第七章

 いつもは園バスで通園している綾乃ちゃんを、今日は車で迎えに来ていた美晴さん。


 ちょうど菜々子ちゃんのお迎えにやって来た麻里さんの姿を見つけて、大きな声で呼び止めました。



「麻里ちゃ~ん!」


「あ、晴ちゃん! 珍しいね、今日はお迎えなの?」


「うん。今日の準備で、こっちにお買い物に来たついでにね」



 通常、園庭では、保護者同士『○○ちゃん(くん)ママ』や苗字にさん付けで呼ぶのが定番ですが、こうして下の名前、それもちゃん付けで呼び合うというのは、それだけ相手との距離感が近い証でもあります。


 そんな親し気な麻里さんたちの様子を見逃すはずもなく、少し離れた場所にいたちか子さんは、すぐさまふたりに駆け寄ると、いつもの調子で話しかけてきました。



「な~んだ、オダマリ、こんなとこにいたんだ~!」



 『ちゃん』でも『さん』でもなく、失礼なニックネームで呼ぶというのも、かなりレアなケースではありますが。



「ちか子さん、こんにちは…」



 もう毎度毎度のパターンに、あからさまにうんざりした顔を見せる麻里さん。



「何、何? ふたり、友達? ちょっとオダマリ、紹介してよ~」


「…こちらは、石森さん」


「はじめまして、りす組の石森綾乃の母です」


「どうも~! あたし、こぐま組の堀米月渚の母親で、ちか子っていうの。よろしくね~!」



 いつもながら、初対面の相手に平然とため口で話すちか子さんに、思わず、きょとんとする美晴さん。


 普段、園で会うことがないため、ちか子さんの武勇伝を知らなかった彼女は、儀礼的にご挨拶だけすると、すぐに話の続きを始めてしまったのです。



「それより、今日この後、大丈夫よね? さっき、こうめちゃんからも連絡あって…」


「晴ちゃん、そのことだったら…」


「ちょっと、何、何、何!? 一緒に遊ぶ約束!?」



 当然、それを聞き逃すはずもなく、猛烈な勢いで、ふたりの会話に割り込んで来たちか子さん。


 以前、お友達のお宅に遊びに行く約束をしていた麻里さんに、一緒に連れて行くように言ったのを、『主催者の了解がないと、勝手に誘えないから』と一蹴された一件以来、来る日も来る日も、このチャンスを待っていたのです。



「ね、ね、あたしも一緒に行って良いでしょ!?」


「あのね、ちか子さん、初対面なんだから、いくら何でも、今日これからっていうのは…」



 思わず、そう言いかけた麻里さんに、



「うるさいな! あんたには聞いてないから、黙ってろよ!」



 威圧的な言葉で牽制するちか子さんの剣幕に、一斉に周囲にいたママさんたちの視線が集中したのですが、そんなことはお構いなし。


 一方、何が何だかよく分からないものの、やはり美晴さんとしても、いきなり初対面の人を自宅に招き入れるのには抵抗がありますし、麻里さんの様子から察するに、あまり歓迎していない人物らしいことが伝わってきます。


 そこで、



「ごめんなさいね。今日は、昔からの親しいお友達ばかりで集まるお約束をしているものですから、初めての方だとご一緒に楽しんで頂けないと思うんです。なので、またの機会に、是非」



 そう言って、やんわりとお断りしたのです。…が。



「あ~、大丈夫、大丈夫! あたし、そういうの全然平気だから!」


「え? あの…」



 空気が読めないのか、読めないふりをしているのか、美晴さんの気持ちなど全く意に介さずで、すでに行く気満々のちか子さん。



「家どこ? 何時に行けばいいの? ちょっと、オダマリ、この人ん家の住所教えてよ」


「ちか子さん、いい加減にして。美晴さんも困ってるじゃない」


「はあ? だから、あんたは招待する人じゃないんだし、この人がいいって言ってんだから、問題ないじゃん! ね? そうでしょ!?」


「は、はあ…」


「ね? あたしも行っていいよね? ね? ねって!」


「え… ええ…」


「やったぁ~!」



 その瞬間、固唾を飲んでその状況を見守っていた周囲のママさんたちからは、一斉にため息が漏れました。


 そんなこんなで、半ば無理やりに参加を勝ち取ったちか子さんに、美晴さんは仕方なく自宅の住所を伝え、成り行き上とはいえ、申し訳なさそうな表情をするばかりの麻里さんでした。


