獣の王
あの紅の蝶が舞う夜の翌日、彼女が施してくれた知恵は、僕が希望を持つには十分すぎる
それは、僕にもうひとつの魂を宿すこと。そして僕は、リンチェの兄によって与えられた魔法の力で死後の魂の器を作った。
僕の命が絶えたとき、僕の体は獣に作り変えられるという
そして、奥の手というのは、分裂させておいた魂を僕の死後、獣となった僕に移すというものだった。
「魂を分けるには、それ相応の代償を支払わなければならない。例えば誰かのために命を捨てる呪いをかけられている…とかね」
「命を捨てることが呪いの条件なら、魂をまた入れなおすなんて反則みたいなものじゃないのか?」
「命を捨てることを条件にして叶える願いで、
リンチェの望みを愛する人の死と引き換えに叶えるのなら、リンチェが愛する存在の生存を望めばいい。
ただし、人としての命を奪われるのは確実だけどね」
魔を司る存在たちのルールは、魔法の存在しなくなった世代の人間である僕には良くわからなくて困る。
僕が考えあぐねていると、ヘマムはわかりやすく「人間として生きるのを捨てて獣としてあんたはリンチェと添い遂げればいい」とまとめてくれた。
僕は、あの時泣き出しそうなリンチェに微笑んで彼女の兄の髪の毛に包まれた。本当はどうなるかわからなかった。
男の癖に怖くて震えそうな自分を必死で抑え付けて最期かもしれない彼女に精一杯微笑んで見せた。もし、ヘマムの言ったことが嘘だったり、彼女の願いが僕との生涯ではなく、国の再興だったとしても、せめて僕を彼女が殺したのではなく、僕が進んで贄になったと思ってもらえるように…。
体が浮く感覚がしたかと思うと目の前が青く染まり体の内側から痛みと熱さが襲ってきた。
これが死ぬということか…と諦めて、せめて悲鳴なんてものはあげないようにと歯を食いしばろうとしたとき、不思議なことが起きた。
僕は僕の体から抜け出し、リンチェの兄の作り出した髪の毛の塊をつき抜け、空に浮いていたのだ。魂だけ浮いている状態とでも言えばいいのだろうか。
足元に、僕の体があるはずの場所を眺めている烏頭の男やリンチェの兄、それにヘマムと泣き崩れるリンチェが見える。
「王女エルリリーナの愛する人間の命を此処に清算として受け取る」
と声が響き、「なるほど。これで僕の魂は死ぬのか」そう覚悟をしたとき、僕が二人に分かれ、一人の僕は烏頭の男が手にしていた銅のランプの中に吸い込まれた。
自分が二つに分かれるという貴重な体験をした後、僕は足元をものすごい強さで引っ張られ、燃えている黒い髪の毛の塊の内側へと戻された。
またあの熱さと痛みを味わうのかと辟易したが、熱さは感じなかった。不思議に思ってみてみると、僕の体は白銀の毛皮で覆われており、その毛皮が炎をはじいていたのだった。
そして、僕は今こうしてリンチェの隣にいる。
驚いているような様子の烏頭の男を睨み付け、僕は頭を低くして唸り声を上げた。
鴉頭の男は銅のランプの中身を確かめるかのように振る。ちゃぷちゃぷと液体のはねる音を確かると、落ち着きを取り戻した様子で僕とヘマムの顔を見比べた。
「なるほど。そういうことですか…。
確かに、契約への介入でも契約違反でもないですねえ…」
鴉頭の男は、ククッと喉を鳴らして笑うと足元に落ちているリンチェの兄の頭を拾い体の方へと放り投げた。
リンチェの兄の体から髪の毛がワサワサと植物のように伸びてきて頭を捉えると、そのまま頭を引き寄せ繋がっていく。
操り人形のようにぎこちなく立ち上がったリンチェの兄は僕とリンチェを光のない目でじっと見つめてきた。
「エルリリーナ…お前の…願いは…」
色を失った唇が動き、掠れた声が響く。夢で聞いた声と同じだった。
僕に抱き着いていたリンチェは、さっきまで怯えていたのが嘘のように凛々しい表情を浮かべながら兄を睨み付けると僕の顔の横に立った。
「私はリンチェ。山猫の姫」
