに言ってくる――

「そりゃ……オレだって、こういうことを妄想する時だってあったんだ。それを、こういきなりとなると、流石に……」

「…………」

 達真は、絶望的な顔で硬直した。頭の中が真っ白になる。対処や対応など何も思いつけず、混乱と恐怖ばかりが頭の中を渦巻いて、声は出ないし身体は動かなかった。

 そんな達真の状況をどう捉えたのか、楓が言い訳のように続けてくる。普段のクールな声を崩しながら。

「し、仕方ないだろう。オレは別に、女としての恥じらいを捨てているわけじゃない。もちろん今の目標は悪の根絶だが、それが成された暁には、と考えたっていいだろう」

「…………」

 その瞬間。しかし今度の沈黙は、少し意味が違うものだった。驚愕というより、理解が追い付かない。

 やがて……どれほどの時間か。

 数時間、数年、数世紀。達真の中ではそれくらいに思えた。

 少なくとも地球を何周か、あるいはもっと、地球と異世界とを走って何往復かした気分で、ようやく口を開いた。

「……お前、女なのか!?」

「なぜ驚く? 当たり前だろう」

「当たり前か!? いや、だって聞いてないし……」

「わざわざ自己紹介に性別を含める奴がいるか? そこにいる幼馴染に性別を聞いたことなどないだろう?」

「でも制服が」

 心外だというような顔をする楓の身体を指差す。彼――彼女? は、やはり達真と同じ、男子用の制服に身を包んでいた。

 しかし彼女――彼? は、やはり当たり前のことを言うようにそれを摘み上げて、

「女子制服を着ていたら生活指導の教師に怒られたんだ。ちゃんと男の制服を着ろ、って」

「大問題じゃねえのか、それは……」

 彼女――でいいだろう、もう――は気にしていなかったらしく、それ以来、素直に男子用の制服を着るようにしたらしい。本人もその方が趣味に合うとかなんとか言っていたが。

「ベルトも叱られたが、これはどうあっても外れなくてな。時々は不便だが、まあこれもオレの趣味に合うから問題ない」

 もはや性別の話は終わりだというように、楓は雑談めいて付け足してくる。

 もちろん、達真の耳にはそんなもの入ってこなかった。もはや呆れるやら驚くやら混乱するやらばかりで、どうしたものかと千聡に意見を求めようと振り向く。

 と、幼馴染の顔を見た時。達真はハッと、楓とのキスを思い出して慌てふためいた。

「あ! 違うんだ、千聡! さっきのは不可抗力であってだな!」

「?」

 誤解だ、と言うが……彼女はそんな狼狽とは無関係に、ただきょとんと首を傾げた。何を慌ててるの? と。

「って、怒らないのか?」

「怒る? 私が? ……なんで?」

「なんでって……そういや理由はわからんけど」

 下手したら理不尽に殴られるのでは、とも思っていたのだが、確かに理由などなかった。

 達真まで首を傾げると、幼馴染は爆発の説明をする時と同じように、人差し指を一本立てて言ってくる。

「結婚してるわけでもないし、他人のそういう行為に怒っていい道理なんてないでしょ。仮に心情的な意味で怒るとしたって、そんなの達真のことが好きな――」

 そこまで言ったところで、彼女はぴたりと動きを止めた。

「……? どうした?」

「な、なにキスしてるのよー!」

「今頃!?」

 結局、理不尽に怒られた。殴られはしなかったが。

 ともあれ。達真は理由がないはずの幼馴染の怒りを静めるのに苦心することになり――最終的には、全ての妖精のせいだということで決着した。

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