第17話
「な……なんだこれ!?」
「だから早く逃げた方がいいって言ったのに」
立ち上がり、奇怪な植物を前に驚愕する間、妖精がひらひらと寄ってきて言う。
「これが、この樹林を支配する魔物です。名前は確か、コケグマとかそんなです」
「誰がコケグマだ!」
叫んだのは当然だが妖精でも、達真でもない。
目の前に立つコケグマ(仮)だった。
彼――だろう、たぶん――は、奥まった細い目をさらに鋭くさせると、蠢くような低い声で言ってくる。
「あぁん? 王国軍が来やがったかと思ったら、ただのガキと悪魔じゃねえか」
「お前、魔物からも悪魔って呼ばれてるのかよ」
「心外ですよ!」
憤慨した様子で、妖精が言う。
「魔物同士の陰口を本人に告げ口したり、異世界にあるトイレの水を、寝てる魔物の口に流し込んだり、背中に本人の恥ずかしい秘密を書いた紙を貼り付けたりしてたくらいで」
そんな悪魔は無視して、達真は魔物の方に注意を向けた。相手も悪魔を無視して、人間という名の獲物を前に舌なめずりをしてみせる。
「王国軍ではないみたいだな。そんな貧弱な身体で、ここに入り込んでくるとはな」
どこかまだ現実感のない、けれどそれでも恐怖と緊張の混ざり合う高揚の中、達真は挑発を受けながら武器を抜いた。
フォーラング国の王都で購入した、剣だ。ただし――それは銀色の刃を見せてはいないし、使用者を守る鞘に収まっていたわけでもない。
「なんだ、それは?」
「見てわかるだろ」
呆気に取られたようなコケグマ(決定)に言われて、達真はあくまでも真剣に返す。
「木剣だ」
「…………」
一瞬の沈黙のあと……
「げはははは! そんなもんで戦おうってのか!」
コケグマは大笑いしてきた。それこそ笑い転げるように身体を曲げ、ねじってみせる。まあ達真も、おおむねそんな反応をされるだろうとは思ってたのが。
しかし仕方ないのだ。なにしろ本物の鉄剣は、重くて振り回せなかったのだから。
それに、そもそも――達真には武器の威力など必要ないと気付いたのだ。
「いかにも弱そうな、違う世界から来たような子供を見つけたら警戒しろって、魔物の世界じゃ言われてないのか?」
「あん? お前なんぞ、警戒する要素が何もねえな」
挑発を返しながら、しかし一応、コケグマは戦闘の体勢を取った。
強靭な腕。強靭な脚。強靭な爪。どこをとっても、一撃でもまともに食らえば身体が千切れ飛ぶに違いない。
しかし、こちらの攻撃も一撃で相手を葬れるはずだった。あとは相手の油断が、リーチの長さや体力、経験など、間違いなく自分よりも勝っている数々の点をどこまで帳消しにしてくれるものか。
「最初はもうちょっと、弱い敵と戦いたかったんだけどな」
達真は緊張の汗を滲ませながら、口の端を引きつらせた。それでも引くわけにはいかない。一撃勝負なら、不利であったとしても不可能ではない。
「つまりは先手必勝ってことだ!」
余裕を見せるコケグマに先んじて、達真は武器を振り被った。
今までとは違う。ただの棒切れではない本当の”武器”を手に、そして本当の”敵”を前に、渾身の力を込めて技を繰り出す。
「必殺、刺枝噴刃(ししふんじん)!」
真っ直ぐに、剣は虚空へと突き立てられた。
コケグマは警戒し、回避しようとしたようだが――油断していたおかげか、遅い。
飛び退くなどより数段早く、樹林は動き始める。
そう、樹林だ。魔物に支配され、魔物を覆い隠す鎧として利用されていた樹林が、今こそ反旗を翻す時だと主命を受けて、動き始めるのだ。
地からは根が、空からは枝が、あるいは舞い散る落ち葉が、土が、大気までもが。全てが魔物を裏切る。
いや、遂に反撃の狼煙を上げて立ち上がり、怒りの刃となって魔物に牙を剥く。