リンチェの瞳は爛々ときらめき、瞳孔は月のように真ん丸になっている。怯えているわけではなく、自信と威厳に満ちた姫として立派な姿だと思った。
僕が、もう自分は王子ではなくなったからそう思えるのかもしれない。
「アウルム様のお陰で私は、この耳で音を聞き、心で
この醜い姿でも、この傷つけることしか出来ない両爪でも、彼は愛しいと、愛してくれると言ってくれた。
私は、もう滅んで名前も思い出せない国よりも…この人と…山猫の姫として生きていく」
そういったリンチェの体からは浄化の白く輝く炎が放たれ、その炎は彼女の周りをゆらゆらと漂っている。隣にいるはずなのに全然熱を感じないそれは心地よい暖かさと安心感さえ覚える居心地のよさだった。
「裏切ると…言うのか…私を…父を…母を…この国を…」
リンチェの兄の顔は、さっきまでの無表情とは違い、明らかな絶望の表情を浮かべている。
彼はずっと国の再興のために魂を鴉頭の男によって縛られていたのかと思うと胸が痛む。
同じ王族なのに国や民草のことを考えられない僕はやはり王子や領主なんて器ではないのかもしれないなと思いながら、哀れな古代の王の亡霊であるリンチェの兄を見つめた。
「進んだ時間は戻せない。滅んだ国は戻らない…エルリリーナも兄様が死んだあの時に死んだの…」
リンチェの兄は彼女の言葉が聞き入れられず、雄たけびをあげるとこちらに剣を振りかざしながら向かってきた。
その太刀筋は、愚直なほどまっすぐで力強かった。
しかし、その太刀筋も僕の毛皮の前では無力だった。無情にも剣は真っ二つに折れ、剣を投げ捨てた彼は髪の毛の束で槍のようなものを作り出した。
「せめて…私の手で安らかに…」
槍を僕に向かって突き刺そうとしたリンチェの兄は、エルリリーナが放った白い炎に呑み込まれる。
浄化の白い炎に包まれ、消える寸前の彼の眼は生前にあったであろう輝きを取り戻していたような気がした。
「さようなら…名前も思い出せないお兄様…」
そういって胸の珊瑚の飾りを抱きしめるリンチェに僕はそっと寄り添うと、まるで他人事のようにそこに立っている鴉頭の男を睨み付けた。
僕はそいつの頭でも噛み砕いてやろうと襲いかかったが、歯ごたえはなく、確かに狙いを済ませたはずのその位置から鴉頭の男の姿は消えていた。
「こわやこわや…私は契約違反の清算が出来たついでによい余興も見れたので退散しますよ…ご用命とあらばいつでも現れますので…」
「あんたなんて用なしだよ」
空に浮かんでそう言った鴉頭の男にヘマムは紫煙を吐きながら悪態をつく。
鴉頭の男は「ヒッヒ」と笑い声を残してスゥッと姿を消していくのを確認して僕たちはやっと安堵した。
できるならもう二度とあんな禍々しいものには出会いたくない…そう思った。
塔の上からは、雨露に濡れた中庭の草花が日光に照らされて輝いて見える。その横で山猫の姫、リンチェは複雑な面持ちで佇んでいる。
悪霊と化していたとはいえ、兄を自分の手で討ったんだ。おとぎ話のように悪者だけ倒してめでたしめでたしとは言えない。
僕は彼女の隣に寄り添い、頭を彼女の肩にこすり付けた。獣になった僕には、もう両手は使えない。
「アウルム様…ごめんなさい…私のせいでこんな姿に…」
「君と同じ呪われた獣の姿でこの先一緒にいられる。こんなに幸せなことはないよ」
僕はリンチェを抱きしめる代わりに彼女の腕の下に鼻先を潜らせそういった。慰めなんかじゃない。
本当に幸福に思えたんだ。
「今度は…私があなたに二本の足で歩くことから教えますね。
抱きしめてもらえないのは寂しいもの…」
「リンチェ…」
「一緒に…この城で暮らしていきましょう。王とその妃として。
王が身も心も獣では示しがつかないでしょう?」
彼女は僕の顔を見つめると、そう言っていたずらっぽく笑った。
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