第33話 解放 02

 救出された男は水も食料もないオンボロの手漕ぎボートで数日間漂流していたらしく、意識が朦朧としていた。


 その体つきはひどくやせ細っており、服装もボロ布同然で、激しく衰弱していた。


 助け出され、医務室に運ばれる前にひと言、「ストーンアーム」とだけ口にして、そのまま気を失ってしまった。


「ストーンアーム……」


 報告を受けたグライフ船団長はその言葉を繰り返した。表情は固い。何かを思案して、副官のゴンズを伴い船長室に入っていった。


「ストーンアームとは何じゃ?」


 船長室の閉ざされたドアを横目で見つつ、レイロウが疑問を口にした。


 ジンに思い当たる節はなかった。


「アマン、何か知ってる?」


「たしかどこぞの島の名前だったと思いやすが……はて、どんな島だったか」とアマン。


 ふと周りを見ると、船乗りたちの様子がいつもより少し張り詰めていた。


 何か触れたくないものに触れてしまったかのような雰囲気が漂っている。


 ジンたちは顔を見合わせた――何かを察している船乗りたちの中で、ジンたちだけがそれをわかっていない、という空気。


「ねえ、ジン」


 ムウがジンの袖を引いた。


「なに、ムウ?」


「さっきのひと、あのままじゃ死んじゃうかも」


「え?」


 ちらりとしか見ていないジンの目からも状態は悪そうだったし、せっかく助け出されても手遅れだという可能性はある。だがすでに医務室に運ばれており、船医に任せるしかないのではないか。


 ジンはそう言おうとしたが、ムウはかぶりをふった。


「ムウなら、たすけられる」


 そう言うと、ムウは甲板を降りていった。


「あ、待ってムウ」


 少し遅れてジンたちもそれに続いた。


     *


 寝台の上に寝かされた男は幽鬼のようにやせ細っており、昏睡状態に陥っていた。


「脱水症状、栄養失調がひどく衰弱しきっている」船医は難しい表情で状態を説明した。「水は飲ませたが、このまま目を覚ますかどうか……」


「ムウにまかせて」


 ムウは身を乗り出し、精神を集中させた。


 手の中に一輪の清らかなピンク色のバラのつぼみがゲシュタルト化する。


「どうする気なのかや?」


 レイロウの問には答えず、ムウはそのバラを男の口元に差し出した。


「う……」


 男が呻く。バラの香気に当てられ、呼吸が乱れたようにも見えた。


 と、バラのつぼみの中から、一滴の雫がつう、と溢れ出た。雫は男の干からびた唇に落ち、そのまま口中に流れ落ちた。


 すると。


「うぅっ」


 男が再び呻いた。身体のあちこちが痙攣し、青白かった肌にみるみるうちに血色が灯る。


「あ、あ……」


 男の口が開き、はっきりとした声が漏れた。


 そして、目が見開かれた。


「こ、これはいったい……?」


 船医が慌てて男の脈を測った。先ほどまでとは打って変わり、しっかりとした心拍の働きが感じ取れた。


「ここは……?」


 頬のこけた男は、それでも意識を取り戻して声を発した。


「船の医務室だ。名前は? いったいなぜ漂流していたんだね」


「……ウォレス、です」声はかすれ気味ではあったが、十分聞き取れる発音だった。「漂流……僕は……その……そう、逃げ出したんです」


「逃げた?」


「はい……逃げて、ボートに乗って、それから……死にものぐるいで沖に出たんです……」


 ふむ、と船医はあごに手をやり、「逃亡奴隷か」


「……そう、ですね……ドレイ、そう……だから逃げ出したんです、あの……死霊の、島……」


 死霊の島。


「……ストーンアーム島から」


 男――ウォレスの顔に、恐怖の色が滲んだ。


     *


 ストーンアーム島は大陸中部の南洋に浮かぶ小さな島で、良質な魔石エーテルジェムを豊富に産出する鉱山島であった。


 そこは現在、七大魔公の一角”冥土王”ザンドが支配する土地となっている。


「そこでは各地から連れてこられた鉱山奴隷が働かされ、死ぬまで酷使されていました……いえ、それどころか死んだあとの方が”本番”だと言われていました」


 ムウからエーテルの雫を与えられたウォレスは、ベッドの背もたれに背中を預けて身体を起こせるほどに回復していたが、その口から語られる言葉は苦痛に満ちていた。


「まともな食事も、休みもなく、空気はひどく汚れていて……仲間は……僕と同じように島につれてこられた人たちは……次々と倒れていきました。死んだ……みんな死んでいった……」


