39kgは重すぎる(9)

 日中に八月の日差しを浴び続けたアスファルトは今なお熱を帯びていた。時折肌を撫でる風もサウナみたいに蒸している。熱帯夜という言葉が頭をよぎる。暗く、静かで、暑苦しい街を、あたしたち兄妹はどこへ向かうというわけでもなく歩き続けた。


「家を出て行くつもりなんだと思った」


 旧国道と県道が交わる五叉路が見えてきたところで、あたしはぽつりと言った。


「俺が? 川原家を?」


「そう」


「……鮎はどうしてそう思ったんだ?」


 小さい頃のあたしに勉強を教えるとき、兄はしばしば同じ台詞を口にした。大抵は答えを間違えているときだった。間違いを認めたくなくて『あってるもん』と無駄に意地を張ったこともあったっけ。


 今回もそうだと言いたいのだろうか。でも、あたしの推理には根拠がある。適当な思いつきというわけでは、ない。


「ラ・ヴォワチュールのタルト」


 いつまでも子ども扱いしてるんじゃない。そんな思いを込めて、あたしの推理の核となる根拠を口にした。


「ふむ」


「あの時、なが兄はわざわざ大きさまで指定していたよね。って。でも、四人で食べるんだったら三号サイズは小さ過ぎる。ケーキよりも高さがないタルトならなおさらね」


 ファミリーレストランの美人さんに引きずられて、あたしまで『九マイルは遠すぎる』的な言い回しになってしまったが、


「……どうしてなが兄は三号サイズを指定したのか。お父さんとお母さんとあたしの三人なら、それで充分だと思ったから。じゃあ、どうして自分を勘定に入れていなかったのか。答えは、ラ・ヴォワチュールのタルトを買いに行く頃にはもう、自分はもう家にいないことを知っていたから。あたしはあの一件でそんなことを考えたの」


「興味深い推論ではあるな」


「茶化してるの? 根拠なら他にもあるんだから」


「聞かせてもらおう。ただし、横断歩道を渡った後で」


 タイミングよく五叉路の歩行者信号が青になったので、あたしたちは人気のない旧国道を横切って、県道沿いの歩道へと足を進めた。


「グリーンデイズを出たときにさ。なが兄、お父さんとお母さんに『迷惑をかけて申し訳ありません』って言ったよね?」


「言ったな。それがどうした?」


「なが兄の性格からして、あれが過去の事件のことで迷惑をかけたことについての謝罪だったなら、『迷惑をかけて申し訳ありません』って言うと思うんだよね。でも、実際にはなが兄の謝罪は現在形だった。どうしてなのか。答えは――」


「今まさに迷惑をかけようとしているところだったから、か」


 あたしの言葉を先取りしたように、兄が言う。


「さっきの推論に比べるといささか強引な気もするが、仮に鮎が考えた通り俺が家を出て行くつもりだとして、動機は何だ? 俺のような厚かましく、恩知らずで、人の迷惑を顧みない人間がどういう理由で自ら望んで川原家を出て行くことに決めたんだ?」


 本当に厚かましくて、恩知らずで、人の迷惑を顧みない人間はそういうことを言わない。あたしはだから、確信を持ってこう答えた。


「ファミリーレストランでピザを頼んだのがあたしだけだったからだよ」


 一瞬、兄の表情が崩れたような気がした。でも、はっとして見直した時にはもう、兄の表情は穏やかだけど感情の捉えどころがない茫洋としたものに戻ってしまっていた。


「解説が欲しいところだな」


「なが兄、鰹のタタキ定食を注文する前にちょっと言い淀んだでしょ。あれって、最初はを頼もうとしたんじゃないの?」


 ――カ……いや、鰹のタタキ定食で。


「お父さんが頼んだハンバーグサンドも、お母さんが頼んだスープパスタも、メニューだよね。あれでなが兄は気づいてしまった。川原家にはもう、昔のように家族でピザを分け合うような結びつきはないんだって」


