第3話

 カオルの夢を聞いた日から、学食での話題のほとんどは、手話の話に塗り替わっていった。カオルも話したがったし、私も聞くのが楽しかった。


 嬉しそうに話すカオルを見ていると、ふと自分をかえりみて時折不安になったりすることもあるけど、その笑顔に心がほんのりあたたかくなる。


 その日も、日替わりランチを食べながら、カオルの話を聞いていた。すると突然、

「ねえ、今度エリも手話講座に行ってみない?」

真顔で訊いてきた。


「ええっ、私が!? ムリムリ!」

カオルの話で、前より手話に興味を持つようになってはいたものの、自分が始めるなんて考えてもいなかった。


 思いがけない誘いにとまどっていると、

「ねえ、エリ。まだやりたいことがみつからないんだったら、なにかひとつずつでも始めてみようよ。そうしたらきっと、本当にやりたいことに、そのうち出会えるんじゃないのかな。だから手始めに、手話なんてどう? 私もエリが一緒だと、もっと楽しいな!」


 やりたいことがなくてもなにかを始めてみる、か。なるほど、思うし、カオルの気持ちも嬉しかった。でも私には、続けられる自信も、手話を覚えられる自信もない。

「そうかもねえ。でも手話なんて、私にできるのかな?」

「大丈夫だよ。エリだったらゼッタイ! それに、やってみてイヤになったら、すぐやめればいいんだから」




 結局私は、カオルに引きずられるようにして、一緒に手話講座に参加するようになった。アルバイトもしていないし、趣味もないし、授業に出る以外なにもすることがないので、断る理由がみつからなかったのだ。


 難しそうだと覚悟はしていたものの、手話を覚えるのは本当にたいへんだった。

 とりあえず手始めの「五十一音」はマスターしたが、それだけでは会話にならない。言葉を一字ずつ表していくのでは、伝える方も受け取る方も、ひどくじれったいことになる。何千とある、意味を成すひとかたまりの言葉こそ重要で、これらを覚えないと、スムーズな意思の疎通ができないのだ。


 その上、表現力も必要だし、理解してもらうには表情も大事だ。手話通訳士への道のりがこんなに険しいとは、おっとりしたカオルの話からは想像もつかなかった。


 カオルは、私が参加し始めたころには、まだ基本的な単語を表現できる段階だったが、日を追うごとにめきめきと上達していった。ヒマだから参加している私と、明確な目標があるカオルとでは、覚える早さが格段に違う。


 自分のやる気のなさのせいだとわかってはいるくせに、身勝手な劣等感を持て余し、ますます人面瘡を大きく育てていくのだった。

 ワンサイズ上のシャツを新調する必要があるかも知れない。こんな調子だと、今のサイズでは腕が入らなくなるのも、時間の問題だ。

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