第八章

 美晴さん宅でのお茶会に参加したのを境に、ちか子さんの麻里さんに対する態度は一変しました。


 それまで、幼稚園で執拗に麻里さんを探し回っては、べったりと纏わりついて離れなかったのに、姿を見てもあからさまに無視するようになったちか子さん。どうやら、お茶会に参加したことで、勝手に美晴さんと親しくなったと勘違いしている様子でした。


 さらには、美晴さんのご主人が自分の夫の会社の社長でもあったことから、ちか子さん的には、これで間違いなく夫の出世は約束され、そこにも自分が貢献したと思い込んでいるらしいのです。


 それまで唯一のママ友であり、身勝手な思惑のために、何とかして取り込もうと必死だった麻里さんに対し、もう利用価値がなくなったと言わんばかりのあからさまな態度でした。





 今でも、麻里さんが誰かと話していると、無理やり会話に割り込んで来るのですが、以前のように、自分も輪に入るのが目的だったときとは打って変わり、最近では、他のママさんたちとの会話から、意図的に麻里さんを追い出したり、遠ざけたりしようとしているようでした。


 利用価値がなくなった上に、昔と違い、まったく自分の思い通りにならない麻里さんの存在を、尚更疎ましく思うのと同時に、美晴さんを味方に付けたと勘違いしていることで、マウンティングしようと必死なのでしょう。


 園内では、手当たり次第、顔を合わせる周囲のママさんたちを捕まえては、麻里さんの悪口を吹聴するちか子さんの姿がありました。



「ここだけの話、必死で隠してるみたいだけど、あの女、昔っからクラスの嫌われ者で、全員からハブられてたんだよね~」


「可哀想だと思って、あたしが色々面倒を見てやってたんだけど、ホント性格悪くて、人の悪口を言うのが趣味みたいなとこ、全然変わってないわ~」


「こないだも、あたしの友達ン家のパーティーに来といて、手土産も持って来ない常識のなさとか、あり得ねーって感じ~」



 ですが、他人様にどういう印象を持たれているかということにおいて、日頃の行いは、非常に重要です。


 普段からふたりの様子を見知っている幼稚園のママさんたちからすれば、もし仮に、ちか子さんの話が事実だったとしても、それを信じる人はほぼ皆無なのは言うまでもありません。


 むしろ、ちか子さんのほうこそが、一方的な悪口の流布でしかない言動に、周囲のママさんたちからはさらに敬遠され、園内での彼女の立場は、なお一層孤立するばかりでした。





 そんな、ちか子さんの麻里さんに対する誹謗中傷は、幼稚園の中だけには留まりません。


 町内で井戸端会議をしている人たちを見つけると、顔見知りでもなければ、声を掛けれらてもいないのに、自分からその輪に飛び込んで行き、同じような調子で話し始めるのです。


 一つだけ、幼稚園と町内の井戸端会議とで違うのは、ちか子さんのことをよく知らない人も多く、幼稚園と比べれば横のつながりも希薄な上、年代も多様であるということ。


 大抵の場合、一方的な悪口にはある程度中立的な立場で、話半分に聞くというスタンスの人が大半なのに対し、中にはそういった類のお話が大好物という人もいらっしゃり、そういう人の場合は食いつき方が違います。



