砂糖菓子のパラソルでは寄り添えない(6)

 翌朝、がたがたとゆれるバスの中で、私はずっと考えごとをしていた。


 考えごとというのはもちろん、正木さんの奇行についてだった。


 ――彼は何故、降りしきる雨の中で傘も差さず、くるくると踊るように回っていたのだろう?


 あの時真っ先に考えついたのは、勉強疲れでおかしくなってしまったのではないかという説だった。正木さんは最近になって志望校を以前より偏差値の高い大学に変えたのだと言っていた。後輩の私に「少々目標を大きく持ち過ぎた」と泣き言をいうくらいだ。決して楽観できる状況ではないのだろう。それだけに、彼の心労がどれほどのものか、二年生の私には量りかねるものがある。


 一方で、正木さんが受験勉強のストレスで参ってしまうなんてことがありうるのかとも思うのだ。私が知っている彼は、楽観主義者でおよそ繊細という言葉とは無縁な人だった。先代生徒会長から難しいミッションを任された時も「何とかなるさ」と笑って引き受けるのが常だった。それに、あの時の正木さんの表情が受験勉強で疲弊しきった人のものだとはどうしても信じがたい。やはり、勉強疲れ説は正しい答えではないだろう。


 続いて考えたのは、正木さんは別段勉強疲れでおかしくなったわけではない――あれが、素の姿であるという説だった。私が知っている彼は、陽性の人で、それが度を越すと突拍子もないことをやってしまう人でもあった。


 正木さんの同級生なら納得しそうだけど、やはりこれも正しい答えではないだろう。与謝野晶子の件もそうだが、正木さんの突拍子もない言動は、基本的に彼にとって楽しいことを追及した結果である。確かにあの時の正木さんは笑みを浮かべていたが、それはユーモアやジョークとは縁の薄い笑みだったように思う。あれは……何といえばいいのだろう。強豪校との試合を前にした東高サッカー部員が浮かべるような強い意志に満ちた挑戦的な笑みだった。


 と、そこまで考えて、ふいに思い出したことがあった。傘のことである。


 あの時正木さんは、折り畳み傘の中ほどを生地ごと握りしめていた。もちろん傘は閉じていたのだけれど、折りたたまれてはいなかった。使うときと同じようにシャフトがめいいっぱい伸びていて、先端の骨も真っすぐになっていたのだ。生徒会室を出る時にはまだ、傘は折りたたまれていなかったのに――。


風守かざもりー、風守ー、止まります」


 車内に響き渡るアナウンスで、顔を上げる。普段は乗り降りする客がいないため素通りする停留所だ。降車ボタンは押されていないということは乗客か。私は何となくステップに視線を向けて、「え」と小さく呟いた。


「おう、常日ツネ


 私のことをそう呼ぶのは一人しかいない。絹のようなという比喩がぴたりとくる漆黒のロングヘアをなびかせて、英単語帳を片手にバスの車内へと入ってきた美人は、誰であろう先代生徒会長の名取なとり文香ふみかだった。


「名取先輩じゃないですか」


 少し前まで彼女のことを会長と呼んでいたこともあって、言いなれない感じがあるけれど、うっかり前の呼び方をしようものなら「しゃんとしろ、現会長」と笑われてしまうことだろう。


