第五章
翌週の月曜日、お昼近くに掛かって来た電話は、麻里さんからでした。こちらが喋るより先に、
「ごめん、急で申し訳ないんだけど、今からそっちへ行っても大丈夫!?」
「うん、いいけど、何かあった?」
「行ってから話すから」
それだけ言うと電話は切れ、間髪入れず鳴ったインターホンのモニターには、たった今、電話で話していた麻里さんが映し出されていました。
急いで玄関のドアを開けた私の脇を、まるで鬼ごっこをする子供のようにすり抜け、屋内に駆け込んだかと思うと、自ら鍵を掛けてチェーンまで下ろす念の入れ様。
あっけにとられている私の顔を見て、ホッと息を吐き出すと、次の瞬間、大笑いしだしたのです。
「いったいどうしたの? 何があったって?」
「聞いてよ、もう、笑っちゃう! さっきね、ちか子さんが来たのよ!」
「来たって、どこに?」
「我が家に!」
なんでも、麻里さんによると、つい今し方、突然ちか子さんが自宅にやって来たというのです。
自宅の場所は知らないはずなので、麻里さんとしてはかなり驚いたのですが、一応こういうシチュエーションも想定していたため、パニックを起こさずに冷静に対応出来たとのこと。
先日の町内清掃で再会したときと同様に、馴れ馴れしく話し掛けてきたちか子さんに、麻里さんは、なぜ自宅が分かったのか尋ねると、
「あたしが、あんたン家の場所探してウロウロしてたらさ、知らないおばあちゃんが声掛けてきて、駄目元であんたの苗字と名前言って家の場所知らないか聞いたら、親切に教えてくれたんだ~」
と答えたそうです。
おそらく、麻里さんの自宅を教えた犯人は、我が家の斜めお向かいに住む、葛岡さんのおばあちゃんに間違いないでしょう。
彼女は、町内の住民に関することであれば、自宅、家族構成、さらには家族の勤め先や学校、ペットの種類と名前に至るまで、ほぼ網羅していると言っても過言ではないという、このあたりでは知らない人はいないほどの『情報通』(=またの名を『ネホリーナ』)として有名なおばあちゃんです。
ただ、残念なことに、おばあちゃんには『自分が知り得た情報を秘密にしておく』というスペックを持ち合わせておらず、例えそれが個人情報であっても、尋ねられれば気軽に答えてしまうという重大な欠陥がありました。
これに関しては、家族や周囲からも、かなりきつく忠告しているのですが、なにぶん彼女としては親切心からしていることであり、年代的にも、なぜ個人情報を明かしてはいけないのかが理解出来ないようで、今回の麻里さんと同様に、被害に遭った人は数知れず。
もっとも、おばあちゃんの場合、聞かれたこと以上に自分の知り得たことを話してしまうという迷惑なサービスまで付いているため、さらに被害が拡大することも少なくなく、本人に悪気がない分、質が悪いと申しますか。
「うっわ~、それは災難だったよね。で、それからどうしたの?」
「厚かましく中に入ろうとしてきたから、『すぐに出かける用事がある』って嘘ついて、玄関先でブロックした」
「グッジョブ! よくぞ、そこまで冷静に!」
「こうめちゃんのアドバイスのおかげだわ。本当、シミュレーションがいかに大事かって、今回身に染みて感じたわ」
そう、麻里さんが想定した通り、金曜日のISHIMORI(株)の社長就任披露パーティー会場で偶然お会いしたことを、帰宅したご主人から聞いたちか子さんは、週明け早々、麻里さん宅を探し当て、押し掛けて来たのです。
私たちが驚いたのと同様、彼女も自分の夫が務める会社のパーティーに、かつてのクラスメートが来賓として招待されていたことに驚いたのは言うまでもありません。
普通の感覚の人なら、かつて自分がその相手に対し、いじめのターゲットとして相当酷いことをしたという事実がある以上、まず真っ先に『マズいことになった』と思うことでしょう。
が、そこはちか子さんの人間性。麻里さん夫婦と社長夫婦が友人同士と知り、これは自分たちにとって、またとないチャンスという考えに至ったようです。
用事があるからと、暗に帰るよう促す麻里さんに、ちか子さんはしつこく食い下がって来ました。
「旦那から聞いて、マジ、びっくりしたんだよ! オダマリ、社長夫人になったんだ、玉の輿だよね~! あ、そっか、あんたもともと社長の娘だっけ。あはは~」
「ごめんなさい、私、もう出掛けないといけないの」
「あ~、悪い! じゃ、単刀直入に言うけどさ、あんたに頼みたいことがあるんだ」
「何?」
