人面瘡の育てかた
@tsuki-yomi
第1話
ピピピピピ! ピピピピピ!
ふいに鼓膜を襲った大音量に、ハッとして目を開けると、やわらかくてあたたかい輪郭だけを残し、今見ていたはずの夢が、霞んで消えていった。もう、片鱗さえ思い出せない。
うるさいなぁ、と毒づきながら、ノロノロと起きだし、目覚まし時計のボタンを押さえる。毎朝耳障りだけど、携帯電話のアラームではスマートすぎて目覚めず、ひとり暮らしを始めた当初は寝坊を繰り返していたわけだし、このうるささもありがたいと思わなければ。
まぶたが重いのは、寝る前にダラダラと観続けてしまった、深夜番組のせいだろうか。まあ、この気だるさは、今朝に限ったことではないのだけど。
シリアルと牛乳で軽い朝食を摂り、クローゼットへ。今日もシャツとパンツの工夫のないコーディネイトだ。大学デヴューの友だちには、しょっちゅう、
「ちょっとはオシャレしたら?」
なんて言われるけど、誰に見せるでもないのだし、ラクな格好が一番。
シャツの袖に右手を入れると、途中で引っ掛かってすんなり通らない。
「あれ? また大きくなった?」
右ひじにあるイボのような「デキモノ」が、日に日に膨らんできている。二週間くらい前に初めて気づいたときには、ほんの米粒程度の大きさだったはずなのに。
ため息をつきながらさわってみると、今朝は、ボタン電池くらいはありそうなほど育っている。もしかして、眠るたびに大きくなっていくのだろうか。
ひじの先端から少しはずれたところだから、普段は気にならないし、痛みもまったくない。でも、洋服を着るたび引っ掛かるのでは、時間のない朝などイライラする。
まだこれ以上大きくなるようだったら、病院に行って、切除するなり焼き切るなりしてもらったほうがいいかも知れない。
とりあえず入試で引っ掛かった大学に通いながら、なんとなく毎日をやり過ごしている私は、これといった将来の目標があるわけでもなく、打ち込める部活や趣味、そして特技もない。
楽しくないことはないが、お腹の底から笑うようなこともない。死にたいとも思わないが、積極的に生きているわけでもない。
青春の無駄遣いを自覚していたものの、だからといって、特にどうこうしようというあせった気持ちもなかった。
四月からはもう三年生だ。いい加減卒業後の進路を決めなくてはいけないのに、面倒なことはすべて先延ばししながら、貴重な時間をだらだらと浪費し続けている。
今日も朝起きて、朝食を胃に流し込んで、着替えてから家を出る。電車に乗り、大学で講義を受けて、学食でランチを食べ、また講義を受けてから電車に乗り、買い物をして、部屋に帰る。
これがデフォルト。本日も異状なし。
夜になって、湯船に浸かりながら、何気なくひじに触れる。イボが気になって、つい無意識に手がいくのだ。
そのとき、なにやら異変を感じた。
「あれ、イボが割れている?」
さらに大きくなったイボの真ん中近くに、亀裂が入っているような手触りがした。
いったい、どんな状態になっているのだろう?
ふと、この割れたところから分裂を繰り返し、だんだんと体中に増えていくような想像が頭を駆け巡る。ぞわぞわと恐ろしくなって、左手で右ひじを内側にひねり、目を凝らして見てみた。
「わっ、なにこれ!」
イボが、丸い顔のような形になっている。亀裂と思われたのは、その口にあたる部分だ。薄っすらと開いて、唇部分がゆるく盛り上がっている。目のような窪みは、眠っているように閉じていて、その下にブタの鼻に似た小さな穴がふたつ。
もしかしてこれは、『人面瘡』というやつだろうか。子どものころに読んだ、怪談本が頭をよぎる。
さらによく観察してみると、亀裂の両端が笑っているように上がっていて、少し不気味ではあるものの、愛嬌が感じられないでもない。
そこで、つい、
「人面瘡くん、こんにちは」
と声をかけてみた。
するとそのイボは、ピクピクと小さく震え、それと同時に、なにやら声のような音がした。
「ちょっと」
そう言っているように聞こえたのだけど。
「なんだ? 今の」
イボのほうからから聞こえたようだったので、さらにひじをひねり、じっくり見てみると、
「ちょっと、アンタ」
唇部分が動き、しゃがれた声で言う。
「えっ、しゃべった!?」
驚いて動けずにいると、目にあたる部分が、ゆっくりと開いた。といっても、糸ミミズを連想させるほど細い目だ。
「『こんにちは』じゃなくて『こんばんは』でしょうヨ。今は夜なんだからサ」
なるほど、確かに、と素直に思う自分と、これはいったい!? と混乱している自分がいた。
「あ、あの、あなた、生きてるの?」
なんとかそれだけ訊くと、
「生きてるっていうかサァ。ダメだよアンタ、気軽に声をかけちゃったりシテ。話しかけられた瞬間、人面瘡ってのは目覚めちゃうってことになってんだからサ」
言いながら、細い目をちろりとこちらに向ける。
そうか、それは知らなかった。私が不用意に目覚めさせてしまったらしい。
「あの、なんか、ごめんなさい」
「フム、まあいいサ。目覚めたところで、別になにかするってわけでもないしネ。あ、祟ったりもしないヨ。そこんところ、あんまり心配しないでいいからサ」
怪談話では、確か不幸を呼び寄せたり、人間を乗っ取ったりしていた記憶があったから、それなりに覚悟したのだけど、ずいぶんとやる気のない人面瘡だ。でも、不気味なわりに祟りがないなんて、かなり良心的だし、彼の言う通り、心配しないことにした。
その夜から、人面瘡との生活が始まった。
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