数百の樹木が一斉に、全方位から殺到すれば、もはや逃げることなどできるはずもない。いかに巨体で、強靭であろうとも、その身体は余すところなく、大地の刃に貫かれる他になかった――
「…………」
残るのは、沈黙だけ。
誰もが黙していた。達真も、妖精も、コケグマも。声を発することはできなかった。
当然だろう――何も起きなかったのだから。
「…………」
沈黙。どこまでも沈黙。
ただし達真の沈黙だけは少し意味が違った。
やがて……剣を突き出した格好のまま、首を傾げる。
「あれ?」
「突撃ー!」
わざわざ宣言して、コケグマは言葉通り突撃してきた。
「うわ、ちょ、ちょっと待て、待ってくれええええ!」
達真は悲鳴を上げながら、当然だが即座に逃げ出した。全く何も変わっていない樹林の道を、急速に逃げ戻っていく。
「お、おい妖精、どういうことだ!」
背後から恐ろしい、巨大な足音に追いかけられながら、達真は絶望に声を上げた。
「ちっとも必殺技が発動しなかったぞ!?」
「こうなるんじゃないかと思ってたんですよねー」
妖精は並走するように飛行しながら、気楽な調子で言ってくる。
「勇者様の技って、地球ではなんの効果も発揮しないじゃないですか。だから、勇者様の技が発揮される条件って、世界線を超えること――つまり『違う世界の中でだけ』なんじゃないかなって」
「なんでいまさらそれを言うんだよおおおおお!」
抗議に叫ぶと妖精は「だって間違ってたら恥ずかしいじゃないですかー」などと言い訳したようだったが。
その言葉は正確には耳に入らなかった――なぜならその瞬間、達真の背後で爆発が起こったからだ。
いや、それもまた正確ではない。
爆発したように思えたが、実際にはコケグマが地面を思い切り殴りつけたのだ。
そしてその腕を振る風圧が、土のめくり上げられる衝撃が、達真の身体を僅かに浮き上がるほど吹き飛ばした。
地面を何度か転がって……しかし奇跡的に片膝を付いた状態で止まる、達真。
コケグマが攻撃を外したのは幸運だった。というより、怒るあまりに気が急いていたのだろう。振り返れば魔物は、地面に突き刺さった腕を引き抜き、改めて突撃してこようとするところだった。
「ひー!」
悲鳴を上げて、またしても逃げ出す。爪が掠めたのか、背中がじわじわと痛んだが、今は構っていられない。
横から投げかけられる妖精の暢気な声も構っていられないように思えたが、それは全く重要だった。
「で、どうしますか勇者様?」
「どうもこうもあるか! お前、確かどこでも逃げられるんだろ!?」
「まあ、要するに異世界への扉を開いちゃえばいいわけですからね」
「それだ! 早くそれ、それで逃げよう!」
「えー、でもー」
なんか面白いしーなどと笑った妖精の身体を、走りながら正確に捕まえることができたのも、やはり奇跡的なことだったかもしれない。
あるいは死に物狂いならできることなのか。「ぐぎぇ」と悲鳴を上げる妖精をがくがくと揺らしながら、達真は叫んでいた。
「は・や・く・し・ろー!」
「わがびまじだ」
直後。
背後から、今度こそ間違いない一撃を加えようとする風圧を感じた。
強靭な腕、強靭な爪。それが真っ直ぐに、達真の背中に迫り来て――
またしてもの奇跡は起こらなかった。爪は間違いなく、達真の背中に突き刺さった。
「……!」
鋭い痛みを覚え、悲鳴も上げられず転倒する。前方に身体を投げ出し、ほとんど地面を滑るような格好になった。
ずざざざざざっ! と、達真は身体を擦らせた。その瞬間、背中だけではなく、地面についた頬にも腕にも、引っかくような痛みが走る。
皮が破れ、血が滲んでいた。
樹林の湿った土ではない――そこは、硬いアスファルトの道だった。
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