「あたしたち、中学の時の友達のよしみで、うちの旦那を優遇してくれるように、あんたの旦那から、うちの社長にアピールするように言ってくんない?」
いろんな状況をシミュレーションしていた麻里さんでしたが、さすがにこの申し入れには、我が耳を疑ったほど。ふたりが中学生時代に『友達』だったなど、誰よりもちか子さん自身が思ってもいないことでしょうに。
まして、過去に自分が麻里さんにどんな仕打ちをしてきたかを考えれば、それを棚に上げて、そんな頼み事をしてくること自体あり得ませんし、厚かましいを通り越して、もはや神経を疑うレベルのものです。
一瞬、どう返答しようかと思ったのですが、少し困った表情を浮かべ、
「ごめんなさいね。主人の仕事と、私のプライベートは別のことなの。だから、そういうのはちょっと」
すると、それまでのハイテンションから急に表情を変え、絞り出すような低い声で詰め寄って来たのです。
「分かってるよね? オダマリさ、あんたが昔、クラス中の嫌われ者だったってこと、バラしたっていいんだよ?」
威圧的なその言動は、あの当時を彷彿とさせるものでした。結局、ちか子さん自身の性格は、何も変わってはいないということなのでしょう。
昔の麻里さんなら、すでにこの時点で、恐怖と絶望感からちか子さんの言いなりになってしまうところですが、今は違います。表情はそのままに、あらかじめ準備しておいたセリフ通りに、穏やかな口調で続けました。
「私ではお役に立てなくて、申し訳ないわね」
「チッ! ったく、相変わらず融通が利かない女だよね! ま、いいわ。そのうち嫌でも協力したくなるから」
「悪いけど、ホントにもう出掛けないと間に合わないから」
「あ、それからもう一つ。さっき、あんたン家を教えてくれたおばあちゃんに聞いたんだけど、あんたの娘、すぐそこの幼稚園に通ってるんだってね?」
「え…!?」
「うちの子さ~、まだ転園の手続きしてなくて、今も前の幼稚園に通わせてるんだよね」
「そう」
「あそこなら家からも近いし、この際だから、うちの子もそこに入れようかな~。同じクラスになったら、仲良くしてやってよ? まさか、それもプライベートは~、なんて言わないよね?」
この女は、自分の娘まで使って、圧力を掛けようというのかと思うと、怒りが込み上げましたが、それをグッと押さえると、小さく会釈をし、一旦屋内に入りキーと免許証の入ったポーチを持ち出して玄関ドアを施錠し、車のエンジンを掛け、
「じゃあ、私、出掛けるので、門から出てもらえるかしら?」
「行っていいよ。あたし、もうチョット庭の中見てるから、お構いなく~。それにしても広い庭だよね。あっ、バーベキューコンロ! 自分ちの庭でバーベキューパーティーって、一回やってみたかったんだ~! 今度、この庭でやろうよ!」
こちらが歓迎していないことなど、絶対に自覚しているはずで、そのうえ、家人が出かけるというのに、勝手に居残り、敷地内で物色しようという厚かましいその神経。
麻里さんは、そそくさと車に乗り込み、我が物顔で庭を歩き回りながら、窓越しに屋内を覗き込もうとしているちか子さんに向かって言いました。
「敷地内でウロウロしてると、セキュリティーが作動して警備員さんが来ちゃうけど?」
その言葉に、あからさまに表情をこわばらせ、舌打ちして麻里さんを睨み付けながら、しぶしぶ門の外に出たちか子さん。
麻里さんが車を出す傍らで、ガレージの電動シャッターが降りるのを、忌々しそうに眺めるばかり。
「んじゃあさ、オダマリ、いつだったら暇?」
パワーウィンドウを閉めながら、麻里さんはその問いにはあえて聞こえないふりを決め込み、車を発進させ、バックミラーに小さくなって行くちか子さんの姿が完全に見えなくなったのを確認して、ようやくホッとしたのです。
とはいえ、すぐに自宅に戻れば、自宅付近で彼女が待ち伏せして見張っているかも知れず、お買い物でもして時間を潰そうにも、慌てていたため、お財布も持たずに出てしまったことに気付きました。
さて、これからどうしようかと考えたとき、真っ先に私の顔が浮かび、お昼前ではありましたが、こうして緊急避難して来たという次第です。
「いきなりうちにあの女が現れた時は、心臓が止まるかと思ったわよ!」
「それ、もう、ホラーだよね」
「ホントに怖かったんだから、ねー!」
「にゃあ~!」
傍らに寄り添い、まるで話を聞いているかのように見える猫たちにまでそう話しかけ、絶妙なタイミングで返事を返す猫と、本当に会話が成立しているようなコミカルさに、思わず笑いが零れます。