「ほほぉ~~! そんな、いけ好かない人かねぇ~、園原さんは~?」


「そうなんだよ、おばあちゃん! 常識ないわ、性格悪いわ、いくらあたしでも面倒看きれねえーっつうか~」



 勿論、そうしたお話に真っ先に飛び着くのは、葛原さんのおばあちゃんです。生粋のネホリーナの血と嗅覚は、大好物を見逃したりは致しません。



「普段は、ちゃんと自分のほうからご挨拶もされるし、清楚で人当たりも良いし、まったくそんなふうには見えなかったけどねぇ~」


「猫被ってんだよ。みんなそれに騙されてんだよね」


「人は見かけに寄らないってことなのかねぇ~。それで? 具体的に、園原さんに何をされたのかね?」


「それがさ~、聞いてよ! あることないこと、みんなに悪口言い触らして、あたしをハブろうとしてんだよ!」


「ハブ…??」


「ああ、仲間外れのこと。んでね、最近じゃ親とつるんで、あの女の娘まで幼稚園でうちの子を仲間外れにしてるんだって! うちの子、泣いちゃってさ~」


「何だって!? あの菜々子ちゃんまでが!? 良い子だと思ってたのに、それは酷いねぇ~!」


「子は親の鏡っていうけど、そういうとこも遺伝するって、怖いね!」



 勿論、麻里さんの娘、菜々子ちゃんが、ちか子さんの娘の月渚ちゃんを仲間外れにしているというのは真っ赤な嘘、本当はその逆で、



「いい、月渚? あんた幼稚園で、菜々子ちゃんと遊ぶんじゃないよ」


「え~? でもぉ~」


「もし、遊ぼうって言って来ても、知らん顔しな。んで、菜々子ちゃんだけ仲間外れにして、他の子と別のとこ行って遊ぶんだよ。いいね?」



 と、むしろちか子さんのほうが月渚ちゃんに、菜々子ちゃんと遊ぶことを禁じ、さらには仲間外れにするよう指示していたのです。



「それだけじゃないんだよ~。あたしのママ友にも、あたしと遊ばないように裏で手を回してさ、マジ、こっちは迷惑してるし」


「へぇ~、ママ友までねぇ~」


「ホント、性格悪いんだ、あの女!」


「これは、えらいことを聞いたものだわ。早速、他に人にも注意するように教えてやらないとねぇ~」



 ネホリーナであると同時に、スピーカーでもあるおばあちゃんの存在は、ちか子さんにとって好都合でした。


 なにしろ、彼女に麻里さんの悪口を言えば、尾ヒレばかりか、背ビレに胸ビレまで付けて周囲にばら撒いてくれるので、手間が省けるというものです。


 正直、麻里さんとしては、ちか子さんに無視されようが、悪口を流布されようが、痛くも痒くもなく、むしろ、彼女からのストーキングがなくなり、心底ホットしているというのが本音でした。


 そんな彼女の態度も、ちか子さんにとっては気に食わないところであり、加えてあまりにもおばあちゃんが興味津々で聞いてくれるものですから、自分に都合よく脚色された悪口は留まるところを知らず、さらに気を良くして、ここぞとばかり言いたい放題。


 今やちか子さんにとって、おばあちゃんは数少ない気の合う友達となり、このふたり、ある意味最強のコンビネーションであり、彼女たちの宴はまさにエンドレスです。





 とはいえ、彼女がそこまで言うのには、ある出来事があったからでした。


 あの日、自分たち母娘の暴走で急遽お茶会がお開きになり、タクシーで帰宅することになったちか子さん。バタバタしていたこともあり、誰一人、連絡先を交換していなかったことを、後になって気付きました。


 仮にそうでなくても、誰も彼女とは交換したくないというのが本音なのですが、そのため、美晴さんに連絡したくても、メアドも電話番号も分かりません。


 園で接触をしようにも、綾乃ちゃんはバス通園ですから、あの日以来、美晴さんが送迎に来ることは一度もなく、他の園ママに尋ねても『知らない』『分からない』とはぐらかされ、教えてくれる人は誰もいませんでした。


 麻里さんなら間違いなく知っているはずですが、プライドが邪魔をして彼女にだけは訊けず、たとえ訊いたところで、まず答えないだろうことは分かりきっています。



 唯一知っているのは、自宅の場所だけ。



 そこで、ちか子さんは以前、麻里さんにしていたのと同様に、月渚ちゃんを連れ、アポなしで美晴さん宅に遊びに行くという行動に出たのです。


 勿論、美晴さんがそれに応じるはずもなく、ちか子さん母娘をスルーし続けていましたが、居留守を使えば門の前で待ち続け、習い事等があるといえば、それが終わるころを見計らって再度訪れるほどの執念。


 連日のアポなし訪問に、特に用事のない日などはどこから見張られているのかと気が気でなく、自由に身動きが取れないことも手伝いストレスは溜まる一方で、美晴さん自身、精神的に限界を感じていました。





