8月の物語
She has an encumbrance.
39kgは重すぎる(1)
嫌な話をしなければならない。
兄の話だ。
あたし、
その兄――
兄の逮捕を機に、県警は事件の全貌を解き明かそうと徹底的な捜査を行ったそうだが、ついに兄が事件に関与した決定的な証拠を掴むには至らなかった。事件に関与した者たちが揃って兄の無実を主張し、兄自身も黙秘を貫いたためだ。兄の勾留期間は再逮捕に次ぐ再逮捕で二ヶ月近くに及んだが、静岡地検が下した結論は『嫌疑不十分のため不起訴処分』というものだった。
そして兄は川原家に帰還した。先週のことだ。
「今日からは流が好きなごはんをたっくさん作らなくちゃね」
あの日、兄を迎えに行く車の中で、母は目に涙を浮かべてそんなことを言っていた。
「俺や鮎のことも気遣ってくれよ」
そう言って苦笑いを浮かべる父だったが、兄が戻ってくることを心から安堵し、また、喜んでいたことは疑いようがなかった。
警察署の駐車場に車を止めると、二人はすぐに署内へと向かった。あたしは父の車の助手席に残った。今更どんな顔をして兄と接すれば良いのかわからなかったのだ。ついていてこなければ良かったとさえ思っていた。
八月下旬の日差しは容赦なく街を茹で上がらせる。父はあたしのためにクーラーをつけたまま車を離れたが、それでも首筋や脇の辺りがじわりと汗ばんでくる。あたしは母が用意してくれたペットボトルのお茶に口をつけると、暑さを紛らわせるようと、カーステレオの音量を上げた。
「では次のニュースです。今月に入ってから五十海市内でマンホールの盗難が相次いでいる事件について、この一週間でさらに二件の盗難被害があったことが警察関係者への取材で明らかになりました」
あの事件、まだ続いてたんだ。タイミングよく地元のニュースが流れたきたのでついつい聞き入ってしまう。
「盗まれたのはいずれも五十海市のマスコットキャラクターとして知られる『フジ美さん』を意匠として用いたご当地マンホールで、警察では転売目的での盗難とみて捜査を進めています」
転売目的かぁ。あんな重たいものをよく盗むものだ。しかもフジ美さんデザインって。あたしだったらお金もらったって引き取りたくないけどなぁ。
フジ美さんは市の商工会議所がいっときのブームに乗っかって作ったゆるキャラで、五十海市の市花である藤の花と不死者である
コンセプトの時点で胡乱さを隠しきれていないが、キャラクターもヤバい。頭身が高く、すらりとした立ち姿。藤の花咲き誇る艶やかな和服。極め付けは紫紺の御高祖頭巾に顔全体を覆う白い仮面。デザインした人には申し訳ないが、あれはゆるキャラではない。もっとおぞましい何かだ。
学校でも「何あれ怖い」「どうしてああなった」「窓に!」「夢に出てきたらうなされそう」「何かのイベントで頭を撫でられた子供が泣いてた」「窓に! 窓に!」等々手厳しい意見が多い。転売が目的ならわざわざフジ美さんのマンホールを選ばなくても良いのにと、ついそんなことを思ってしまうのは多分あたしだけではないはずだ。
でもまぁ一人だけ「芸達者だし案外可愛らしいところもある」と言って携帯電話の待ち受けに採用することにした変わり者がいたっけ。ひょっとしたら意外な需要があるのかもしれない。
「続いては特集です。社会の超高齢化が進む中、認知症高齢者等の徘徊が問題になっています。今日は徘徊対策に地域をあげて取り組んでいる葵市の事例を――」
そう言えばしばらく会っていないなと、変わり者の顔を思い浮かべたところで、トントンと誰かが運転席側の窓をノックした。父だった。
「すぐ来るぞ」
短く言って、車に乗り込む父。待って。まだ心の準備が――。
がちゃり。
母に続いて後ろの座席に乗り込んだ兄は、最後に会ったときよりもずっと痩せていた。鎖骨が浮き出た肩まわり。お腹のラインに沿って落ちくぼんだポロシャツ。ハーフパンツから突き出た足も以前の半分ほどの太さになっている。髪は相変わらず長かったが、まめに洗っているのだろう。以前のような不潔な印象は受けない。ただ、今朝は髭を剃る時間的な余裕がなかったのだろう。顎のあたりに無精髭がぽつぽつと浮いていた。
「鮎――」
助手席から肩越しに様子を伺うあたしに、兄は黒々とした大きな瞳を向けて、言った。
「お前にも迷惑をかけたな」
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