それにしても、葛原さんのおばあちゃんには本当に困ったものですが、すでにちか子さんに自宅を知られてしまった以上、今後、何かと理由を付けてはアプローチして来ることは必至でしょう。
菜々子ちゃんが通う幼稚園のことにまで言及してきたということは、おそらく自分の娘を使って絡んで来ようという魂胆が見え見えです。
麻里さん本人は、彼女に対する過去のトラウマからは概ね解放されているようなので、今の時点で大きくメンタルを崩すようなことはないでしょうが、ちか子さんの性格から言って、関わるだけで面倒なタイプのようですから、必要以上の接触は避けたいところ。
出来れば、幼稚園が定員オーバーであって欲しいという願いも虚しく、数日後には予告通り、ちか子さんの娘の月渚(るな)ちゃんが、菜々子ちゃんの通う『こもれび幼稚園』に転入して来ました。
こもれび幼稚園の通園には、園バスを利用している園児もいますが、隣接する広い駐車場を保有することから、徒歩や自転車以外にもマイカーでの送迎も許可されていて、送迎時間の園庭は、もっぱら保護者たちの社交場になっていました。
必然的に、ちか子さんも他の保護者の方々とご挨拶を交わすのですが、麻里さんの姿を見つけるや否や、すっ飛んで来て纏わり着いて来る始末。
先生や他の保護者の方と話していると、必ず会話に割り込んで来るばかりか、たとえそれが重要な連絡事項の確認中でも、お構いなしに、自分に話題を向けようとして勝手に喋り始めるなど、周囲が困惑することもしばしば。
一度、麻里さんとは別グループの仲良しのママ友さん数人が、『今からカフェでお茶をしよう』ということになり、それを聞いていたちか子さんは、自分も行きたいと強引に参加したのですが、ここでも他の方の話は聞かず、勝手に喋り続けていたとのこと。
そして、いざお会計になったとき、自分の分を払わずにそそくさとお店を出て行こうとしたため、一緒にいたママさんが驚いて、彼女に自分の支払いをするように言うと、
「なんだ、奢りじゃないんだ。あたし初めての参加だから、歓迎会してくれたと思ってたのに」
と、もの凄く不満そうな顔をしながら精算していたのだそうです。
この時は、グループの中にボスママさんがいたため、支払いを渋る彼女に強く言えましたが、もし気が弱いママさんばかりだったら、本当に支払わなかったかも知れません。
自分から強引に参加しておきながら、どうすればその解釈になるのかと、ご一緒していたママさんたちもドン引きで、当然この出来事は、すぐに他の方々にも知れ渡るところとなったのです。
また、敬語は使わず、年上や初対面の人に対してもため口で話し、それを不快に感じる方もいらっしゃることを、本人は全く自覚しておらず、逆にそれが社交的と勘違いしているらしく、一週間もしないうちに、園では完全に浮いた存在になっていました。
困ったことに、ちか子さんは、勝手に麻里さんのことを『仲が良かった地元(出身地)の同級生』と吹聴しているらしく、そのことを何人ものママ友さんから尋ねられましたが、麻里さんは、
「中学が同じだっただけで、私は彼女のグループじゃなかったし、別に親しくなかったのよね」
と、徹底して、そう答えるようにしていました。
「やっぱりそうなのね」
「おかしいと思ったわ。園原さんとあの方って、ずいぶん雰囲気違うもの」
「私の知らないところで、私絡みみたいなことを言われてもねぇ。どなたか信じ込んでいたりしないか心配で」
「分かった。気を付けるように、他の方にも言っておくわね」
「何だか、ご迷惑をおかけしてるようで、申し訳ないわ」
「そんなことないわよ。迷惑してるのは、園原さんのほうじゃない」
「こんなこと言っちゃ何だけど、堀米さんって、ちょっと変わった人よね」
「ん~、正直、私も彼女のことはよく分からないのよね。多分、他に知り合いがいないから、私のところへ来るだけだと思うんだけど」
確かに、グループからは早々に抜けており、親しいとは真逆の、いじめの加害者と被害者という関係でしたし、人間性が意味不明なので、嘘はついていません。
勿論、麻里さん自ら進んで、その事実を暴露したりもしませんでしたが。
園を離れた後も、ちか子さんの執拗なアプローチは続きました。
帰宅後、アポなしで子供を連れて自宅へ遊びに来ることもしばしば。その際には、決して自宅へ上げることはせず、淡々とお断りすることを徹底しました。
「今日は、これから習い事があるの。すぐに出掛けないといけなくて」