 そんなある日、いつものように石森家を訪れたちか子さん。


 その日、インターホンに応答したのは美晴さんではなく、少し待つように言われ、自動で開いた門扉の奥から現れたのは少し年配の女性でした。



「はい? どなたかしら?」


「あの、あたし晴ちゃんの友達なんだけど、晴ちゃん、いる?」


「ああ、美晴さんの。何かご用でした?」


「用っていうか、いるかな~って思って来てみたんだけど、今いないの?」


「嫁なら、今日は上の子の学校の用事で出かけてますが?」


「えっ! 嘘…姑?」



 一見して、上品そうな佇まいから、何となくそんな気はしたのですが、夫の会社の会長夫人であり、美晴さんのお姑さんでもある石森夫人のいきなりの出現に、さすがのちか子さんもいつもの調子とは行きません。


 というのも、彼女自身の性格や普段の言動などから、自分の義両親との関係があまりしっくりいってないこともあり、どうしても苦手意識が先行して、竦んでしまうのです。


 石森夫人は、上から下まで舐めるようにちか子さんを眺めると、淡々とした口調で言いました。



「今日は、うちの嫁とお約束でしたかしら?」


「あっ、ううん、そうじゃないんだけど…もし晴ちゃんが暇だったら、遊ぼうかな…と思って」



 すると、夫人は小さく溜め息をつき、誰に言うともつかない独り言のような声で呟いたのです。



「まったく、あの子ったら、いったいどういうつもりかしら? いつも『忙しい、忙しい』って言って、しょっちゅう孫の面倒を頼んでおきながら、こうしてお友達が遊びに来てるんじゃない。こういうところから、化けの皮が剥がれるのね。一度、きつく言ってやらないと」



 言葉もなく佇むちか子さんに、思い出したように再び視線を向けると、夫人は小さく頭を下げ、



「あなたも、せっかくお運び頂いたのに、嫁が不在で、申し訳なかったですわね。どうぞ、お気を付けてお帰り下さい。さようなら」



 それだけ言うと、くるりと背を向け、自宅の中へ消えて行き、目の前の大きな電動扉がゆっくりと閉じられました。


 残されたちか子さんは、時間にして1分ほどでしょうか、茫然と門の前に立ち尽くしていたのですが、ハッと我に返ると、月渚ちゃんの腕を掴み、逃げるようにしてその場から立ち去ったのです。





 その様子を、ずっと屋内のモニターで見ていた美晴さんは、ホッと安堵のため息をつきながら言いました。



「ありがとうございました。お義母さん」


「こんな感じで良かったかしら?」


「ええ、おかげで助かりました」


「これくらい、お安い御用よ。お付き合いするお友達は、ちゃんと選ばないとね。自分のためにも、家族のためにも」


「はい」



 これ以降、二度とちか子さんが美晴さん宅にアポなし訪問することはなくなり、美晴さんは元通り平和な日常を取り戻すことが出来ました。


 しかしそれにより、自分の思うようにならないちか子さんのイライラは頂点に達し、その憂さ晴らしの矛先として、麻里さんの悪口を吹聴することに拍車が掛かったという次第でした。





