第6話

 カオルと私は、授業のあとは毎日手話講座に参加し、手話通訳技能認定試験に向けて勉強に励んだ。


 試験という目標があると、私でさえ気合が入る。熱心に学ぶカオルに引っ張られるように、ひとつひとつ手話と表現力を身につけていった。


 人面瘡といえばは、

「このごろごちそうが少なーイ!」

と不満をタラタラ漏らしている。でも、なぜか機嫌は悪くない。


 ひょっとして、ネガティブの塊のくせに、応援してくれているのだろうか。




 手話が楽しくなってきたとはいえ、試験まであと一ヶ月ちょっとともなると、さすがに心に余裕がなくなってくる。手話講座での学習だけでは心細い。


 そんな話をカオルにしたら、

「じゃあ、ふたりで特訓しよっ!」

ということになった。


土日はもちろん、平日もあと一ヶ月間だけは、大学の講義を三限目までで切り上げ、あとは手話の猛特訓にあてる。

うん、これならなんとかなりそうだ。


 ただ、無理をしているのか、最近カオルの顔色が悪い。

「なんか顔が青いけど、大丈夫?」

気になって訊いてみると、

「大丈夫、大丈夫! ちょっと昔から貧血っぽいんだよね。だからいつものことなのよ。心配かけてごめんね」

そう言って笑った。でも、少し痩せたみたいだ。


「ちゃんと寝ないとダメだよ」

「ありがとう。気をつけるね」

心配だけど、そこまでがんばれるカオルが、うらやましくもある。




 手話の猛特訓が始まって数日経ったころ、いつも受けている一限目の授業に、めずらしくカオルが来ていなかった。

 寝坊でもしたのかな、とメールも電話もしてみたが、まったく反応がない。まあ、猛特訓は三限目以降だ。もう少し待ってみよう。


 その後なんの連絡のないまま、二限目の終わりを告げる鐘が鳴った。携帯電話を何度見ても、あいかわらず返信も着信もない。


(おかしいなあ。三限目が終わったら、カオルの家まで行ってみるか)


 そう思っていた三限目が終わるとき、教授が急に険しい顔になって言った。

「えーっと、皆さん……。ひとつお話があります」

ん? なんだ、急に? いつもと違う様子に、皆がざわつく。


「先ほど連絡があったばかりなのですが、皆さんと一緒に学んでいた大島カオルさんが、今朝、通学中の駅で人身事故に遭われて……、亡くなったということです。皆さんも、どうか気をつけてください」


えっ、なに? 教授、今なんて言った? 「大島カオル」って言わなかった? 亡くなったって? それって誰? 同姓同名の人? 「学んでいた」って、なんで過去形なの? やだ、冗談だったらやめてよね。だって、昨日も私、一緒にいたんだよ!


「お通夜と告別式については、後ほど掲示板に張っておきます」

意味が受け入れられないまま、言葉が耳をするすると流れていく。


 ちょっと待って! こんなの間違いに決まってる!


「教授! 今の、うそですよね!?」

廊下まで教授を追いかけて、訊いてみた。でも、呆然とする私の肩にやさしく手を置き、教授は、静かに首を振った。

「具合が悪かったのか、フラついて駅のホームから線路に転落したようです。そして、運悪くそこに電車が……」




「なんで? なんでカオルが!? あんなに嬉しそうに手話通訳士になることを話していたカオルが! なんでよ!?」

私は人面瘡に、答えの出ない問いをぶつけることしかできなかった。


「オイオイ、今日のごちそうは、エラくしょっぱいなア」

「なんでカオルなの? 私みたいな生きてる意味のないのが生きていて、どうしてカオルが……」

「ちょっと待っタ! アンタの人生に意味があるかどうかなんて、まだ決まったことじゃないじゃないかヨ」


人面瘡がなだめるように言う。でも、しっかりと前を向いて生きていたカオルが死んで、ただ時間を浪費しているような自分が生きていることが、なんだか無性に赦せなかった。


「カオルに比べたら、まったく無意味だよ! だって、カオルは手話もすごく上達していて、試験に受かるまでもう一息だったのに! 貧血になるまでがんばっていたのに! できるなら私が代わってあげたいくらい!」

「アンタだって、よくがんばってたじゃないのサ。手話の試験だってもうすぐなんでショ? そんなことでどうすんのサ?」

「試験なんて、もう受けるわけないじゃん。私はカオルのついでだったんだよ。悲しいだけだし、もう手話やめる!」

カオルがいないのなら、手話なんて続ける意味がない。


「ちょっとアンタ、なに言ってるノ!? 簡単にやめるなんて言っちゃってサ。手話通訳士になりたくて死んでいった人の気持ちも、ちょっとは考えてみなヨ?」

「だって……」

「だってじゃないヨ。せめてさア、せめて、カオルの魂をさア、試験会場に連れていくだけでもしてやれヨ~……」

人面瘡の語尾が震えている。


「えっ、人面瘡、もしかして泣いてるの?」

「アホ! 人面瘡が泣くかヨ~」

そう言いながらも、私のひじはビショビショだ。


 人面瘡は溜め息をひとつつきながら呟いた。

「もうヤダ。アンタ、ほんとネガティブすぎちゃってさア。さすがの人面瘡も調子狂うワ~」

思わず噴き出しそうになりながらも、人面瘡の気持ちが伝わってきて、さらに涙が溢れてくる。


「ありがとう。こんなときに、人面瘡がいてくれてよかったよ」

「バカ~」


 私たちは、朝まで泣き続けた。

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