「それどこ? 何の習い事? うちもそこへ通わせるから、教えてよ!」
「○○というお教室だけど、まだ定員空いているのかしら? もし興味があるなら、一度ご自身で調べてみてね」
「何それ? そこに通ってんだったら、うちも入れるように、あんたから紹介してくれてもいいじゃん?」
「すごく人気があるお教室なの。残念だけど、私にそんな力なんてないわ」
人口が密集する巨大な新興住宅地では、必然的に子供の数も多く、習い事をさせるのに、人気の高いお教室はすぐに定員いっぱいになってしまいます。
公平を期すため、新規募集は抽選だったり、欠員募集の場合には順番待ちにするところがほとんど。
早速、ちか子さんも問い合わせてみたようですが、案の定、定員いっぱいで、今のところ新たな募集の予定もない、とのことでした。
そこで、再び葛岡さんのおばあちゃんのところへ行き、菜々子ちゃんが他にどんな習い事をしているかを聞き出し、その全部に問い合わせするという粘着質。ほとんどが定員オーバーの中、唯一、新規の入会を受け付けていたのが、バレエ教室でした。
すぐさま、申し込みに出かけたものの、菜々子ちゃんが通うバレエ教室は、入会金が10万円と、毎月のレッスン料2万円に加え、他にもシューズやレオタードなどの備品の購入も必要で、かなりの予算オーバー。
さらに、発表会ともなれば、お衣装代や個人負担分のチケット代、それ以外の諸々も含め、毎回数十万円の費用が必要になるという説明を受け、ご主人にも相談したところ、今の家計事情では到底無理だからと一蹴されました。
子供に掛かる費用、いわゆる『エンジェル係数』が高くなれば、家計を圧迫してしまいますので、お月謝やその他諸費用は、教室を選ぶ際の大きなポイントになるのは言わずもがな。
それでも、強硬にバレエ教室に入会させようとしたちか子さんでしたが、初心者の月渚ちゃんと、すでに上のクラスに昇格している菜々子ちゃんとでは、レッスンの曜日や時間帯が違うと知ると、あっさり諦めたのだそうで。
もうここまで来ると、軽いストーカーかと思えるレベルです。
また、お断りの理由には、こんなバージョンも。
「今日は他のお友達と、お食事の先約があるから」
「んじゃ~、あたしたちも一緒に行く~」
「急に言われても、予約人数もあるし、お店のほうも困ると思うわ」
「そんなの、店に頼めば、一組みくらいどうにでもなるでしょ?」
「人気のあるお店だから、今からじゃ無理よ」
「じゃあ、違う店に変更してよ!」
「そんなこと言われても、他の方たちのご意向を無視してまで、私の一存では決められないもの」
さらに、別のバージョンでは、
「また今日も先約!? あんたって、何で自分が誘われたとき、あたしにも声掛けてくれないのよ!?」
「だって、ちか子さんはお相手の方と面識がないじゃない? 私は招待されている側だから、勝手に他の人をお誘いするわけにも行かないもの」
「んじゃ~、むこうが良いって言えば、OKってことだよね!?」
「お相手の方から、『いらしてください』って言われれば、ね」
ですが、すでに園では完全に浮いていたちか子さんに対し、友達になろうとするママさんなど誰一人おらず、まして、ご自宅にご招待されるような関係性を築くことなど、今のままの彼女にないだろうことは明白でした。
それ以降も、園で麻里さんの姿を見つけると、飛んで来てはべったりと張り付き、誰かとお話をしていようものなら、
「何、何、何!? 一緒に遊ぶ話!?」
といった感じで首を突っ込んで来るため、余計に他のママさんたちから煙たがられているというのに、本人は自分に原因があるとは思っておらず。
むしろ、麻里さんがあまり社交的ではないからだ、くらいの認識で、立ち去るママさんたちを恨めし気に眺めながら、麻里さんに向かい、
「あんたってさ、友達いないの、昔っから変わってないみたいだね。ホンっト! 使えない女だわ!」
そんな悪態をつく始末。
かつて、自分がスクールカーストのトップに君臨した頃とは、何もかも違うということを理解出来ないのか、したくないのか、一つだけ言えるのは、ちか子さん自身の性格は、あの当時と何も変わっていないということです。
もっとも、当時も人望があったわけではなく、ただ恐怖で相手の気持ちを縛り付けていただけで、実際には本当の『友達』といえるような子はいませんでした。
高校生になると、取り巻きたちは徐々に離れて行き、今では誰一人、当時の仲間との交流はありません。でも、ちか子さんにとって、そんなことはどうでも良かったのです。