 その日も、葛岡さんのおばあちゃんを中心に、ちか子さん独壇場の悪口ライブが繰り広げられておりました。


 そこへ、たまたま運悪く通りかかったご近所の住人の方、数人が、本日の生贄となって拘束されてしまったのですが、そのうちの一人が、同じ町内の百合原さんでした。


 あまりにもくだらない内容に、聞くのも時間の無駄と、早々にその場を立ち去ろうとしたときでした。



「ところで、まだ聞いてなかったけど、堀米さんのご出身はどちらで、親御さんは、どんなお仕事されてるのかねぇ~?」


「うち? ○○市って分かる?」


「ああ、知ってるよ。あそこは、工業地帯で有名な町だねぇ~」


「そうなんだよ! うちのパパね、そこのでっかい工場の工場長してたんだ~」



 予期せず耳に引っかかったその地名に、思わず会話に横入りした百合原さん。



「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」


「ん? 何?」


「今、お話されてたその工場って、ハヤシ技研(株)の○○工場のことですよね?」


「そうだよ! へえ~、こんな離れた町の人でも、あの町の工場のこと知ってるんだ~!」


「今も、お父様はそちらで工場長をなさっていらっしゃるんですか?」


「ううん、あたしが子供のときの話だよ。大分前に転勤になって、今は別のとこ」


「だとすると、ハヤシ発動機だった時代ですよね?」


「詳しいんだね。あんたもハヤシに勤めてたことあるの?」


「いえ、私ではなく、うちの父が」


「へえ、奇遇だね! あんたのお父さん、どこの工場?」



 麻里さんと再会したとき同様、離れた土地で共通の知り合いを見つけた嬉しさからか、百合原さんに馴れ馴れしく尋ねたちか子さん。


 父親同士、同じ会社に勤めていたと知った時点でやめておけば良かったものを、百合原さんの次の言葉に、急にトーンダウンしたのです。



「私の父は現在、ハヤシ技研(株)の本社で役員をしております」


「役員…って、え…?」


「私の父も、あなたのお父様と同じ、発動機からの人間で、当時は別の工場で、企画開発を兼ねた管理職をしていました」


「ああ、そう…」


「当時のお父様のお歳から考えて、あれだけの規模の工場長をされていらしたということは、今現在は、お父様も本社に戻られているんですか?」


「いや、あの…」


「それとも、取締役で関連会社のほうへご出向ですか?」


「あ~、そう…かな…」



 百合原さんの問いかけに、ぼそぼそと口籠るような言い方で言葉を濁し、それ以上は答えず。


 彼女の父親は、現在は少し昇格して、定年を目前に塗装部門の課長というポジションにいました。


 ですが、最初に話を盛ったことで、ちか子さんの見栄っ張りで、他人より優位に立ちたいと思う悪い癖が出てしまい、ここでもまた本当のことが言えなくなってしまったのです。





 百合原さんが尋ねたとおり、当時、その年齢で工場長をしていたとすれば、順当にいって、今現在は本社や関連会社の上位管理職に名を連ねていると考えるのが普通です。


 中には、独立や早期退職をされ、企業の傘下からは離れている人も少なからずいますが、それならそうと答えられるはず。


 連結従業員数が10万人を超える大企業ですから、同じ会社の関係者は全国にいますし、少しでも内部人事に詳しい人であれば、すぐにバレるようなレベルの嘘です。


 そんなことすら想定せず、中学生の頃に自分がカースト上位に立つために、麻里さんやグループの仲間たちについた嘘を、今の自分の立場になってもまだ使えると本気で思っていたのなら、あまりにも稚拙としか言いようがありません。


 百合原さんはじめ、そこにいた誰もがすぐに嘘だと気付き、シラケた空気が取り巻いていたのですが、おばあちゃんだけはいつもの調子で、ネホリーナの本領を発揮。



「それで、堀米さんのお父さんは、今何をしてらっしゃるのかねぇ?」


「あの、だから、今は…その…」


「本社かい、それとも関連会社?」


「えっと…」


「それはそうと、堀米さんは結婚する前、何ていう苗字だったのかねぇ?」


「え、あたしの旧姓? 遊木…だけど…」


「ほう、遊木さんねぇ~。そういう名前の役員さんは、ハヤシにはいたかねぇ、百合原さん?」



 その言葉を聞いた瞬間、ちか子さんは顔を真っ赤にして、その場から逃げるように走り去って行ったのです。


 それを見たおばあちゃん、不思議そうな顔で、



「?? 急に走って行ってしまって、堀米さん、いったいどうしたんだろうねぇ~?」


「悪いですよ、葛原さん!」


「え? 私、あの人に何か悪いこと言ったかねぇ?」


「だから、全部嘘なんですってば」



 目をぱちくりさせながら、しばらくの間、百合原さんが言っている意味が理解出来ないまま、そこにいた人たちの顔を順番に眺めていたおばあちゃん。


 やがて納得したのか、大きく頷くと、まるで壊れたゼンマイ仕掛けのお人形のように、みんなの間をぐるぐると歩き回りながら、今度はおばあちゃんの独壇場、兼、修羅場と化したのです。