 



 麻里さんからの電話で、事の顛末を聞いた私は、すぐさま美晴さんに連絡し、ふたりの事情をざっくりと伝えました。



「了解。そういうことだったのね」


「麻里ちゃんのほうは、私がフォローするから。晴ちゃんは、ちか子さんをマークしておいて」


「マーク??」


「うん。何も起こらなければ良いんだけど、何かやらかしそうな気がするんだよね」


「マーク…」



 念のため、約束の時間より早めに到着したのですが、すでに門の前でウロウロしながら、隙間から美晴さん宅の中の様子を覗き込むように偵察している挙動不審なちか子さん母娘の姿がありました。


 どうやら自宅には戻らずに、幼稚園からそのまま美晴さん宅にやって来たらしく、娘の月渚ちゃんは制服に通園バッグを掛けたままの格好です。


 ガレージに車を停め、彼女を横目に通り過ぎ、シレッとした風を装いながらインターホンを押そうとした私に、凄い勢いで駆け寄って来たちか子さん。



「あ、あのっ!」


「はいっ!?」



 思わずその迫力に仰け反る私に、恐る恐るといった様子で尋ねて来ました。



「ちょっと聞きたいんだけど、ここの石森さん家って、こもれび幼稚園に通ってる、えっと、確か…綾乃って子の家で合ってんの…かな?」



 どうやら、私のことは覚えていないらしく、私も知らないふりをしたまま答えました。



「失礼ですけど、あなたは?」


「今日、幼稚園で、オダマ…友達と一緒に、ここに遊びに来る約束したんだけど」


「それなら、インターホンでお尋ねになれば宜しかったのに?」


「だってさ、まさか自分の知り合いん家が、こんなにでっかい家だと思ってなくて、ホントにここで合ってんのか、心配になってきちゃって」


「そうですか」


「お願い! インターホン押したついでに、あたしのことも言ってくれない?」


「わかりました」



 そうして、私がインターホンを押し、モニター越しに確認した美晴さんが扉を開け、ちか子さん母娘と一緒に中に進みました。


 玄関を入ると、笑顔で私たちを出迎えてくれた美晴さん。



「いらっしゃい! こうめちゃん、この前のパーティーの時は、ありがとうね」


「ううん、こちらこそ。はい、これ、お土産」


「わぁ~嬉しい! いつもありがとう。これ、うちの家族、みんな大好物なのよ」



 私が手土産に持参したバームクーヘンを手渡す様子を、じっと見ていたちか子さん。


 美晴さんは、私たちをリビングに案内して、ソファーに掛けるように勧めると、大人にはハーブティー、子供の月渚ちゃんにはオレンジジュースを出してくれました。



「他のみんなは?」


「こうめちゃんが一番乗りよ」


「ちょっと早かったかな? 何かお手伝いすることがあったら、言ってね」


「ちょうど良かった、それじゃ、お花をお願いしていい?」



 花瓶に飾っている途中のお花を私に託すと、手持ち無沙汰で座っているちか子さんと月渚ちゃんに向かい、



「えっと、堀米さん…でしたっけ? 皆さん初対面の方ばかりですけど、緊張なさらないで、どうぞ楽しんでくださいね」


「うん、ありがと」


「月渚ちゃん、もうすぐうちの子たちも来るから、それまでもう少し、ここでママと待っていてね」


「…!」



 知らないお家に連れて来られ、不安そうな様子で母親の脇に縮こまっている月渚ちゃんに、優しく微笑みながらそう語り掛けたものの、人見知りなのか、余計に後ろに隠れてしまいました。





 そうこうしているうちに約束の時間になり、次々とやって来た面々が楽しそうに挨拶を交わす傍らで、皆からの『誰?』という疑問交じりの会釈に、無言で小さく頭だけを下げるちか子さん。


 皆が持ち寄った手土産が並べられたテーブルをチラ見しながら、少しイライラした様子で、しきりに玄関のほうを気にしていましたが、麻里さんが到着したことを知ると、迎えに出ようとした美晴さんよりも先に玄関まで行き、ドアが開くや否や、



