第2話 オレたちにはシェレールが必要だ

この街は盆地ではあるものの標高が比較的高い.おそらく年間通じて湿度も高くならないので蒸し暑いと感じる日はあまり多くない.だからその日がとても蒸し暑い日だったことははっきり覚えている.いま思えばJがリサイクルショップで出会ったあのドラムマシンがその蒸し暑さを連れてきたかのようにも思えたが,そんなことに気がつくのにまだ時間がかかることをその時は気づいていなかった.


あのドラムマシンが出す音を初めて聞いた日だ.


「これアナログ回路じゃないみたいだから,あんまり気温とか湿度とか関係ないんじゃないの?」

「Lはさ,あんまりこういう系の楽器に馴染みがないだろうからピンとこないだろうけど,今日みたいな日はこの手の電子楽器は調子がいい気がするんだ」


Jが初めてドラムマシンを持ってきたあの日,電源はオンになったものの,結局ハムノイズの減衰とともに電源はそのまま落ちてしまった.それ以来何度か電源を入れるのを試してはいるのだが,あの日のようにオンにはなるがそのまま落ちてしまうことが続いていた.内蔵されているバッテリーの充電電池が切れたのではと推測してみるものの,そもそも電源アダプターを接続できるようなジャックもない.そして電池ボックスのフタのようなものもない.あれからJは自宅で分解して中身を覗いてみたらしいのだが,今まで見たことがないような作り方がされていて電源ユニットさえよく分からず,かろうじてアナログ的な処理で発音する楽器ではないことぐらいは理解できたらしい.あのJがだ.


「おそらくだけど,楽器の専門メーカーが作ったものではない気がするんだよな.電子楽器の場合,ノイズ対策でこういう設計は絶対にしない」


深夜のファミレスでJは紙ナプキンにメモしながら丁寧に説明してくれたのだが,それが丁寧な説明なのかさえも自分には理解できなかった.


「けど電源が入っただけだけどさ,気味が悪いぐらいにノイズが出ないんだよ.これは本当に不気味」

「ホントはもっとノイズが出てもおかしくないってこと?」

「まあそういうことだな」


それが先週末の話.それから2,3日してJが例のドラムマシンを持ってこのアパートへやってきた.今日みたいな日に試すといいはずという根拠が乏しい理由と一緒に.


「あとさ分解してるときに気がついたんだけど… ここにほら,文字かすれちゃってるんだけど『DemoSong』ってボタンがあってさ」


Jはドラムマシンのスライド式電源スイッチの逆にある側面をこちらに見せながら興奮気味に話した.


「大体こういうのってダサいに決まってんじゃん」

「まあそうなんだけどさ この年代… おそらく80年代半ばから後半ぐらいだと思うんだけど,この年代の機械にはほとんどデモソングって載ってないんだよな」

「そうなんだ」


正直Jのその話には興味がなかった.それだけじゃない.このドラムマシンがどんな音を出すのかさえあまり興味が持てなくなっていた.リサイクルショップで手に入れたもので興味が湧いてそのテンションが長く続くものといえばローランドのスペースエコーぐらいしかない.


「まあお前がこの手の機材にそんな興味がないってのは分かってるけど,お,来た来た」


例のドラムマシンに視線をやってはいなかったが,何度か聞いたあのハムノイズが聞こえたのでいつものように電源がオンになったことはすぐに分かった.しかしいくら「気温と湿度の条件がいい」という根拠のない好条件だとはいえ電源がオンになったんだな以上のことは感じなかったのだが.


「うわ なんだこれ!」


鳴った.


鳴ったことでこのドラムマシンにスピーカーが載っていることも一瞬で理解できた.しかし,しかしである.


「マジかよ…」


例のドラムマシンは得もいえない時間の揺らぎにからみつくようなシルキーな感触でキックの音色を連打した.そして音が太い.500ミリ秒ほど前に知った「このドラムマシンにはスピーカーが載っていてそこから音が出ている」という事実を消し去ってしまうぐらいに音が太かった.まるでスピーカーとJとLの聴覚器の間には空気が存在せず,そしてその振動を一切介さず自らの第一聴覚野に直接リーチしてくるような感覚さえあった.いや,事実そうだったのかもれない.さらにキックの連打につづいてスネアが打ち鳴らされた瞬間,目では直接見ることのない閃光を感じた.JもLもである.二人ともあまりの衝撃に言葉を失っていたものの,Jがゆっくりと口を開いた.