「なんだってぇ~!? じゃあ、堀米さんってば、私たちを騙そうとしてたのかねぇ!?」


「っていうか、ちょっと見栄を張ったんじゃないですか?」


「いやいやいや!! あれだけ園原さんの悪口を言ってたじゃないか、あの人! それを今になって…!」


「葛原さん、ちょっと落ち着こう?」


「あんた、これが落ち着いてなんかいられるかっていうの!」



 こうなると、もう誰にも手が付けられません。


 可愛さ余って憎さ百倍とは、まさにこのこと。それまで、無二の親友のようだったちか子さんに対する怒りは治まるところを知らず、通り掛かる通行人を次々と巻き込みながら、猛烈に毒を吐き続けるおばあちゃん。


 彼女の独演会は、帰宅した高校生の孫の柊くんでも止められず、連絡を受けて早めに仕事を切り上げた葛原さんの奥さんが帰宅するまで続きました。





 結局、葛岡さんのおばあちゃんに嘘がバレてしまったことで、それまでちか子さんが吹聴していた麻里さんへの悪口は、すべてちか子さんが過去に麻里さんに対してしたことだという噂が、町中に流れました。



 勿論、その噂の主は葛岡さんのおばあちゃんです。



 自分が嘘をつかれたことが、よほどショックだったらしく、彼女の頭の中では、ちか子さんこそが諸悪の根源とばかりに上書き保存されてしまったようでした。


 そうした噂話は、嫌でもちか子さんの耳にも届き、町中の人が自分の悪口を言っているような気がして、外に出るのも嫌で仕方ない状態に陥っていたのです。





 天性のスピーカーでもあるおばあちゃんを使って、麻里さんの悪口を流布しようとしたちか子さんにとって、この結果は『因果応報』としか言い様がありません。


 言ってみれば、おばあちゃんは『両刃の剣』、一歩扱いを間違えれば、自分が大怪我をしてしまうことまで考えなかったことが、ちか子さんの敗因でしたが、彼女の性格からして、素直に反省するはずもなく、



「何で、あたしがハブられんだよ!?」



 そう悪態をつくのが精一杯でした。


 そもそも自業自得なのにも関わらず、そんなふうに独り毒づきながら、やはり怒りの矛先は麻里さんに向かうばかり。


 気が付くと、幼稚園のお迎えの時間が過ぎていて、慌てて迎えに行ったちか子さん。園庭には、まだたくさんの園児が残っているというのに、なぜか一人ぽつんと隅っこのブランコに乗っている月渚ちゃんの姿がありました。



「月渚~! お待たせ~! 帰るよ~!」



 ちか子さんの呼びかけに、顔を上げた月渚ちゃんでしたが、なんだか元気がなく、よく見ると泣いたような顔をしています。



「どした!? 何かあった!?」


「…」


「何? ちゃんと言わないと、ママ、分かんないだろ?」


「…みんながね、月渚と遊んでくれないの…」



 絞り出すような声でそういうと、声をあげて泣き始めたのです。





 驚いて、職員室に乗り込み、これはいったいどういうことなのかと、もの凄い剣幕で保育士さんに詰め寄ると、ひとまず落ち着くように言われ、応接室に通されました。


 そこで、担任と主任の先生から、詳しい事情を説明されたのですが。



「そもそもの原因は、月渚ちゃんが菜々子ちゃんを仲間外れにしようとしたことから始まったんですよ」



 そう言われ、ハッとしたちか子さん。それに関しては身に覚えがあったため、ひとまず黙って先生たちの話の続きを聞くことにしたのです。



「じつは、月渚ちゃん、数日前から、いきなり菜々子ちゃんに意地悪するようになったんですよ」



 おもちゃを横取りしたり、わざとぶつかったり、あまりにもあからさまな態度に、周りのお友達のほうが月渚ちゃんに注意し、なぜそんなことをするのか問い質したたところ、



「だって、菜々子ちゃんを仲間はずれにしたいんだもん!」



 と、あまりにストレートな回答。おそらく、月渚ちゃんとしては、ママの言い付けを守ろうと一生懸命頑張ったのでしょう。


 ただ、まだそうした駆け引きのスキルを身に付けるには、月渚ちゃん自身幼な過ぎるうえに、天性の才能を持つ母親のちか子さんとは違い、残念ながらというか、幸いというか、彼女にその素質は遺伝していないようでした。