「もう、オダマリ、遅い~! 何やってたんだよ、心配したんだから~!」



 そういうと、麻里さんが持っていた手土産を奪い取るようにして、それを美晴さんに差し出し、



「これ! あたしとオダマ… 麻里からのお土産!」


「え?」


「ふたりで割り勘! そうだよね、オダマリ?」



 あまりに見え透いた言い分に、誰もが次の言葉が見つかりません。





 一般的に、他所のお宅にお呼ばれする際、おもてなしを受けるお礼として手土産をご用意する方は多く、特に初めて伺う際には、お近づきの印と、これからも宜しくという意味を込め、持参するのが好ましいとされてはいます。


 とはいえ、必ず用意しなければならないという決まりはなく、その日は一旦帰り、後日改めて、御礼の一文を添えてお贈りしても構いませんし、勿論、手土産をお渡ししなくても失礼には当たりません。


 ですが、ちか子さんには全くそうしたことが頭になかったようで、私や他のみんなが手土産を渡しているのを見て、これはマズイと思ったのでしょう。


 初対面で好みが分からなかったり、急なことで準備をする時間がなかったなど、理由はいくらでも付けられますので、どうしてもお渡ししたいと思うのであれば、一言用意していなかったことをお詫びして、後日改めてお贈りすれば済むだけなのに、『人の褌で相撲を取る』とはまさに彼女のこと。


 本人は『割り勘』と言っていましたが、多分、後で麻里さんにお土産の自己負担額を清算するつもりなどないことくらい、容易に想像がつきます。


 一応形式上だけでも『自分も手土産を渡した』という既成事実と、本人の自己満足からか、それまで押し黙っていたのが嘘のように、それ以降はやたらと饒舌になり、本領発揮し始めたのです。





 全員が集まり、美晴さんの子供たちも来て、お茶会が始まると、大人たちがお喋りに花を咲かせる傍らで、子供たちは子供同士で遊び始めました。


 とはいえ、今日はママ友の集まりではないため、参加している子供は、颯斗くん、綾乃ちゃん兄妹と、菜々子ちゃん、そして飛び入り参加の月渚ちゃんの4人だけです。


 はじめは恥ずかしそうにモジモジしていた月渚ちゃんも、綾乃ちゃんたちに誘われて遊んでいるうちに、次第に輪に溶け込み、仲良く遊び始めた様子でした。





 我々大人は、先日の披露パーティーや、それぞれの近況などを話していたのですが、初対面で飛び入り参加のちか子さんには、内輪の会話に付いて行けないのではと思いきや、身を乗り出すように話に入り込んでは、話題とは関係ない自分の話を喋る喋る。


 おまけに、本人は軽くツッコミを入れているつもりなのでしょうが、



「マジかよ、バカじゃね!?」


「ざけんなって!」


「嘘だろ!? いっぺん死ねっつーの!」



 と、言葉遣いが悪いこと、この上ありません。


 子供たちが側で聞いているというのに、『バカ』だの『死ね』だの、普段から『絶対に言ってはいけません』と注意しているNGワードの連発なのです。


 強制的に彼女の話を遮って、元の話題に戻しても、また割り込んで来ては同じことを繰り返すばかりで、誰もがうんざりしていました。


 そればかりか、いつの間にかみんなの名前を苗字ではなく、普段私たちが呼び合っているそのままの呼称=美晴さんなら『晴ちゃん』、私なら『こうめちゃん』=で呼び始めたのです(唯一、麻里さんのことだけは、最後まで『オダマリ』のままでしたが)。


 私たちは、それこそまだ学生気分が残る二十代半ばに知り合い、当時からの流れや、長年の親密な関係性があるからこそ故の、お互いの呼び方です。


 普通、この年齢になって、いきなり初対面の人から自分の了解もなく、そんなふうに呼ばれても、驚きと違和感以外の何もありません。ただ一人、ちか子さんを除いて。



「ところでさ~、みんなの旦那って、何の仕事してんの?」



 度重なる空気を読まない質問に、面倒くさいと思いながらも、一応、一人ずつ各自の夫の職業を申告。



「へぇ~。みんな社長さんや大手の重役やってんだ~。いいな~。うちなんて、しがない安月給のサラリーマンだもん。旦那の会社もケチってないで、もっと社員の給料上げろっつーの」