「隣、良いか?」


「もちろんです」


 車内はガラガラだけど、名取先輩なら大歓迎だ。私は奥に詰めて、彼女の席をつくった。


「ありがとう」


 名取先輩は微笑んでそう言うと、英単語帳をバックにしまって、私の隣の席に腰かけた。


「読んでいてくれても良いんですよ?」


 時期が時期だ。さすがに受験生の邪魔をするのは気が引ける。


「いや、やめておく。久々のバス通学だからと手に取ってはみたけれど、やっぱり私には集中できる時に一気呵成にやる方が私には合っているようだ。それに……」


「それに?」


「車に酔いやすい性質なんだよ」


 いたずらっぽく笑う。普段知性的かつ男性的な話し方をする分、こういう笑い方をすると同性の私からみてもチャーミングだと思う。正直、羨ましい。


「そう言えば、普段は自転車通学ですよね。今日はどうかしたんですか?」


 尋ねてから愚問だということに気がついた。昨日の夕方はそれこそ雨だったのだから、自転車を学校の駐輪場に残してバスで帰ったとしても不思議はない。


 名取先輩も私が自分で答えにたどり着いたのを察したようで、苦笑いを浮かべて「レインコート……いや、雨具を忘れたのさ」とだけ言った。


「災難でしたね」


「天気予報は見ていたんだから、私の判断ミスだよ。こういうところで間違えるようでは、受験本番が思いやられるな」


 東都国立大学文科一類――国内最高峰の大学、文系の最難関とされる科類が彼女の志望先だった。


「先輩なら絶対大丈夫ですよ」


 こういうことを軽々に言うべきではないというのは私だってわかっている。しかし、名取先輩はなのだ。学力もすごいが――校内の学力試験では、ただの一度も首位の座を他人に明け渡したことがないらしい――学力だけのことではない。彼女はやろうと決めたことは必ずそれをやりおおせる有実行の人だ。生徒会のメンバーとして名取先輩の後ろ姿を追いかけてきた私は、その点について全面的に彼女のことを信頼している。どれほどの難関校であっても、不覚を取るとは思えなかった。


「合格だけならな」


「え?」


 思わず聞き返した私に、名取先輩は笑顔を見せる。先ほどとは異なる少しの可愛げのない不敵な笑みだった。


「――私の目指すところは主席合格なんだ」


 相変わらず私には思いもつかないような大きなことを口にする人だ。奇をてらってのことではない。名取先輩にはそれが自然なのだ。叶わないなと思う。さっきみせたあのとても可愛らしい笑顔も込みで。


「呆れたか」


 私がぽかんと口を開けたまま黙っているのをどう勘違いしたのか、名取先輩は目を細めて言った。


「いえ、そんな」


 圧倒されましたというのが正直なところだけれど、それを口にするのはいかにもお追従めいてる。


「……昔から、ボーダーラインギリギリを狙うというのが苦手でな。つい、必要以上に目標を大きくしてしまう癖がある。こういうことではいけないと思っているのだが、性分というやつでな。なかなか止めることができないでいる」


 名取先輩は目を細めたまま唇の端を歪めてみせる。それで私は敬愛する先代生徒会長が自嘲しているのだということにようやくのこと気がついたのだった。


「生徒会でも私のこの性分のせいで、お前たちに随分と大変な思いをさせてしまったな。今更ながら、すまなかったと思っている」


「やめてくださいよ。私は『名取文香の生徒会』に入って良かったと思っていますよ」


 大変なことなど何もなかったなどと言うつもりはない。しかし、それで後悔したことは一度もない。名取文香の生徒会は今もなお変わることなく私のほまれだった。


「ふふ、嬉しいことを言ってくれるじゃないか」


 また、名取先輩が笑った。先ほどとはまた違う、屈折したところのない――あるいは、屈折したところを巧妙に消し去った――朗々たる笑みだった。そうしてそれから先輩は、ふと思い出したように自らのセーラー服の袖口を鼻先に近づけて、くんくんとにおいを嗅いだ。


「どうかしましたか?」


「わざわざ浴室乾燥機まで使ったのに、まだちょっとくさいような気がしてな」


「気にしすぎですよ」


「だと良いんだが」


 風守から数えて三つ目のバス停で、東高生の一団が乗り込んできた。中にはジャージ姿の者もいる。きっと昨日の雨で制服を濡らしてしまったのだろう。かくいう私も今日着ているのは近所の東高OBから譲り受けたスペアである。


「生徒会のほうは順調か?」


 バスが再び動き出すと、名取先輩が何気ない口調で訪ねてきた。


「難しいことを聞きますね」


「別に難しくはないだろう。素直な気持ちを聞いているんだから」


「……前と同じようにとはいきませんが、それでも今いるメンバーで何とかやっていますよ」


 きっと私の答えには大なり小なりつよがりの成分が含まれていたのだろう。名取先輩は「そうか」とも「がんばれよ」とも言わずに、窓の外をちらりと見た後で「まぁ、お前もあまりひとりで抱え込みすぎるなよ」と呟いたのだった。

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