39kgは重すぎる(14)
兄が家を出て行ってから数日が経った。
今のところ便乗殺人を計画した犯人たちが逮捕されたというニュースは入ってきていない。新たな御当地マンホール盗難事件も発生してはいないようだった。
兄は――未だに帰ってきていない。連絡のひとつもよこしやがらない。思いの外事件の解決に手こずっているのか、他によんどころない事情があるのか、それとも端から帰ってくるつもりなどなかったのか。いずれにせよ、家を出て行ってからの兄の足取りはあたしには全くわからなかった。
まぁ兄のことだから、どこかで野垂れ死にしてるってことはないと思うけど――。
意外にも父はこの事態を冷静に受け止めていた。母も肩を落としてはいたが、取り乱すようなことはなかった。どうやら兄は家を出る前に、父母に宛てて書き置きを残していたらしい。どんなことが書かれていたかは教えてくれなかったけど、彼らをして兄が家を出ていくことを受け入れざるをえないような内容ではあったのだと思う。
「じゃあ行ってくるぞ」「ご飯食べたら食洗機動かしといてね」
かくして両親が揃って仕事に出かけた後の他に誰もいなくなった川原家の居間に、今日も今日とて、兄の不在を受け入れきれていないあたしだけが一人、取り残されることになった。
「続いてのニュースです。昨日、
つけっぱなしのテレビから流れてくる平和なニュースを聞き流しながら、あたしは小さくかぶりを振る。受け入れきれていないのは、兄が戻ってこないことじゃない。兄が家を出て行った理由だ。
兄はあの日、美人さんたちがマンホール連続盗難事件に便乗した殺人を計画していると推理した上で、事件が解決したらその後で家に戻ると約束しようと言った。だが、本当に兄は真実を語っていたのだろうか――。
はじめに違和感を抱いたのは、書き置きを残していく手回しの良さだった。いかにも兄らしい周到なやり口だが、それだけに家を出ていくことが兄にとっては決定事項だったことが窺える。あたしとの推理ゲームが入り込む余地なんてなかったはずだ。
今にして思えば、推理ゲームの最中の態度も妙だった。あたしが自分の考えを整理している間、兄は一々混ぜっ返したりはせず、聞き手として振る舞っていたが、一度だけやけに饒舌になったことがあった。
――どうだろうな。俺や鮎のようにあの本を読んだことがある者にとっては『九マイルは遠すぎる』を想起させるフレーズだったかもしれないが、元ネタを知らなくても普通に出てきそうなフレーズだとも思うぞ。
――あの女が意図して『九マイルは遠すぎる』を真似たとするなら、『ましてや』とか『なおさらだ』という言葉をスポイルすることはないだろう。原付云々については言及せず、単に『39キログラムは重すぎる。歩きとなるとなおさらだ』とでも言う方がよほどらしいだろう?
あれはあたしを『美人さん=ご当地マンホール連続盗難事件の犯人説』という落とし穴に嵌め込むためのミスリードだったとは考えられないだろうか。あるいは、トラックが走り去って行った後の旧国道でマンホールに視線を向けたのも、要所要所であたしの推理を先取りするようなことを言ったのも、兄が仕掛けた罠だったのかも知れない。
そう考えると、兄の推理にも疑問が湧いてくる。そもそもあの美人さんが殺人事件を計画していたとするなら、わざわざグリーンデイズで大声を出して目立つような真似をするだろうか。もちろん同じことはあたしの推理にも言えるけど、殺人事件の計画なら一層注意を払わなくてはならないはずだ。いくらマンホールが耐えがたいほどに重たかったのだとしても、人前であんな狂態を晒すのはあまりにリスクが大きい。
ただ――兄の推理さえも誤りだとするなら、グリーンデイズでの一件の真相は何だったのだろうか? 兄は本当のところを知っていたのだろうか? ここのところ、あたしはそんなことばかり考えてしまっていた。
と、居間のテーブルの上に置きっぱなしにしていたあたしのケータイがブルブルと振動した。母からのメールだ。
『食洗器、忘れないでね』
ごめんなさい。すっかり忘れてました。
『すぐやります』
母にそう返して台所へ向かおうとしたところで、あたしはふと、
あいつなら――あの高校生連続転落死事件を解決に導いた少年探偵ならば、今のあたしが抱えているこの難問を解き明かすことだってできるのではないか。
あたしはケータイの電話帳を開いて、敷島の番号を表示させる。ボタンを押せば、きっとあいつは出てくれるだろう。そうすればきっと――。
――先だっての事件で、俺は罪を犯した。罪を犯したにも拘わらず、こうやって日常の中に戻って来た。戻って来てしまった。
通話ボタンに手を触れた瞬間、兄が別れしなに言った言葉があたしの中でリフレインした。
――俺だけが罪を償うこともせず、のうのうと生きていくことなどできるはずもない。
兄の罪――本来はあたしだってその一部を背負わなければいけなかったはずの罪。
あの事件の後、敷島はあたしと自分が『同じ』だと言った。自分たちが一人きりじゃなかったから、のんびりコーヒーを飲んでいられるとも。
でも、あたしは知っている。やっぱりあたしと敷島は同じじゃないんだと。結局のところ罪を償うこともせずのうのうと生きているあたしと、結局のところ罪を背負うことはなかった敷島の間には決定的な相違があるんだと。
ブルルルル……!
と、再びあたしの手の中でケータイが激しく振動した。ディスプレイに表示された『川原流』の三文字を見て、あたしはぐっと喉を鳴らす。
――いやでも待て。確か兄の電話番号は『なが兄』で登録していなかったか?
頭の片隅でそんな考えがよぎらないでもなかったが、あたしは電話に出るなり「なが兄?! 今どこにいるの?!」と吠え立てた。
「――川原さん」
電話の向こうから聞こえてきたのは、兄のそれとは似ても似つかない女性の声だった。
「え?」
「川原鮎さんの携帯電話で間違いないですか?」
その女性の声には聞き覚えがあった。
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