「あの、ちか子さん…!」


「んで? 晴ちゃんちの旦那は?」



 思わず、注意しようとした麻里さんを無視して、美晴さんにそう尋ねたちか子さん。予め、彼女については、美晴さんにも伝えておいて正解でした。


 微妙な空気の中、ちか子さんの問いかけに、無表情で美晴さんが答えました。



「うちは、義父が石森産業っていう会社を経営していて、最近、その経営を主人が引き継いだばかりなの」


「うっそ! マジかよ!? 晴ちゃんの旦那、うちの旦那の会社の社長だったの!?」



 ほら、言わんこっちゃない! と言いたいところですが、そこはちか子さん。



「こんな偶然って、あるだ~! うっわ~!」


「ごめんなさいね、堀米さん。うちの会社、安月給で」



 はっきりと嫌味と取れる美晴さんの返しにも、まるで動じることなく、むしろテンション上は上がる一方で、さらに信じられないことを言い始めたのです。



「ヤダ、謝んないでよ~! あたし全然気にしてないから!」


「はぁ…?」


「うっわ~、良かった~! これも何かのご縁だよね~! うちの旦那のこと、晴ちゃんからも、社長さんに宜しく伝えといてよ~!」


「え…?」


「うちの旦那に感謝して貰わないと! あたしと晴ちゃんが友達になったんだし、これでうちの旦那、出世間違いなしってことだもんね~! あはははは!」


「は、はぁ~??」



 美晴さんが彼女を友達だとは思っていないのは明白。しかも、直接会社には関わっていない妻の立場で、社員の人事に口出しする権限などあるわけがないのですから。





 誰もがあんぐりしている中、今度は、それまで仲良く遊んでいるとばかり思っていた子供たちに揉め事が勃発したらしく、突然声を荒げ始めました。



「でも、これは菜々子のだから」


「ヤダ! 月渚もこれ、欲しいぃ~~!!」


「どうしたの? 喧嘩はやめよう?」



 どうやら、何かを取り合いになっているようで、子供たちの間に割って入った美晴さんが、そう窘めました。


 揉めていたのは、菜々子ちゃんと月渚ちゃん。ふたりの手には、先日の就任披露パーティーで、来賓の幼い女の子たちにプレゼントされた記念品の刺繍のバッグが握られていました。


 同じバッグは綾乃ちゃんも持っており、菜々子ちゃんのバッグを見た綾乃ちゃんが、『お揃いだね』と言って自分のバッグを持ち出して見せたことから、月渚ちゃんが『自分も欲しい』と駄々をこね始め、菜々子ちゃんのバッグを寄越せと言っているらしいのです。


 まだ幼い子供のことですから、ついつい自慢してしまったり、羨ましくて欲しがったりするのは仕方ありません。予備があれば丸く収まるのですが、子供用とはいえ結構高価な物で、該当者分しか発注していませんでした。



「ごめんね、月渚ちゃん。あのバッグは、前にパーティーに来てくれたお友達の分しかないの。だから、我慢してね」


「ヤダ~~!! 月渚もバッグ欲しい~~~!!!」



 そう叫んで、床に寝転がって身を捩りながら大声で泣き喚き、声を掛ければ掛けるほど泣き声を大にし、室内は大音響に包まれました。


 何より、この状況にも関わらず、母親であるちか子さんが、娘の月渚ちゃんに対して、宥めるなり、注意するなりのフォローを一切せず、まるで他人事のように眺めているのには、驚きを隠せません。


 それどころか、泣き叫ぶ月渚ちゃんの甲高い声に、むしろ苛ついているようにさえ見え、この状況に堪えかねた美晴さんが、綾乃ちゃんに言いました。



「ねえ、綾乃、あなたのバッグ、月渚ちゃんにプレゼントしてあげたらどうかな?」


「え~っ!? どうして、綾のバッグなのに~?」


「今度、ママと一緒に別のバッグを買いに行こう? ね? それならいいでしょ?」


「でも~!」



 納得がいかないといった綾乃ちゃんを何とか説き伏せ、バッグを受け取った月渚ちゃんは、それまでの号泣をぴたりと止め、嬉しそうに小脇に抱えてちか子さんに見せに行きました。