かつては自分が幼稚だった故、彼女にはああした行動に出てしまったものの、相変わらず、恵まれた環境にいる麻里さんに対し、本心は彼女と同じか、出来ればそれ以上のステージに立ちたいというのが本音でした。
とはいえ、今の自分の家庭の経済状態は、車や新築のローンを抱え、夫の収入だけでは、正直ギリギリの生活です。
結婚した当初、ちょっとでも家計の足しになればとパートを始めたものの、彼女の性格や言動からなかなか採用されず、採用されても、周囲やお客様とのトラブルが絶えずに、やめざるを得ませんでした。
そこで、麻里さんの人脈を利用して自分の夫を昇格させれば、パートでちまちまと端金を稼ぐより、手っ取り早く生活レベルをアップ出来ると考えたのです。
昔のようにちょっと脅せば、すぐに言うことを聞くと思っていたのに、なかなか思うように行かず、かなり苛立っているらしいことは、麻里さんにも伝わってきます。かといって、また彼女の支配下に捻じ伏せられる気はさらさらありません。
そこで、麻里さんは意を決して、ご主人である園原くんに、過去にちか子さんとの間にあった出来事を、すべて包み隠さず話すことにしたのです。
正直言って、不安はありました。
悪いのは、いじめの首謀者のちか子さんであるというのは正論でも、かつての惨めったらしい自分に対し、夫の見る目が変わってしまわないか、情けない女だと嫌気が差すのではないかと。
妻として、母親としての自信までも揺るぎそうな不安と闘いながら、自分の身に降り懸かった出来事をカミングアウトする麻里さんに、園原くんは少し驚いた顔をして聞いていましたが、すべてを聞き終えると、
「そんな過去があったなんて、ちっとも知らなかったよ」
そう言い、優しく麻里さんを抱き寄せました。
「私ね、昔のことは誰にも知られたくなかったの。思い出しただけで、自分が惨めで、いたたまれなかった…」
「そう」
「高校も大学も、知り合いがいない学校を選んだのも、誰もそのことを知らなければ、そんな過去なんてなかったことにして、生きて行けるような気がして、実際、当時の私を知らない人たちとは、ごく自然に付き合えた」
「うん」
「だけど、もし、昔のことを知ってたら、みんなは今と同じように付き合ってくれたのかな、中学のクラスメートみたいに、距離を置かれてたんじゃないかなって。一番嫌だったのはね、嫌がらせされること自体より、そうされてる自分が、他の人から可哀想だと思われることだった…」
「そっか」
そう言うと、園原くんは小さく息を吐き出し、優しい笑みを浮かべながら、麻里さんの目を見て言いました。
「他の人がどう思うかは分からないけど、そういう辛い経験が、今の麻里を作っているんだとしたら、僕はそんなところにも惹かれたんだろうね」
「鉄平くん…?」
「麻里が僕の妻で、本当に良かったと思うよ」
そんな夫の言葉すら、素直には受け取れずにいる麻里さん。
「私のこと、嫌にならないの? いじめられてた女だよ? 物を壊されたり、トイレで水掛けられたり、下着や…生理用品まで晒されたり…自分の妻が、過去にそんな辱めを受けてたって知って、ううん、それどころか、周囲の人にもそのことを全部バラされたとしたら、鉄平君、ホントに平気でいられる…?」
「じゃあ聞くけど、もし僕が過去にそういうことがあったとしたら、麻里は僕に対する気持ちが変わるの?」
「それはないわ。鉄平くんは鉄平くんだもの」
「逆に、もしも麻里が過去に、誰かをいじめていた人だったら、心底軽蔑したかも知れないけどね」
「うん、私も鉄平くんがいじめてた側だったら、今までと同じじゃなくなったかも」
にっこり笑った園原くんは、優しく麻里さんの頭をポンポンし、
「カミングアウトしてくれて、ありがとう。何も心配しなくて大丈夫だよ。もし何があっても、これからは麻里と菜々子を、僕が守るから」
その言葉に、思わず涙が溢れ出した麻里さん。
あの頃、誰にも打ち明けられず、誰一人味方をしてくれる人もおらず、こんな孤独が一生続くのだろうと絶望しかなかった毎日。
でも、今はこうして、ありのままの自分を受け入れ、味方になってくれる家族や友人がいてくれる幸せを実感することが出来ました。
何より、自分には菜々子ちゃんとお腹の赤ちゃんという『守るべき存在』がいること。それが彼女に大きな力を与えてくれていました。
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