第15話

 不可解な感触だった。というより、なんの感触もないのが不可解だった。

 抵抗も違和感もなく、暗闇に沈むことも、恐ろしい落下感に襲われることもなく、まさしく扉を通り抜けるのと同じように、達真はただ渦の中を通り抜けた。

 しかしその一瞬で、見慣れた部屋の姿が、全く見たことのない景色へと変貌する。

 ……驚愕するその一歩目の足で、汚らしい犬の尻尾を踏みつけたのはさておき。

「ここが、異世界……フォーラング国」

 犬からどうにか逃げ延びて。ついでに渦を通り抜けた先は町から少し離れた場所だったため、その分を移動して。

 ようやく辿り着いた街並みを見回して、達真は感激とも落胆ともつかない声を上げた。

 町はいかにも中世風の異世界といった見た目である。町の中央から真っ直ぐに、王城まで大通りが続いている。途中に噴水の広場があるくらいで、大して遮るものはない。その脇に地味な色のレンガ造りをした家が並び、枝葉の脇道を作り出していた。

 ただし、露店の類はほとんど見つけられなかった。

 行商が店を広げ、客を呼び込んでいる姿もない。

 通りを歩く間、よくよく見てみれば縄張りを示すようなシートを見つけることはできたが、少なくとも数日以上は動かされた形跡がなかった。

 乾いた風が吹き抜け、シートをはためかせる音を聞きながら、達真はぽつりと呟く。

「なんか……物々しい雰囲気だな」

「そりゃまあ、魔王軍との戦いの真っ最中ですから」

 答えてくる妖精の声は正反対に気楽だった。

 とはいえ、本来の町の雰囲気は彼女のものと同質だったのだろう。物々しさは生来のものではなく、急激にそうした気配を漂わせたために、住民が不安に怯え、縮こまっているのではないかと思えた。

 振り返れば市壁はあるが、達真の住む住宅街でも見られるような石塀を、ほんの少し大きくしただけ、という印象である。兵士が闊歩しているわけでもないというのも、付け焼刃を思わせる要因だった。

「とりあえず、王様に会うべきか」

 そのつもりで大通りを歩いていたのだが。

 呟くと、そこでようやく意図を知ったのか、妖精が言い返してきた。

「あ、たぶん行っても無駄ですよ。わたしがこの前、うっかりベッドから蹴落としちゃって。今は面会謝絶状態ですから」

「何やってんだ!?」

「どうも間が悪いのか、こっちに帰って来るたびに王様を蹴っちゃうんですよねー」

 全く悪気のない様子で、気楽にへらへらとした笑顔を見せてくる。

「ひょっとして町の人が不安がってるのって、王が死にかけてるからなんじゃ……」

 そういえば既に四天王をふたりも倒したはずだし、妖精が言うには、兵士の女も暢気にデートに興じていたはずだ。

 だとしたら、やはり人々を恐怖に陥れる魔物と呼ばれるべきは、この妖精に他ならないということになるが……今は深く考えないでおく。

「しかしどうするかな。生身で戦うんだから、せめてまともな武器くらいは持っておきたいと思ったんだが」

 その辺りのことを王に頼もうと考えていたのだ。なにしろ――

「武器屋に行きたいけどお金がないってことですか?」

 心を読んだように、妖精は聞いてくる。

 そして達真が頷くと、「それなら」と言ってどこからか、いかにも金貨が詰まっていそうな皮袋を取り出してみせた。じゃーんとそれを掲げて、

「わたし、これでも結構貯め込んでるんですよ! 割りまくった窓ガラス代を引いても」

「何してんだかわからんが……それなら丁度よかった。工面してくれ」

「ふふふ……貸してほしいですか?」

 ニヤリと、妖精の顔が歪む。

 緑色の宝石めいた目を薄くして、いかにも不気味な笑顔を作り出された。

「無理難題をふっかけられる予感が……」

「当然です!」

 なぜか嬉々として、彼女が告げてきた。

「というわけで貸してほしければ、三回まわって犬の真似をしてください!」

「お前の無理難題のセンス……!」

 もはや屈辱を通り越した別の感情が生まれるが、妖精はなぜか本気で高笑いしていた。

「さあ、金が欲しいんでしょう? ほらほら」

「痛いっ、痛い! 皮袋で頬を殴るなっ、札束でやるもんだろ!」

「ははははは! これぞ金持ちの愉悦です。さあ勇者様、大人しく言うことを――」

 と言いかけた時。

 遠くからなぜか、ギャンギャンと吠える声が聞こえてきた。

 ふたりで同時に振り向けば、そこには大通りを全力で駆けてくる、ほんの少し前に見た汚らしい犬の姿があった。

「ま、まだ追いかけてきてたのか!?」

 達真が驚愕し、逃げようとするが、犬はそれよりも早く接近して――達真の横を通り過ぎると、妖精に向かって飛び上がった。

「わあああああああ!? な、なんでわたしの方に!?」

 危うく噛み付きから逃れ、しかしなおも諦めない犬に追いかけられ、達真の周りをぐるぐると周り始める。

「こっち来るなー! ワンワン、ワン!」

 威嚇しようとしているのか、吼え猛る妖精。しかし当然だが効果はなく、そのうちに妖精は達真から離れ、追いかけられて町の奥へと消えていった。

「…………」

 達真は呆然と、それを見送って……

 やがて。疲弊した様子で、妖精は空高くから戻ってきた。上に逃げればいいと、ようやく気付いたのだろう。

「はぁ、はぁ……」

「大丈夫か、おい」

「こ、今回だけは、特別に、何もしなくても少し分けてあげます……」

「そりゃどうも……」

 歯形と唾液で汚れた妖精の姿を見て、達真は哀れみながら頷いた。

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