「これ、貰った~」


「良かったね。仕舞っておきな~」



 そうして、何事もなかったように、またとりとめのないお喋りを始めたちか子さん。自らお礼の一言もなければ、娘にお礼を言うように進言することもしません。


 綾乃ちゃんにとっては、不本意この上ない状況だというのに、少なくとも問題を起こした張本人の親として、何らかのフォローをして然るべきという考えすら持ち合わせないようで、目に涙を浮かべている綾乃ちゃんが不憫でたまりません。





 すると、そんな綾乃ちゃんの様子を察して、菜々子ちゃんがおもむろに自分のバッグを差し出しました。



「これ、綾乃ちゃんにあげる」



 その言葉に、驚いて、目をぱちくりさせる綾乃ちゃんと私たち。



「でも、そうしたら菜々子ちゃんのバッグがなくなっちゃうよ?」


「いいよ。もし菜々子が使いたくなったら、綾乃ちゃんに貸してもらうから。それならいいでしょ?」


「うん! 勿論よ! あっ!」


「何? やっぱり駄目?」


「違うの、綾が持ってると、不公平になるでしょ? だから、これはママに預かってもらうことにしたらどうかな?」


「菜々子もそれでいい! じゃあ、おばちゃん、これ預かってね」


「はい。じゃあ、確かに預かりました」



 そう言って、大切そうに差し出されたバッグをふたりから受け取った美晴さん。


 今にも泣きそうだった綾乃ちゃんの顔に、パッと笑顔が戻り、幼いふたりのお互いを思い遣る気持ちに、私たち大人も暖かい気持ちになりました。





 何とかその場は丸く収まり、ホッとしたのも束の間。


 当初、緊張して母親の後ろに隠れていた月渚ちゃんでしたが、バッグが欲しいと大泣きし、それを手に入れたことに気を良くしたのか、どんどん行動が大胆になり出したのです。


 並べられたお菓子の中から、自分の好みのものを両手で手掴みし、クリームやかけらが手や服に付こうが、床に落ちようがお構いなし。それをもぐもぐ食べながら、広いお家の中を勝手に歩き回り、じっとしていません。


 そのうちに、勝手に色んなお部屋のドアを開け、中の物を持ち出して来たりし始め、月渚ちゃんが触った部分には、手についたお菓子の油分やクリームがベタベタと付着しています。


 自分が幼稚園の制服のままなのも気に入らないらしく、クローゼットから持ち出した綾乃ちゃんのお洋服を、とっかえひっかえ着替えての『一人ファッションショー』を始めたのですが、大切なお洋服にも、容赦なく汚れがスタンプされてしまいました。


 さすがにこれには美晴さんも、



「月渚ちゃん、他のお部屋の物を持ってくるのはやめようね。遊ぶなら、このお部屋の中だけにしようよ?」



 そう注意しましたが、彼女がきつく叱らないと分かっていて、まるで聞く耳を持ちません。それどころか、さらに調子に乗って、ハイテンションで家中を走り回りはじめたのです。





 そして、事件は起こりました。居間に置かれているピアノの椅子に飛び乗ると、勝手に鍵盤の蓋を開け、お菓子を手掴みしたままで、乱暴に鍵盤を叩き始めたのです。


 瞬時に、室内の空気が凍り付き、私は咄嗟に立ち上がって、月渚ちゃんの脇を抱えて椅子から降ろし、じっと目を見て言いました。



「ピアノは駄目だよ。お菓子は、ママのところで座って食べよう」


「やだ~! 月渚、もっとピアノ弾く~!」


「言うことを聞きなさい。お菓子を触った手で、ピアノに触っては駄目」



 淡々とした口調でぴしゃりと言った私の言葉に、それまで傍若無人だった月渚ちゃんは、ぴたりと行動を止め、伺うように私の顔を覗き込みました。


 そしてもう一人、私に加勢するように、



「やめてよ。このピアノはね、おばあちゃんから貰った、大切なピアノなんだよ」



 そう言ったのは、颯斗くんでした。





 そう、このピアノのオーナーは、颯斗くんのお祖母ちゃん(美晴さんのご主人のお母様)、ベーゼンドルファー社製の高級な年代もので、価格は高級車が軽く買えるほどです。


 彼女自身が幼い頃から愛用していて、孫たちがピアノを始めることになり、今は息子夫婦宅で、颯斗くんと綾乃ちゃんのレッスンに使われていました。


 このピアノの特徴の一つは、鍵盤が象牙で設えてあること。今ではワシントン条約で取り引きが禁止されているため、大変に貴重なものであるうえに、非常にデリケートな材質ですから、乱暴に叩いたり、ましてや汚れた手で触るなんて言語道断です。





