砂糖菓子のパラソルでは寄り添えない(10)
正木先輩と別れてから十五分後――私は再びの生徒会室で、パラソル型のキャンディーをぼんやりと眺めていた。
午後の授業はとっくに始まっているのだけれど、どうしても教室に戻る気にはなれず、人生で初めての
キャンディーをつまみ上げて、包みを開ける。赤い。舌先でそろりと舐めると、微かなイチゴの香りとむせるような甘さが口内に広がった。
――ずっと前に名取に聞いたことがあるんだ。
正木先輩は一つだけ私に嘘をついた。あの問いを名取先輩に投げかけたのはずっと前のことではない。つい昨日のことだったに違いないのだ。
――決まってる。正木さんは校舎を出てから少なくとも一度は傘を差したんだよ。
敷島君の指摘は正しい。正木先輩は学校を出る時には傘を差していたのだ。そして、その中にいたのは彼だけではなかった。
確たる根拠といえるものはないかも知れない。しかし、伏線ならばあった。私はキャンディーの日傘に歯を立てながら、今朝の名取先輩とのやり取りを思い出す。
――そう言えば、普段は自転車通学ですよね。今日はどうかしたんですか?
――レインコート……いや、雨具を忘れたのさ。
彼女は何故わざわざ言い直したのだろう。先に雨具と言ったのを、より正確な情報を伝えようとしてレインコートと言い直すのであればともかく、その逆というのは明晰な名取先輩らしくない。否。明晰な名取先輩がそうしたのであれば、そこには相応の理由があると考えるべきなのだ。
――私の判断ミスだよ。
名取先輩はそうも言っていた。だから私は気づくことができた。彼女はレインコートと傘のことを指して雨具と言ったのだ。傘を忘れたことは自転車通学を断念した理由にはならないが、彼女が判断を誤ったと思う理由にはなりうる。
私は想像する。昇降口で一人途方に暮れる名取先輩の姿を。その背中に折りたたみ傘を持った正木先輩が声を掛ける姿を。短くも長くもないやり取りの後で一本きりの傘を分け合って、バス停へと向かう二人の姿を――。
商店街までくれば雨に打たれることはない。雑貨屋で傘を買い求めることもできるだろう。だから正木先輩は名取先輩をバス停まで送っていった後で、来た道を引き返して、五十海ゼミナールへと向かい――建物に入ろうとしたところではたと気がついたのだろう。
自分の制服の半分だけが濡れていて、もう半分がほとんど濡れていないことに。
あの折り畳み傘では正木先輩ひとりでも窮屈そうだった。二人であの傘を分け合ったなら、傘から遠い方の側が濡れてしまうのは避けられない。
正木さんはその不自然な濡れ痕を他の塾生に見とがめられたくないと思った。濡れ痕から誰かと相合傘をしていたことに感づかれることを恐れた。その誰かが名取先輩なのではないかと勘繰られることだけは避けたかった。
恋人を作る意志も資格もないと言い、望んで一人でいようとする名取先輩を尊重するが故に。故に――彼は雨の中を踊った。不自然な濡れ痕を自然な濡れ痕の中に消し去ってしまうために。そうして、充分雨に打たれた後で、五十海ゼミナールへと入っていったのだ。
かり、と乾いた音がしてはじめて、私は日傘のキャンディーに先端をかみ砕いてしまったことに気づく。
もっと早く気づいてもよかった――というのは雨傘の問題のことである。少なくとも敷島君が『こういう問題の機微は俺にはよくわからない』と言った時点で気づいても良かったはずだ。聡明な彼に苦手な分野があるとすれば、まず恋愛だろう。もっとも当の名取先輩と正木先輩は、二人の間に恋愛感情があることを否定しているのだけれど。
私は砕いたキャンディーの破片を舌先で転がしながら、昔のことを思い出す。
──君が老松さん?
一年と少し前。初めて生徒会室を訪れた私を待っていたのは生徒会に入るよう誘ってくれた名取先輩とは似ても似つかない大男――正木先輩だった。
──あの、名取会長は?
──職員室に寄ってから来るそうだ。すぐ来るから座って待ってなよ。
正木先輩がそう言って微笑みかけたのはよく覚えている。それで『与謝野晶子の人だ!』と思い出したのも。彼にしてみれば、初対面の後輩女子に怖がられないようなるべく気さくに声掛けをしたつもりだったのだろうけど、残念ながら私には逆効果だった。
──結構です。私、外で待たせてもらいますから。
それで私は本当に生徒会室を出ていき、名取先輩が来るまで室内には戻らなかったのだ。
私の無礼な振る舞いについて正木先輩がどんなことを思ったのかはわからない。ただ、それからの一年間、彼の私に対する態度には遠慮めいたものがあったように思う。軽薄そうにみえても、奔放そうにみえても、私のことはどこか腫物を触るように扱っていた。
その気遣いを、私は余計に腹立たしく思っていた。ただ軽薄であるだけなら、ただ奔放であるだけなら、ここまでは腹立たしくなかっただろう。
そしてまた、正木先輩は優れた副会長でもあった。正確さや緻密さが求められる書類づくりこそ得意ではないにしても、話し合いをまとめるのが上手く、名取先輩も彼の調整能力には大いに助けられていたはずだ。
その能力を、私は余計に腹立たしく思っていた。私にはできないやり方で、彼にしかできないやり方で、名取文香の生徒会を支えてきたからこそ、ここまで腹立たしいのだろう。
しかし私が一番腹を立てているのは、正木先輩に対してではなかった。もちろん、文芸部の後輩に対してでもなければ、名取先輩に対してでもない。私だ。私は正木先輩に対して一度としてまともに向き合ってこなかった自分に腹を立てているのだ。そのくせ、勇気を振り絞って正木先輩の告白した後輩のやり方にケチをつける自分にも、告白を受け入れなかった正木先輩のちょっとした気遣いのなさにむっとしてしまう自分にも、正木先輩の本心をわかっているはずなのにそれをさらりと躱して泰然としている名取会長のことをずるいと思ってしまう自分にも。
小さな折り畳みの雨傘でさえも、寄り添うことはなかったのだ。私が頭の片隅で微かに思い描いていたような砂糖菓子の日傘のようなストーリーでは寄り添うことなどかなうはずもない。わかっている。名取先輩にかなうとは思わない。自分の正木先輩に対する思いがかなうとも思わない。それもわかっている。にも関わらず私は今、じんじんするような悔しさを噛みしめている。
そして気づく。かなわないままの自分でいたくはないと思っていることに。成長してやる。いつか名取先輩とも互角でやりあえるような自分になるために。いつか正木先輩が口説かなかったことを後悔するような自分になるために。
でも――今は駄目だ。今の私にはまだ、糖分が必要だった。
私は口の中に残っていたキャンディーの残りを噛み潰すと、すぐに二つ目の包みを開けにかかった。
【了】
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