 仮にあの場で兄がピザを頼んでいたら、あたしだけでなく父母もそのことに気がついてしまっただろう。


「なが兄はそれを取り繕うために、ピザを頼むのをやめて、グリーンデイズのメニューの中でシェアするのに最も不向きなものを頼むことにしたんだと思う」


「ないんじゃない。俺が壊したんだ」


 兄は特に気負った風でもなくあっさりとした口調でそう言った。


「だから出て行くことに決めた。そういう自白なのだと受け止めて良いんだね?」


「いや。それはどうだろうな」


 兄がかぶりを振って言ったので、あたしは思わず地面を蹴りつけてしまった。


「この後に及んでとぼける気?」


「とぼけるも何も、鮎の推理はほとんどが心証に基づくもので、確たる証拠と言えるものは何もない。面白い推論だとは思うが、それが真実であるかどうかは別の話だ」


「そんなこと言ってまともな反論を避けてる辺りはそろそろ証拠とみなしても良いと思うんだけど」


 あたしが言うと、兄は唇の端を曲げて小さく笑った。


「だったら反論を試みてみよう。例えば最初に鮎が指摘した三号のタルトの件だが、あれは父さんのことをおもんばかってのことだとは考えられないか?」


「お父さんのことを? 何で」


「昔は砂糖をたっぷり入れたコーヒーが大好きだっただろう? なのにここ数年ブラックばかり飲んでいるのは、血糖値を気にする必要があるからだ」


 あっ、と声が出そうになったのは想定外の反論だったからだ。あたしは両手を強く握りしめて、何とか「そんなの初耳なんだけど」と言い返した。


「まだ血糖値を気にしなければならない程度で治療が必要な状態というわけではないから、鮎には言ってないんだろう。それで可愛い娘が4号サイズのタルトを均等に切り分けてくれたなら、健康に一抹の不安を抱きつつも笑ってぱくつくのが男親というものだ」


 男親になったこともないくせして、よくもまぁとわかった風な口を利くものだ。でも、父が妙なところで見栄を張ろうとする性格なことは、あたしもよく知っていた。


「それから、そうだな……俺が父さんと母さんに現在形で謝罪したのは、あの事件のことで今なお迷惑をかけていると思ったからなのかも知れない。結果的に無罪放免ということになったとは言え、引きこもりの息子が殺人事件への関与を疑われて逮捕されたという事実は消せないからな」


 いけしゃあしゃあと言って、兄は足先の感覚を確かめるように、二、三度右足をぶらつかせた。


「じゃあ、料理の注文の件は?」


「あれは鰹のタタキ定食と頼もうとした際に噛んでしまっただけなんじゃないか?」


 的外れな反論だとは思わない。あたしの推理よりも筋が通っている部分もあるような気さえする。だけど、兄の反論には最も重要なピースが欠けていた。


「――あたしはなが兄の話をしてるんですけど」


「うん?」


「さっきから反論と称して仮説を持ち出しては『考えられないか』とか『かも知れない』とかそんなことばっかり言ってるけどさあ。あたしの推理が間違ってるんだったら、そう言えば良いじゃない。それができない時点で、信憑性皆無だと思わない?」 


 そう言って、あたしがきっと睨みつけると、兄は案外あっさりと負けを認めた。


「騙されないか。さすがに」


「現にこうやって人目を忍んで外に出てきているわけだしね」


「オーケー、わかった。俺が少しの間、川原家を離れるつもりだということは認める。もしかしたら、少しどころではなくなるかもしれないことも認めよう。だが、んだ。俺は別に家族への罪の意識でこういうことをしてるわけじゃないんだ」


「動機が違う? 他にどんな理由で――」


 家を出る気になったのと、そう言い終わるより先に兄は言った


「事件を解決するためだよ」


「事件? 一体何の、どういう事件よ」


「決まってる。昼間のだ」

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