「これ直接脳で鳴ってるよな…」


その真偽は分からない.ただその表現がJとLの感じたものとその場の状況を一番的確に表わす言葉だったことに間違いはなかった.その言葉で思わず二人は吹き出した.どこがおかしかったのかそれさえも分からない.


「しかもこれ機械でも人力でもない感じがする… これどうやって演奏するのか見当もつかないんだけど…」

「クオンタイズ」

「ん? なに?」

「クオンタイズだよ」


MIDIシーケンサーには「クオンタイズ」という機能が存在する.これは演奏データを再生したときに,そのタイミングのズレを補正する機能のことである.通常タイミングは合っていなければならないものの,タイミングがあまりに完全に合っているとかえって機械的で不自然に聞こえてしまうため,逆にタイミングをズラしたりする用途で使われることもある.


「たださ,クオンタイズがメチャクチャなんだよね.打ち込みでこれは普通あり得ないよ.不可能」

「どういうこと?」

「シーケンスじゃこんなことできない.シーケンサーは同じものを繰り返すだろ? これは厳密に繰り返しじゃない.これがシーケンスだったら無限の長さのシーケンスを準備しないと不可能」

「つまりチューリングの仮想機械みたいなのじゃないと無理ってこと?」

「そう.それにこれ,中古のゴミみたいな機械だぜ」


「中古のゴミみたいな機械」その言葉を聞いてLは鳥肌が立った.


***


気がつくと音は止んでいた.どのぐらいの時間それが鳴っていたのかもよく分からなかった.アパートの部屋の窓からは朝日が差しこんできて,Lの額に光の筋をそっとのせた.鳥の声も聞こえる.


「朝になってんじゃん」

「ああ」

「大丈夫か?」


二人で作業に熱中していて,気づかないうちに朝になってしまうことは今までもよくあった.しかし今日のこの感じは今までとはなにかが違う.まるでDAWソフトでオーディオトラックを途中で無理矢理カットされ,どこか違う場所へペーストされたかのようにぽっかりと空白ができてしまったかのような感覚だった.


「よくわかんないんだけど」


Jがゆっくりと口を開いた


「これ使ってさ,トラック作りたいって」

「うん.全くおなじこと考えてた」

「デモソング? あれ鳴った瞬間さ,バスドラが連打されて,なんていうかこう… グワーッときてさ,なんだっけ? あれ思いだしたんだよね,Lの好きな曲」

「I Didn't Mean to Turn You On」

「そう,それそれ」


「I Didn't Mean to Turn You On」は1984年にジミー・ジャムとテリー・ルイス(Jam & Lewis)のプロデュースでシェレールが歌い,R&Bチャートインしたヒット曲だ.R&BのプロダクションにローランドのTR-808という伝説的なリズムマシンをごく初期段階で持ち込み,ブラックミュージックにおけるサウンド変革のきっかけとなった曲としても知られている.この曲がヒットした後Jam & Lewisはジャネット・ジャクソンのプロデュースで大ヒットの成功をおさめ,90年代に渡って多くの人気アーティストをプロデュースし一躍トップスターとなっていく.


「歌ものかぁ」

「いっそおれたちが歌う?」

「バカいえ」

「ラップならできるかな? Jay-Zみたいにさ」

「ムリムリ こんな田舎にビヨンセなんていねえよ」

「けど…」


Lの額にあった光の筋はやがてゆっくりと下へ移り,その眩しさに我慢できなくなったLはすっと立ちあがり窓のほうへ近づいた.遠くのほうで新聞配達だろうかスーパーカブのエンジン音が聞こえる.カーテンを開けながらLは気怠い声でつぶやいた.


「オレたちにはシェレールが必要だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マジックリアリズム・エレクトロ・ファンク @nbqx

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る