 さすがに、私と颯斗くんの二人から言われたこともあり、それまでの勢いはなりを潜め、月渚ちゃんは、母親のちか子さんの後ろに逃げ込みました。


 すると、そこでちか子さんが放った言葉に、一同耳を疑いました。



「まあまあ、こうめちゃんも颯斗くんも、そうカリカリすんなって」


「えっ!?」「ちょっと…!」


「どうせ、鍵盤なんて、はじめっから薄汚れちゃってんじゃん? 晴ちゃん、悪い~、後で雑巾で拭いといて~」



 鍵盤が薄汚れているように見えるのは、象牙が経年変化でそうした風合いになっているからです。もう、ちか子さんとは目も合わせず、応急処置をする美晴さん。


 いずれにしろ、クリームが付いた手で触ったのですから、クリーニングが必要になるでしょうし、自分の娘のしたことを謝罪するどころか、逆にこちらが神経質かのような言われ様に、唖然とするばかりです。


 そして、さらに、



「でもさ、颯斗くんと月渚って、2こ違いじゃん? 将来、結婚とかしたら、いい感じだよね~。ほら、月渚、颯斗くんにアピールしなよ! あんた、将来玉の輿だよ!?」



 もう、これには周囲はドン引き、中でも一番引き攣っていたのは、美晴さんと颯斗くんです。


 ちか子さんに言われ、やたらと接近してくる月渚ちゃんから逃げながら、



「怖いよ~!」



 と、涙声になる颯斗くんを、楽しそうに眺めているちか子さんと、我が子を庇うようにしている美晴さん。


 綾乃ちゃんと菜々子ちゃんは、しっかりと手を繋いでソファーの影に身を潜め、せめてこれ以上、自分たちにとばっちりが来ないようにと距離を置いて見守っていました。


 



 さすがにこの状況では、これ以上お茶会を続けるのは無理だと判断し、お開きにすることになりました。



「何だかバタバタになってしまって、ごめんね」


「ううん」「仕方ないわよ」「気にしないで」


「また今度、改めてみんなで集まりましょう」


「うん、また来る!」



 真っ先にそう答えたちか子さんに、もう誰も驚きもしません。


 そして、テーブルに置かれたままのたくさんのお菓子を指差し、



「ねえ、このお菓子、余ったんなら貰ってって良いよね?」


「え? ええ…」


「サンキュー!」



 すぐさま鞄からレジ袋を取り出すと、美晴さんが用意したものや、皆が持参したお土産のお菓子を、片っ端からひとつ残らず詰め込む始末。


 さらに、車のキーを取り出した麻里さんを見て、



「オダマリ、あんた車で来てんでしょ? 同じ方向なんだから送って」


「ごめんね、チャイルドシートが一つしかないから、送れないわ」


「はあ!? そんなのバレないって! こんなに荷物あるのに、あたしに公共交通機関で帰れとか、ふざけんなって!」



 彼女にとっては、道路交通法違反でさえもお構いなしに、自分の都合が最優先なのでしょう。本当に、絶対に、お友達にはなりたくないタイプです。


 このままだと、麻里さんに圧力を掛けて、無理やり送らせかねないと思った美晴さんが、ちか子さんに言いました。



「じゃあ、タクシーを呼ぶから、それで帰ってください」


「バカじゃねーの? タクシー代が勿体ないじゃん!」


「タクシーチケットを差し上げるから!」


「ん~、まあ、それならいいけど」



 5分ほどでタクシーが到着し、ちか子さん親子が乗り込んだのを確認すると、美晴さんは、



「これでお願いします」



 と、ドライバーさんに直接チケットを手渡しました。


 タクシーはすぐに走りだし、門の外で見送っていた美晴さんは、思わずその場で全身の力が抜けたほど。





 一方、タクシーの中ではしばらく走ったところで、不意にちか子さんがドライバーさんに声を掛けました。



「あのさ、料金は現金で払うから、さっきのチケット、返してくれる?」


「かしこまりました」


「それと、ここから一番近いバス停で降ろして」



 そう言って、チケットを受け取ると、そそくさとお財布に仕舞い込みました。


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