 ウォレスは震えながら顔を覆い、涙をあふれさせた。


「……うう、死んだ……死んだはずの仲間は、次の日には生ける死体に、ゾンビ・ワーカーになって、帰ってきて……死んだまま働かされていたんです……」


 嗚咽を漏らし、ウォレスはやせ衰えた身体を苦しげに折り曲げた。耐えられないほどの苦痛の記憶が脳裏に蘇ったのだろう。


「僕は、偶然見張りが目を離した隙に逃げ出すことができました……でも船は全部アンデッドガレー船で……知ってますか、アンデッドガレー船……? オールを漕ぐのが全部生ける死体なんです……そんな船では、僕はどうすることもできず……とにかく生き延びるためにボートを見つけて、必死になって沖に出たんです。それからのことは……よく覚えていません……」


 ウォレスはすすり泣き、大きく息を吐いた。


「あの島は……悪夢です……何ひとつ救いがない……一度送り込まれたら死ぬまで……死んでも外に出ることはできない。使い潰されたゾンビ・ワーカーの崩れた身体から、青白い死霊が立ち昇るのを何度も見ました……うう、ひどい……なぜあんなひどいことを……!」


「わかった。もういい、話してくれてありがとう」


 船医はそう言って、しとどに涙を流すウォレスの肩に手を置き、ゆっくり休むように言い聞かせた。


     *


「どうするのじゃ?」


 ウォレスの話を聞かされ、レイロウは柳眉を険しくさせてジンに詰め寄った。


「……僕は」ジンは言いかけて、何かを飲み込み、それからもう一度口を開いた。「この船はグライフ船団長の命令で動いてる……僕の意志じゃどうにもできないよ」


「あのような話を聞かされて何もせず放っておくのかや!」


「わかってるよ、何とかしたい……何とかしたいけど……僕たちの使命は神樹の実の捜索だ。ストーンアーム島に寄り道していられる余裕があるのかどうか……」


「ええい、だったらわらわが直接船団長に談判してくる!」


 レイロウは業を煮やし、立ち上がって船長室へ向かおうとした。


 その袖を、ムウが掴んだ。


「なんじゃムウ? そなたもわらわに反対なのかや」


 ムウは、ふるふると首を横に振った。


「ムウがいく」


「え?」


「ムウが、グライフにはなす」


 少女の不思議な色の瞳は、決意の炎に燃えていた。


     *


 船長室の扉が勢いよく開かれた。


 会議中につき立入禁止と言って止めに入る船員を振り切り、ムウが扉を開けたのだ。


「……どうした、お前さんたちは呼んじゃあいないぜ?」


「はなしがあるの!」


 グライフの問に、ムウは胸を張って堂々と答えた。


「話?」


「うん。ストーンアーム島のこと」


「……なぜそれを」


「きいた。助けにいきたい」


 グライフはかすかに眉根を寄せ、「……ジンよ、どういうことだ。説明してくれ」


「は、はい……」ジンは遠慮気味にムウの背中から前に出た。「さっき救出された人は、ムウが能力を使って命をとりとめました。彼は……その、ストーンアーム島から逃げ出してきたと。それから島の状況を話してくれたんです。涙ながらに。そこでは人間が死ぬまで働かされ、死んでもゾンビ・ワーカーとして蘇らされるって。それを聞いたムウは……助けに行きたい、と」


 ジンの言葉を、グライフは固い表情を崩さないまま聞いた。


 そして深い憂慮の溜息をついた。


「……ストーンアーム島はザンドの一大拠点だ。魔石エーテルジェム鉱山とその精製工場が置かれ、そこではザンドが領地から集めてきた奴隷が劣悪な環境で強制労働に従事させられている。ザンドの使う屍鬼種の魔族どもは動かすのに霊力エーテルを必要とするからな、必然的にジェム産業には力を入れている」


「そこまでわかっておるのなら話は早い。成敗に向かおうぞ」


 レイロウが後ろからムウの肩に手を置き、きっとグライフを見つめた。


「ことはそう単純じゃない」グライフは会議室のテーブルに両手をつき、そこに広げられた海図に目を落とした。「重要な施設ってことは、当然警備も厳重だ。島には武装船が常駐し、魔導兵器も設置されて要塞化している」


「しかしこちらは私掠船団自慢の船が3隻も揃っておるのじゃ、なんとかなるであろ?」


「……ストーンアーム島の惨状はこれまでにも情報がなかったわけじゃない。それでも手出しできなかったのは、勝算がなかったからだ。どう計算してもこちらの被害が大きくなりすぎる。たとえ一時的にザンド派の魔族を追い出したとしてもオレたちに島を守り続けるだけの余力はない。おまけに今はお前さんたちを運ぶのが最優先任務だ。悔しいが、今はどうしようもない」


 グライフの声には苦渋の色が濃かった。


 ジンは察した――ストーンアーム島を解放しようという計画は、グライフたちもかつて何度も考えたことなのだろう。それでもいままで手を出しあぐねていた案件だったのだ。船乗りたちの間に緊張が走ったのも、グライフらが会議に入ったのも、避けてきた問題を改めて突きつけられたがゆえのことなのだろう。


