妻の仕合せ

@hondafujio

第1話 挨拶

 こんなものは初めて見た。

 がたんごとんと揺れる列車の中から見るそれは、鉛色で荒々しく今にも僕を食べるんじゃないか、と27年と半年穏やかな太平洋だけを見て育った僕にはばけものに見えた。海といえば、キラキラとどこまでも続く母のようなやさしいものである。僕にとっては。しかし彼女は冬の日本海を愛おしそうに目を細めて口を動かし続けた。

「それでね、おじいさまったら教師を辞めたことを誰にも言わなかったんですって。おばあさまは新婚旅行明けてすぐおじいさまは学校に行くものだと思って用意してたらおじいさまったら『僕は学校を辞めました。』ってひょうひょうと言ったって。おばあさまはそれはびっくりして、今で言う結婚詐欺だわって言うのよ。」

そんな亭主を支えてきた彼女の祖母と少し重たいびっくりするような話を笑ってしゃべれらる彼女は、立派な妻になる雪国の女だなと少し僕の口元が緩むのが自分でも分かった。 

 駅から出ると、暖かった車内から一変、北風が二人を包んだ。

「とても寒いね。同じ日本とは思えないよ。」

「あら、これくらい普通よ。お天気が悪いだけで、寒さは東京の朝とさほど変わらないわ。なによそんなに縮こまって。ふふふ。おばあさまのおうちはね、ここからずうっと奥の浜にあるのよ。町から少し離れたね。」

歩くと時間がかかるからバスで行こうと彼女が言うのでバスに乗ると、21分かかった。すこし、か、歩いて行っていたら何分かかったことだろう。

 ここからすこし歩くのよ、とバス停から雪と深緑に隠れた椿の垣根に沿って坂を下った。積もった雪に足をとられてうまく進めない。しかしどうだ。雛子のぐんぐん進むこと。

「小さいときはね、家族で毎年冬休みはおばあさまのおうちでお正月を過ごしたのよ。2日には父はお仕事のパーティーのために東京に戻ってしまったけれど。父はね、おじいさまのファンなのよ。本人たちは大がつくほどの読書家でね、話が合ったみたい。何時間もそれは楽しそうに話し合って。私には永遠にも思えたわ。父は祖父に会うためにここに来ていたのよ。きっと。」

昭和の文豪と呼ばれる彼女の祖父は7年前に亡くなった。寒い寒い冬の日に最愛の妻、祥子夫人に看取られなが静かにこの世を去った、と。当時は大ニュースだった。大胆で過激な文章を書く人だが、本人はいたって真面目で穏やかで人から好かれる聖人君子な人だったという。先生の報せをきいて僕は泣いた。ずっと先生のファンだった。その人柄と書くものとのギャップが僕を惹きつけてならなかった。

「お義父さんが羨ましいな。」

「おじいさまと会えたから?」

「ああ。ああ。僕たちがあと8年早く生まれていればなあ。」

「恭太さんはほんとにおじいさまが好きね。きっとおばあさまも喜んでくれるわ。おばあさまもね、おじいさまのことがほんとに大好きなのよ。ほら!見えたわ。あの家よ。」

彼女の人差し指の先にはなんとも大きな日本家屋がさみしげに海を眺めていた。あれも主を失って悲しいのだろうか。

あの屋敷に一人で住む年老いた貴婦人はもっとさみしいだろうに。


 その家の庭には様々な植物が植えられ、海が見えた。心なしか列車の中で見たそれとは違う、こちらもまた悲しそうな穏やかな海である。海には仕える主人がいたのか。今は雪に覆われているが、春になればさぞかし素晴らしい庭なのだろう。

「おばあさま、本日は結婚の報告に参りましたのよ。こちらが私の夫となる

斎藤恭太さんです。」

「はじめまして。斎藤恭太と申します。」

はて、この後なんて言えばいいのか。僕は困った。もう決まったことを彼女の祖母になんと言えばいいんだろう。本日は良いお天気で、と言えばいいのだろうか。こんな曇りの日に?

「恭太さん。」

「はい。」

「雛子はわがままなところもありますが、しっかりしたいい子に育ちました。どこへ出してもやっていけるように。なにとぞ、末永くよろしくお願いします。」

綺麗に整えた白髪頭。こじんまりしたその体をさらに小さくするように下げた頭。

雛子をどれだけ大切に育ててきたか伝わってくる。僕はこの家族から雛子をもらうんだ。蝶よ花よと育てられた雛子。この家の中を、あの浜を走りまわっていた雛子。ピアノを教えてもらった雛子。先生の本を読破した雛子。雛子をよく知っているこの家が、僕に彼女を託している気がした。

「はい。絶対に幸せにします。」

今はそれしか言えなかった。なにを言ったらいいのかわからないし、なんて言ったらいいのかわからないし。

 でも言ったことを実行しようとは心の中で誓った。

顔をあげた、雛子によく似た目元のおばあさんは、嬉しそうに笑った。可憐なはなのような、さまにヤマトナデシコというべきその人、中村夫人。半世紀後、雛子もこんな風になったらいいな、と思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妻の仕合せ @hondafujio

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る