 お友達から『そんなこと、やめなよ』『みんなで仲良くしようよ』と言われても、頑なに『仲間はずれにする』と言って譲らず。


 逆にみんなから『そんな意地悪な子とは遊ばない』と嫌われてしまい、結果、クラスの中で孤立してしまった、という経緯だったと説明されました。



「そんな大事なこと、なんで早く言ってくれないんだよ!?」


「ここ数日、毎日連絡帳にも書きましたが、お読み頂いてなかったのでしょうか?」


「えっ…!?」



 慌てて、月渚ちゃんのバッグから連絡帳を取り出して見ると、確かにそれらしき記述が、詳細に記載されていました。


 葛原さんのおばあちゃんとの件があって以来、ちか子さん自身、自分のことで一杯一杯だったため、連絡帳を見ることすらしていなかったことに、今初めて気が付いた次第です。



「私どもとしましても、月渚ちゃんに、なぜ菜々子ちゃんを仲間はずれにしたいのか、再三に渡って尋ねたのですが、本人の口から出るのは『仲間はずれにしたい』の一点張りで」


「はあ…」


「園の方針としましても、お友達とは仲良く、と常々子供たちに言っておりまして、出来ればお母様からも、月渚ちゃんに理由を尋ねて頂いたうえで、そういうことはやめるようにと、説得して頂けるとありがたいのですが」


「・・・」



 まさか、言いだしっぺは自分ですとも言えず、ただただ、先生のお話に頷くのが精一杯でした。


 そうして、適当なところで切り上げると、月渚ちゃんを引きずるように自宅に戻り、まだ半べその娘の着替えもさせず、頭を抱え込むちか子さん。



「ったく、我が娘ながら情けなっ! んな簡単なことも出来ないのかよ!」



 その呟きが、月渚ちゃんに聞こえなかったことだけが、幸いでした。





 時計を見ると、もう5時を回っていました。


 気持ちを切り替え、嫌々ながらも夕食の支度をしなければと、キッチンに向かおうとした時、玄関ドアが開き、慌てた様子でご主人の堀米さんが飛び込んで来ました。



「お帰り~。今日は異常に早かったんだね」


「早かったね、じゃないよ!」


「どしたの? 何かあった?」


「今日、社長から呼び出されたんだよ! ちか、社長の奥さんとこに遊びに行ったんだって!?」



 瞬時に、ピンと来たちか子さんは、それまでの陰鬱とした気持ちが一気に吹き飛び、勝ち誇ったように、満面の笑みを浮かべて言いました。



「えー! ついに来た!?」


「ついにって…!」


「そうなんだよ! あたし、晴ちゃんと友達になってさ~、ヒロが出世するように頼んでおいたんだよ!」


「おまえなあ!」


「んで? 社長さんから話って? 昇進? 昇給? それとも両方?」


「ちょっと、話を聞けって!」


「まあ、いずれにしても、あたしには感謝してもらわないとね! こんな良い奥さん貰って、ホント、ヒロって幸運だよね~」


「いい加減にしてよ! ちかのせいで、僕はクビになるなるかも知れないんだから!」



 自分が思い描いていたビジョンとは真逆の夫の言葉に、状況が理解出来ず、立ちすくんだちか子さん。


 堀米さんは膝から崩れるように座り込み、ぽつりと呟きました。



「なんてことしてくれんだよ…」


「何? どうしたの? 何かあったの?」


「もう、マジで頼むよ…!」



 いつもは大抵のことは笑って流してくれる夫の、初めて見るそんな姿に、何やらただ事ではない事態に陥っているらしいことが、ちか子さんにもひしひしと伝わってきました。


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