第2話
人面瘡を目覚めさせてからも、朝のあわただしい着替えのときなど、ついこれまでと同じように、シャツの袖をひじに引っ掛けてしまって、
「ごめん! 大丈夫?」
と、あわてて腕をひねって見ることがある。
でも、そんなとはたいてい、糸ミミズのような目は閉じたままだった。少しつついてみても、じっとして反応がない。日中は眠っているのか、ただのイボに戻るのか。
いまだに人面瘡の習性を、よく理解できていない。でも、どうやらお日さまが照っている時間は活動しないらしい、ということはわかってきた。
昼間に動かないなんて、最初のうちは少し寂しい気持ちもしたけど、まあ、講義を受けているときや、満員電車に揺られているときに、急にしゃべり出されても困るので、これからも長く平和的に付き合っていくには、むしろ好都合ではある。
そして夜になって、私がお風呂に入るころ、人面瘡は俄然元気になる。だから、湯船に浸かりながら、あれやこれやとしゃべるのが日課になっていった。
「ねえ、エリは卒業したらなにになるの?」
昼休みにいつものように学食でランチを食べていると、同期のカオルが訊いてきた。入学したときから、なぜかいつも私にくっついてくる、物好きな女の子だ。
カオル曰く、
「エリの、何事にも動じない感じがいいんだよね! 肝が据わっているというか、貫禄? 風格っていうのかな。とにかくそういうところが、すっごくうらやましくって」
ということらしいけど、なんのとり得も無い私からすると、可愛くて性格もいいカオルのほうが、よっぽどうらやましい。
「卒業したらねえ……。将来なにになりたいとかないし、まだなんにも決めてないんだよね。まあ普通にどこかの会社に入って、なんて思ってたんだけど」
「じゃあ、就職活動だね」
「う~ん。そうなんだけどさ、結構いい企業に就職した兄貴も、なんだかそんな楽しそうじゃないからなあ」
いまだ実家暮らしの兄は、私が帰省するたびに、いつも疲れた顔をして出迎える。
「へえ、エリ、お兄さんいるんだ」
「うん、二人兄妹。あれ、そういえば、カオル兄弟とかいるの?」
「まあねー。それで、エリはどうするの? まさかプータロー?」
「いやあ、でもやっぱ、とりあえずは就職を目指すしかないかな。ほかにないもんなあ。あ、カオルはなにかやりたいことあるの?」
「私?」
カオルは意味ありげにフフッと笑い、嬉しそうな顔で答えた。
「私はね、手話通訳士になるの!」
「手話通訳士?」
「そう。耳が聞こえない人のために、手話で通訳する人」
「ああ、わかった。見たことある!」
テレビのニュース番組なんかで、画面の端っこで手話をしている人の姿が、頭の中に浮かぶ。
「へえ、手話か。すごいね。でもなんかたいへんそうだけど」
「うん。とにかく覚えるのがたいへんなの。表現力もつけないといけないし。でも、耳が聞こえない人には必要だからね」
たいへんなの、と言いつつ、カオルの顔は輝いていた。そんなカオルがうらやましくなる。明確な目標を持っている上に、それが誰かのためになる仕事だなんて。
自分の夢を語る人の笑顔は、みんな眩しい。私もいつかこんな笑顔で、誰かに夢を話すときがくるのだろうか。
「いいよなぁ、カオルはちゃんと夢があって」
今夜も湯船で温まりながら、人面瘡につぶやく。普通の人間同士の関係とは違って本音を隠す必要もなく、思ったことをなんでも話せるので気が楽だ。
「夢ねエ」
「私なんかさぁ」
「オッ、『私なんか』って言葉、いいねエ、そういうネガティブな感情、おいしいんだよねエ」
「おいしい?」
「そうだヨ。人面瘡ってのは、人間の後ろ向きな気持ちを食べて大きくなっていくんだからサ」
なるほど。どうして私に人面瘡ができたのか、わかった気がする。人面瘡にしてみれば、こんな自信も向上心もない私は、ごちそう製造機のようなものだろう。日に日に育っていくのは当然だ。
「あなたってさ、ほんと、いい宿主を見つけたよね」
「まあネ。そういった嗅覚だけは鋭いのサ」
「これからもどんどん大きくなっていくよ、きっと」
人面瘡に右腕全体を占領される日も、近いかも知れない。
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