39kgは重すぎる(8)
その夜――あたしは明かりを消した自室でベッドに寝転がって、じっと天井を見つめていた。
時刻はおそらく十二時近く。いつもなら十時前に就寝するあたし――「今どき中学生だってもっと遅くまで起きてるって!」山辺清乃(談)――にとってはかなりの夜更かしだが、部屋を暗くしても布団に包まってもちっとも眠気が来ないのだ。
理由ははっきりしていた。ファミリーレストランでの出来事についてついつい考え込んでしまって、考えれば考えるほど目が冴えてしまうのだ。
「ええい、くそう」
あたしは部屋の明かりを点けると、立ち上がって本棚に手を伸ばした。青い背表紙に白い文字で『九マイルは遠すぎる』と書かれたその文庫本は、何年も前に兄の部屋から勝手に持ち出してそれっきりになっていたものだった。
『九マイルは遠すぎる』はアメリカのミステリー作家、ハリイ・ケメルマンがものした安楽椅子探偵ジャンルの短編ミステリー集だ。表題作の『九マイルは遠すぎる』は、探偵役のニッキィ・ウェルト教授が、友人の『わたし』がひょいと頭に思い浮かんできた短いフレーズから推論を積み重ねていき、驚くべき真相へとたどり着くというもので、ミステリー好きの間では「論理のアクロバティック」の代表例として有名なのだそうだ。
あたしはページをぱらぱらとめくってそのフレーズを見つけると、声に出して読み上げた。
「九マイルもの道を歩くのは容易じゃない、ましてや雨の中となるとなおさらだ」
でもって、ファミリーレストランで美人さんがスマートフォンに向かって叫んだ台詞は、確かこう。
『やっぱり39キログラムは重すぎるって! 業務用の原付スクーターでも使うってんなら話は別だけどさあ!』
偶然と言うことは考えにくい。美人さんは間違いなく『九マイルは遠すぎる』のエピゴーネンだと思う。でも、だとしたら彼女はどうしてそんなバカげた真似をしたのだろう。ましてや店中に聞こえるような大声でなんて。
――ひとつ。美人さんは怒っていた。
――ひとつ。美人さんは39キログラムのものをどこかに持ち運ばなければならなかった。
――ひとつ。美人さんにとって39キログラムのものをどこかに持ち運ぶのは、当初から予定されていた行動だった。
安楽椅子探偵に倣って『39kgは重すぎる』の謎について考察を始めたあたしだったが、すぐにこれは違うと気がついた。
あたしの心に引っかかった棘は美人さんの狂態ではない――兄だ。
――カ……鰹のタタキ定食で。
最初の違和感は、兄が料理の注文をしたときに良い淀んだことだ。あれは兄らしくない態度だった。それでふと思ったのだ。ひょっとして兄はマルゲリータピザと並ぶあの店の定番メニューであるカルボナーラ風ホワイトソースピザを頼もうとしたのではないか、と。
――久々にみんなでラ・ヴォワチュールのタルトを食べるというのはどうかな。
第二の違和感は、母に「他に何か欲しいものはある?」と問われたときに兄が口にした答えだ。あのとき兄は、明らかにおかしなことを言っていた。
――迷惑をかけて申し訳ありません。
極めつけは、ファミリーレストランを出た後の一幕だ。あの時兄は過去形ではなく現在形で父と母に謝罪した。それらが意味するところはおそらく――。
あたしは考えるのを止めて、耳に意識を集中させた。隣の部屋――高校時代に兄が使っていた部屋で、釈放されてからの数日間も兄はここで寝起きしている――のドアが、微かにではあるが軋んだ音を発てたのだ。
しばらくして、誰かが階段を下りる足音が聞こえてきた。家族に気取られないように、踵を浮かせて歩いているのだろう。息を止めて注意深く聞いていなければ気づき得ないくらいの小さな音だった。
――足が悪いってのに、何でそんな無理をするんだ。
あたしは小さく息を吸い込んで、覚悟を決める。
嫌な話をしなければならない、と。
やがて、玄関ドアがゆっくりと開き、また閉じる音が聞こえてきた。あたしはすぐにパジャマから学校指定のジャージに着替えると、流星の速さで階段を駆け下り、家を飛び出した。
兄を見つけるのにさほど時間はかからなかった。あたしは早足でその背中に追いつくと、低い声で尋ねた。
「どこにいくつもり?」
これも予想されたシナリオだったのだろうか? 兄はゆっくりとあたしの方を振り返ると、穏やかに笑って言ったのだ。
「どこにいくつもりだと思う?」
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