「ムウがいく」


 そんな空気など関係なく、ムウが言い切った。その目はしっかりとグライフを見つめ、力強い輝きがあった。


「無茶だぜ?」


「むちゃでもいく。ムウが、みんなを助ける」


 ムウは譲らず、グライフは口をつぐんだ。そしてしばし瞑目してから、ジンを見た。


「ジン、お前さんはどう考える」


「はい……」ジンは少しためらってから、顔を上げ、「ムウが行くなら僕も行きます。無茶かもしれませんが、無理だとは思いません。ムウは勇者です。勇者なら……こういう時こそ立ち上がるはずです」


 会議室は静まり返った。


 普通なら不可能な、覆し難い状況である。だが勇者ならば。魔族を倒す最終兵器、円十字の神兵、人類の救世主たる勇者ならば、それを覆せる力を持っているはずだ。


 グライフは再び目をつむり、何かを見出して目を開いた。


「どう考えても危険だ。本来の使命を優先させるなら、オレはなんとしても止めねばならんところだろう。しかしエスメラルダ私掠船団は……最後の騎士団は……結局のところ勇者をあてにするしか道はない。その勇者ができるというならば……そうだな、従うしかないだろうな。わかった。行こう」


「グライフ!」


 ムウの顔がぱっとほころんだ。


「だがどうやって目的を遂げるかだ。この先の航海のことを考えれば、船を沈められることはもちろん上陸戦で人員を失うことも避けねばならん」


「ムウたちだけでいくよ」勇者の娘はきっぱりと口にした。「グライフたちは、えっと……魔族の船をじゃまする……おびきよせる……なんていったらいいの、ジン?」


「たぶん、こちらの魔導ガレオン船で敵の武装船を牽制すればいいって言いたいんだと思います。そうしておいて、僕とムウが島に上陸する」


 ジンの翻訳に、一同はうなずいた。


「だが島の守りはザンド派の魔族も念入りに固めているぞ。お前さんたちの力を信用しないわけじゃないが、どうやって突破する?」


「わらわも行く」レイロウが、自信満々に腕を腰に当てた。「手薄なところを探り当てることはお手の物ぞ。ただ、それだけではまだ決め手にはかけるのう。グライフ船団長よ、何かこう、ないのかや? 魔族を一度に吹き飛ばしてしまうようなものが」


「そんな都合のいいものが……いや、待てよ」


 グライフは、精悍な顔をニヤリと歪めた。


「あるのかや?」


「うまく行けば、な」


 人間の尊厳を取り戻すための作戦会議が始まった。


     *


 夜、ストーンアーム島。


 岩がちの小島には似つかわしくないほど立派な港があり、そこには異様な装飾を施されたガレー船が――船舷から何本ものオールが伸びている――2隻停泊していた。白黒の旗印は見間違うことのない”冥土王”ザンドを示すものだ。


 篝火とエーテル灯が炊かれた島内には魔族が使う堅牢な宿舎と見張り塔、そして大きな精製工場があり、あちこちに大型魔導砲が備え付けられ、武装した魔族が巡回している。魔石は重要な資源であるため、魔族間で採掘権の争奪が起こる。そのため防備は神経質なまでに厳重であった。


 人間の姿はない。


 いずれも島の地下に収容され、魔石の採掘に駆り出されているのだ。


 地下は粉塵と、干からびた腐敗臭に満ちていた。


 奴隷たちは顔の下半分を布で覆い、つるはしやスコップを振るっている。汚れた空気は容赦なく肺を蝕み、命を顧みない劣悪な採掘スケジュールで、誰もがやせ細り咳き込んでいる。


 そして、生ける死体が当然のように労働者に混じっていた。


 むしろ死人の群れに生者が参加しているかの如き状況である。


 奴隷は倒れても、監督する魔族に海水を浴びせられて無理やり起こされ、起き上がる力を失ったものは”処置”が施される。


 すなわち死霊術である。


 死してなお、ゾンビ・ワーカーとして働かされる。物理的に肉体が崩壊し、手足がもげるまで使い潰され、不要になれば海に投棄される。


 これがこの島の現実であった。


     *


 ジンたち特務班の面々は、”天上の駿馬ソブリン・スティード”号からボートを下ろし、ストーンアーム島へと漕ぎ出した。


「やれやれ、一難去ってまた一難ですな」


 ジンとともに夜の海でオールを操りながら、アマンが愚痴った。勇者のそばにいることのほうが安全だとは言ったものの、狼の口に飛び込むような作戦である。ひとこと言いたくもなった。


 それでもその危険に結局は同行するのだから律儀なものである。


「港の側には見張りが多すぎる。影になっている裏手に回るのじゃ」


 レイロウが指示を出した。島の全景を凝視しているその黒い瞳は、予知能力の発現で淡く紫色に光っている。


 ジンたちはオールを漕ぐ手を早めた。闇に紛れての作戦である。時間をかけていてはその分見つかる危険性が高い。


 夜の海の波のうねり、吹き抜ける風。ムウは癖のある銀髪を目立たぬようフードで覆い、レイロウを真似るようにじっと島を眺めている。


 果たして、ジンたちの作戦とは――。

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